-た め ら い-


 眠れず、また寝返りを打つ。狭いベッドの中で、隣りに眠る彼を起こさぬよう、ついに思い切ったように起き出してしまう。
 小さな明かりをつけ、煙草に手を伸ばす。枕を抱えてうつ伏せに眠っている彼を、リキはそっと見つめた。
 いつもこんなに寝つきがいいのだろうかと、寝顔を見下ろして思う。
 驚きと不安と、そして恐らくは幸福感のために、自分は眠れないというのに、彼は寝息の気配さえないほど深く寝入っている。
 深く吸い込んで大きく吐き出す煙の行方を、目で追いながら、起ってしまったことをゆっくりと反芻する。できるだけ、詳細に。
 彼は上機嫌だった。酔っ払ってさえいた。陽気にはしゃいで、リキの肩を抱き寄せた。
 まるで背中を突き飛ばされたような勢いで、濁流に飲み込まれて行った。なだれ込みながら、怯えたように彼の背中を抱きしめた。しがみついていないと、どこかへ押し流されてしまいそうだったので。
 そうして、とろりとした蜜色の闇の中で、盲いた魚のように、ただ導かれるままに沈んでゆく。底のない、その深い海の底へと。
 ゆらゆらと揺れる意識と体の間で、幻のように目の前にあった、彼の胸の傷跡。白く光る、華やかに咲く大輪の花のような、その傷跡。思わず引き寄せ、歯を立てた。噛みちぎって飲み込んでしまいたかった。その瞬間を、夢でも嘘でもなくするために。
 繰り返す口付けの合間の囁き。耳朶に触れる呼吸。熱を帯びて、次第に潤ってゆくふたつの躯。掌の中に、確かにあった彼の肩と背中の骨。指と唇で、彼が数えた傷跡のひとつびとつ。
 けれど、思い出す端から不安にもなる。
 ただの気まぐれだったのかもしれない。誰かの代わりだったのかもしれない。
 確信は持てなかった。何の前触れもなく起ってしまったことは、何かの間違いかもしれなかった。
 いちどきりのことで有頂天になれるほど、もう子どもでもない。たとえこれが、そう頻繁に起るはずのないことだとしても。
 それでも、その一方で、これからずっとこんな風にふたりで時間を過ごせるのだと、もっと親密になれるのだと、そう思うのをやめられない自分がいる。ずっとそれを、心のどこか願っていたから。
 隣りの彼が、微かに動く。その拍子に上掛けがずれて、肩が剥き出しになる。見たことのなかった、彼の裸の肩と背中。大小様々、白あるいは薄い紅の、傷跡。恐る恐る手を伸ばし、そっと触れてみる。
 記憶のあるいくつかと、覚えのないいくつか。
 彼はまだ目を覚まさない。リキはもう少し大胆に、彼に触れた。
 覚えのある内の、ひとつ。右肩の後ろにある、一際大きな、白い銃創。
 誰を庇うためだったのか、もう覚えてはいない。犯人が発砲したその真正面に、ためらいもせず踏み出し、彼の右肩を貫通した弾は、そのついでに動脈をかすっっていった。早く救急車を呼べと、いちばん年嵩の刑事に怒鳴られたのを、リキ は覚えている。
 出血多量で、彼の顔はすでに蒼白だった。
 病院で、音も立てずに眠る彼を見下ろした時、リキは、何があろうと彼についてゆこうと決めた。刑事という、極めて理不尽な立場を、滑稽なほど真摯に貫こうとする彼の姿は、素直にリキの深い部分を感動させてくれたし、刑事という職業につきまとう迷いを、きれいに拭い去ってもくれた。
 だからこそ、魅かれたのだと思う。こんなにも、深く。
 刑事としての彼に近づけば近づくほど、今度は、素顔の彼を知りたくなった。時折、ちらと彼が見せる刑事ではない貌は、意外なほど無邪気で、可愛らしくさえあった。もちろんそう言えば、彼は憮然とするのだろうけれど。
 自分の気持に気付いた時、うろたえた後には開き直りがあった。どうせ、かなうはずもない想いだったので。
 そして今、彼はリキの隣りで、眠っている。こんなにも無防備に。
 自分が想う、同じ強さで想われていたのだと素直に喜べればいいのに、と思う。けれど誤解して、不用意に傷つくのがいちばん怖かった。
 こんなにももう、魅かれてしまっている。こんな風に触れ合ってしまった後で、どうやって以前のように振る舞えるだろう。
 2本目の煙草を吸い終わって、頭のなかに渦巻く雑念を追い払おうと、リキは軽く頭を振った。その拍子にベッドが軽く音を立て、彼が寝返りを打つ。
 起こしたのかと息を潜めたけれど、リキに背を向けてしまった彼は、それきり身じろぎもせず、相変わらずすやすやと眠っている。
 その様子に、思わず笑みがこぼれた。誰も、恐らく今のリキ以外の誰も知らないだろうこんな彼が、可愛らしく愛しかった。
 開き直っちまえ。
 やっと手に入れた時間を、無駄にする必要もない。彼が起き出すまで、もう少し時間はあるだろう、きっと。
 彼の背に重なるように、彼を起こさないように気を付けて、リキは彼に寄り添った。腕を回し、背後から抱きしめて、彼の肩口の辺りにそっと接吻する。彼の肌から、微かに、自分のものとは違う煙草の匂いがする。
 浅く緩やかにまた眠りに落ち込みながら、リキは彼の肌の暖かさを憶えておこうと、ふと思った。
 朝がまだ、もう少し遠かった。












 微かな物音に目が覚めた。あまり深く寝入っていなかったのか、驚くほど素早く、焦点が合う。
 首を回した目の前に、こちらに背を向けて、ネクタイと格闘している大門がいた。
 「団長。」
 寝起きのかすれた声で呼び掛けると、慌てたように彼が振り返る。
 「起こしたか?」
 心配したように訊く大門に、いいえと首を振って、ベッドから出るために、床に散らばったままのはずの服を探す。
 「起きなくていい、まだ寝てろ。まだ6時になったばっかりだ。」
 ちらりと時計に目をやると、彼の言う通り、まだ6時を5分過ぎたばかりだった。
 それでも、やっと見つけた下着とジーンズを手早く身につけると、リキは起き上がって、大門の傍に立った。
 彼はまだ、うまく結べないらしいネクタイと格闘している。
 暗いせいなのかと思いながら、けれど日の光ですでにほの明るい部屋の中では、彼の手元まではっきり見える。
 黙って、微かに微笑みながら、リキは大門の胸元に手を伸ばした。
 「ネクタイ結ぶの、ヘタですね。」
 怒ったのか、それともそんな至近距離で向かい合うのが照れくさいのか、大門はそっぽを向いて、
 「いつもこんなに下手なわけじゃない。」
 寝起きではない、もうしっかりとした、いつもの声。
 一晩床に放り出されたままで、くたりとなったネクタイは、それでもリキの手の中できちんと形を整えてゆく。まるきり、いつものように。まるで、何事もなかったかのように。
 ネクタイを結び終わると、大門は、それもまた床に放り出されたままのベストと上着を拾い上げ、ふとそこで動きを止めて、リキがたった今結んだばかりのネクタイを、何故なのか感慨深げに眺めやる。
 ベストを着け、上着を羽織る彼に、リキは訊きたくないことを尋ねた。
 「帰るんですか?」
 服を身に付けてしまうと、もういつもの彼だった。リキが夕べ知ったばかりの彼は、もうすっかり身を潜め、自分の上司である大門が、目の前に立っている。
 「ここから出署はまずいだろう。」
 そういった声音に、微かな照れが混じるのを、リキは聞き逃さない。
 そうですね、と、それでも失望の色は隠せずに、そんな自分の表情を隠すために、リキは時間を確かめる振りで、ベッドの傍の時計を振り返った。
 そこにぽつんと、彼の腕時計が残っていた。
 リキの視線でそれに気付き、彼が手を伸ばすより先に、まるで奪うようにリキはその時計を取り上げた。
 銀色の、ずしりと手に重い、彼の腕時計。手渡す代わりに、リキは目線で促し、彼の手首にそれをはめる。
 夜が、終わらなければいいのに。朝がずっと、来なければいいのに。目の前の、大門の手に触れながら、思う。
 かちりと、最後に止めた金具の音に、そそのかされたように、考えるより先に、言葉が滑り出た。
 「団長、俺に惚れてますか?」
 まだ彼の手首に触れたまま、それを見下ろしたまま、彼からは視線を反らしたまま。大門が自分を、射るように見つめているのを知っていて、リキは動かずにいた。
 一瞬の、ほんの一瞬の間の後、いつもよりは少し柔らかな口調で、
 「ああ、惚れてるよ。」
 彼が答える。真っ直ぐに、リキを見つめたまま。
 まだ、それでも張りつめたまま、ゆっくりと顔を上げ、リキはまぶしそうに大門を見た。
 「俺も、団長に、惚れてます。」
 視線を合わせたまま、とても大切なことを伝え合おうとしているのだとわかっていたから、
 どちらからも目を反らしたりはしなかった。言葉より何より、重なり合う視線が、すべてを伝えていたので。
 「知ってるよ。」
 あっさりと言った彼に驚く間もなく、彼の唇が、リキの唇をかすめていった。
 「遅刻するなよ。」
 次の瞬間にもう、大門は背中を見せて立ち去ろうとしていた。
 かける言葉も思いつかず、彼がドアの向こうに消えた後、リキはそっと自分の唇に触れた。
 彼の唇の温もりを、思い出そうとしながら。
 彼の足早の足音が、次第に遠ざかってゆく。

   戻る