嫌 悪

 ベッドは、いつもと変わらず、ふたりには狭かった。
 自分に触れようとする掌を、そうとは悟らせずに避けながら、タツの思惑に注意を払うことはせず、ただ機械的に先へと急ぐ。
 単に慣れているというだけの手つきで、半ば強引に躯の形を整えながら、タツの頭を後ろから押さえ付け、容赦なく躯を繋げる。
 まだ慣れない痛みに呻くのを無視して、その腕に一層力を込めた。
 だん、ちょぉ、と舌足らずに声がかすれる。その、稚なじみた声音に扇られて、息が速くなるのが自分でわかる。
 子犬が淋しがって鳴くような声が、タツの唇からもれ、同時に目の前が白く弾けてゆく。
 そのまま、力を抜いて、意識を投げ出した。


「オレにも、下さい。」
 気だるげに、タツが、吸っていた煙草に向かって手を伸ばしてくる。それに一瞥をくれて、黙って吸いさしのそれを手渡してやる。
 深々と胸の奥まで吸い込んで、うまそうに煙を吐き出し、それにつれて動くタツのみぞおちの辺りを、見るともなしに見ていた。
 首筋から胸にかけて、まだわずかに赤味がさしている。ふと、目眩を覚えて、引き剥がすようにそこから目を反らし、大きな動作でベッドを脱け出る。
 床に散らばったシャツを拾い上げるその背後で、タツが、驚いたように自分を見る視線を、痛いほど感じた。
 煙草を揉み消したらしい微かな音が聞こえ、振り向きもしないのに、タツが今、どんな表情で自分を見ているのか、手に取るようにわかる。
 わずかに寄せられた眉根。もの言いたげに、微かに開いた唇。頬の筋肉を、そうとは知らずに痙攣させながら、怒りを一はけ刷いた、悲し気な表情で、じっと見ている。
 置き去りにされる理不尽に憤りながら、けれど彼には何も言えない。まるで、言葉を持たない捨て犬のように。
 上着を肩に広げる頃に、タツがようやく言った。
「帰るんなら、オレ、送ります。」
 いい、大丈夫だ、と短く素っ気なく言い捨て、相変わらず、タツの方を見ようともしない。
 それでもせめて見送ろうとするタツが、慌てて身支度するのを、視界の端に引っ掛けて、もう、部屋を出るために玄関へ向かう。
「団長。」
 タツの声が追い掛けてくる。その、すがるような声音が、ふと気持を乱した。
 立ち止まって振り向くと、シャツも着けずにふらりと立ちつくす彼がいる。ほんとうに、捨てられた子犬のようだと、頭の隅で思う。
 ようやく視線を合わせると、それだけで安心したように、唇の端が緩む。
 こんな、心ない扱いをされても、まだ無心にまとわりついてくるのが、鬱陶しくもあれば、いじらしくもあった。
 自分の心を決めかねて、ふと、そんな彼から目を反らす。罪悪感が、顔に出てしまいそうだったので。
 戸惑いながら、それでもやっと思い切ったように、タツが両腕を伸ばす。首の回りに巻き付いてくるその腕を、避けることはしなかった。
 自分のものでない、躯の重み。さっきまで、自分が押し潰していた躯。踏み付けにされた痕跡は、けれどもうどこにも見えなかった。
「だんちょぉ...。」
 仕事の時とは違う、ふたりの時にだけ彼が使う、声のトーン。その甘えた響き。誰もその敬称を、そんな風に呼んだことはない。厳しさしか許されないはずなのに、タツがそう呼ぶと、まるで睦言のように響く。
 その心地良さを否定するために、不意に思いがけなく抱いてしまう、タツに対する愛しさを否定するために、タツの背中を抱き返すことはせず、代わりに軽く、ぽんぽんと叩いてやる。
「帰っちゃうなんて、団長、オレがひとり嫌いなの、知ってるくせに。」
 恨み言まで声が甘い。
 一刻も早く立ち去るべきだと、頭の中で声がする。でなければ、もっと抜き差しならなくなる。帰りたくなくなるのは、自分の方かも知れない。
「明日、な。」
 腕を解き、背中を向け、ドアを開ける。
 踏み出したその背中を、タツが追う。
 アパートの鉄階段を、静かにけれど足早に降りてゆきながら、タツの視線を背中に感じていた。いつもそうだ。姿が見えなくなるまで、時には見えなくなっても、そうして見送るのが、彼の習い性だった。誰に対してもそうなのか、それとも自分にだけなのかを、確かめようとしたことはない。
 わかっているから、決して振り向かない。
 角をふたつみっつ曲がってから、ようやく歩調を緩め、煙草を取り出す。彼にねだられる虞はもうない。
 煙と一緒に、胸の中に溜まった澱のようなものを、吐き出してしまおうとする。無理だとわかっていながら、そうせずにはいられない。
 サングラスを押さえ、大きく息をつぎ、ゆっくりと突き上げてくる苦い自己嫌悪が自分の中を満たすのを、自虐を込めて眺めやる。
 冷たい人間なのだと思う。人ひとり踏み付けにして、後悔しながら、けれどやめようとはしない。
 自分の気持がわからない。愛しさから始まったのだと、認めたくない自分がいる。認めるにはあまりにも、特殊な感情だったので。
 自分に対する憤りと怒りは、いつもタツの上に発散される。タツが求めているのはただの愛情だというのに、彼の手に入るのは、無視と冷たい視線だけだった。
 自分を受け入れたタツに対して抱いている怒りは、もちろん理不尽この上ないのだととわかっていて、それと同時に、一体何処までタツが自分の仕打ちを受け入れるのか、見極めてみたい気持が、その怒りを肯定してしまう。
 醜い自分を直視するのは、快感でさえあった。
 自分の感情さえ受け入れられないその弱さが、タツを傷つけることをそそのかす。対等に対峙する必要のない、劣った存在に、タツを貶めてゆく。
 自分がしているのは、つまりそういうことなのだと、きっちりと理解して、それでもまだ、タツを自分の餌食にすることをやめられない。
 汚いやり方だ。表の自分がいちばん嫌いな、卑劣な行為だった。けれど裏の顔は、止めようもなく、喜々として泥の中を這い回っている。もっと卑怯なことに、ひとりで這い回るつもりは毛頭なく、今はタツを道連れに、むしろタツの方が深く、その汚泥の中に沈み込んでいる。
終りはまだ見えなかった。
 物思いと自己嫌悪の淵から、ふと這上がり、吸い終えた煙草を、足下に投げる。
 靴先で、その小さな火を消す様が、何故か、自分の下で顔を歪めるタツを連想させて、また胸の奥が、ナイフで刺されたように痛んだ。
 見上げれば、雲。月は見えない。
 その時、こめかみの辺りで、いつかタツを殺すかも知れないという予感がした。それを笑い飛ばしてしまおうとして、けれど口元が凍り付く。

戻る