つぶやき・・・
からん、と氷が優しい音を立てた。ふたり分の体温と室温に温められて、いつもより速く、グラスの中の氷は溶けてゆくように思われた。
もう少し、自分のグラスに色を足そうかと思案しながら、酔いの回った身体の中で、ゆらゆらと揺れている何かが気持ちよくて、動き出せずにいる。
大きな事件もなく、4、5人でカド屋へ繰り出した後、さて帰るかと腰を上げたのが、9時を少し過ぎた頃。
歩いて帰れば、ちょうどいい酔い覚ましだと、くるりと首を回した時、巽が、少しばかり口ごもりながら言った。
リキさんとこで、飲み直しませんか?
妙に、丁寧な口調で。
それにわずかに面食らいながらも、いやだとリキは言わなかった。
安モンのウイスキーしかねえぞと念を押しながら、ふたり並んで、歩調を揃えて歩き出す。
リキの、きちんと整頓された部屋に上がった途端、少しばかり肩をすぼめて、巽は居心地悪そうに、上目に部屋の中を見回した。
男のひとり暮らしに、華美さがあるわけもないけれど、代わりに、足の踏み場もない、というわけでもない。
そんな巽の様子に、彼の、あの、それこそ足の踏み場もない部屋を思い浮かべ、リキは、ひとりでくくっと笑った。
「ナニ、ひとりで笑ってんだか。」
巽が、頭の中を見透かされた照れ隠しに、わざとぶっきらぼうに言ってみる。それがまたおかしくて、リキは、酒を探すふりをして、巽に背を向けた。
「適当に座ってろよ。今、氷とグラス出すからさ。」
窓側の、ソファの傍の座卓を指差して、リキはさっさと台所に消える。
巽は、まだ居心地悪そうにうろうろした後、ようやくソファに腰を落ち着けた。
ウイスキーのボトルと、氷の入ったグラスを抱えて、リキが巽の正面に腰を下ろす。生のままのウイスキーを、そのままグラスに注ぐと、片方を巽の方へ差し出した。
ソファではなく、床に座ったままのリキを、巽は不思議そうに見る。グラスから一口すすりながら、彼の背後のソファを指差すと、リキは妙に太い声でそれに言い返す。
「おまえ、日本人はやっぱり床だろ。」
「せっかくのソファがもったいねぇ。俺、もらって帰っちゃおうかな。」
笑ってそう言いながら、巽も床に座り込む。それでようやく、リキと同じ高さになった目線を、巽は少しばかり宙に迷わせた。
煙草に火を点け、あれこれと下らないことに話題を変えながら、ゆっくりと酔いが回ってゆく。リキがゆるめたネクタイを外したのを見て、巽も、皮のジャケットを脱いだ。
先月、苦労して解決した事件の話で盛り上がった後で、ふと、会話が途切れた。
あえて言葉の接ぎ穂を見つけようともせず、リキは黙ったまま、自分のグラスに視線を当てた。
氷が溶けてゆくのが見える。時間の流れがそこに見えるような気がして、ふと目を細めてみる。酔ったかなと思った時、巽が不意にまた口を開く。
「俺、高校ん時に、すげえ好きな奴がいて、ほんとに、ついこの間まで、恋愛っていう と、そいつの顔が浮かぶくらい、そいつのこと好きで、多分ずっと、そいつのこと好きなんだろうなって思ってて。」
いきなり何の話かと顔を上げると、その先に、不思議なほど真剣な、巽の表情があった。
「俺、そいつに、10年で6回振られて、それでもあきらめきれなくて、ずっと、いつかきっと、俺のこと好きになってくれるんじゃないかって思ってて、ほんとについこの間、本気で結婚してくれって、言おうかとも思って、真剣に指輪とか捜して、でも俺」
「何の話だよ、一体。」
句読点も挿しはさまずに話し続けようとする巽を遮って、リキはそこで無理矢理に話を止めた。巽はそのままリキから視線を逸らし、グラスに残ったウイスキーを一気にあおる。濡れた唇をぐいと拭ってから、
「バカみたいだ、俺。」
そんな巽を横目に見ながら、リキもグラスの中身を一気に飲み干す。
うつむいて、黙り込んでしまった巽に、苦笑混じりの優しい視線を当てながら、リキは話の続きを促した。
「どしたよ、それで? またフラれたのか?」
1、2秒、巽が答えを渋る間に、両方のグラスをまたウイスキーで満たして、彼がまた口を開くのを、リキは辛抱強く待つ。
リキが、半分ほどグラスを空にした頃、巽がぽそりと言った。
「10年もおんなじこと言ってるのって、成長がないって、そういうのって全然話にならないって。」
相づちに困って、リキはふんと鼻を鳴らす。。
「まあ、そりゃ、その通りだろうけど、そう言われちゃ、身も蓋もないよな。誰かに惚れるって、理屈通りに行くもんでもねえし。」
そう言いながら、ふと頭の端をよぎった誰かの横顔を、リキは振り払うように、また一口、ウイスキーを流し込む。
誰かを想うのに、確とした理由はない。理屈でどうこうなるものなら、この世の中の問題の半分は修羅場にならずに解決するだろう。そううまくは行かないせいで、こうしてアルコールの手を借りることになる。
「俺、ダメなのわかってて、それでも忘れられなくて、もうあいつに電話するのやめようって、自分に誓って、でもどうしても、もしかしたらって思うの、やめられなくて、すげえ自分で未練がましいのがカッコ悪いのに、でも、俺、まだあいつのこと好きだ。」
つまりはそれが言いたかったのだと、言葉にせずに吐き出して、ようやく巽は息をついだ。
煙草に火をつけ、一服した後、リキはそれを、悄然とまたうなだれる巽に差し出した。一瞬考え込む顔つきの後、おずおずと手を伸ばし、巽はそれを唇に運び、胸深く煙を吸い込む。
「しょうがねえやな、そういうのは。次に惚れた奴ができるまで、忘れらんねえだろ。未練てのは、痛いやな。痛くて痛くて、いっそ自分のこと、撃ち殺しちまいたくなる。」
リキの目が一瞬遠くなったのを、巽は見逃さなかった。
身に覚えがあるのかと、巽は視線で訊いた。リキはそれには答えず、悲しげに薄く笑うと、持ち上げたグラスの向うに表情を隠してしまう。
「リキさん...」
リキの横顔から何かを読み取ろうとして、呼びかけたけれど、それ以上踏み込むのがためらわれて、巽もふと黙り込んだ。
ソファの上で寝息を立てている巽を、眺めるともなしに眺めながら、ボトルがほとんど空になりかけているのにも構わず、リキはまだひとりで飲み続けていた。
窮屈そうに、それでもその長身を長々とそこに横たえて、巽の寝顔はことさら稚く見える。
あんな風に誰かに、自分の胸の内を打ち明けられたらと、リキは巽の事情をうらやましく思っていた。
相手が悪すぎる。ひとりごちて、またグラスを口に運ぶ。
ふらりと視線が傾く。脳を浸す酔いを自覚しながら、どうにでもなれとなげやりに、残った酒でグラスを満たした。
空になったボトルから目を逸らすと、巽が床に放った皮のジャケットが視界に入る。ふと思いついてゆらりと立ち上がると、取り上げたそれを、巽の上にかけてやる。
痛くて痛くて、自分のことを撃ち殺したくなる------。
自分自身のことを言っていたのだと、巽にわかったのだろうか。ひとりで過ごす夜は辛すぎて、必死でその面影を振り払う。できないこととわかっていて、それでもそうせずにはいられない。
傍にいられればいいと、そう思っていた。それがかなった時に、今度は何を願うのか、その時は考えもしなかった。
彼にもまた、こんな想いにやるせなく過ごす夜があるのだろうか。相手が誰であれ、あの彼も、自分を殺したくなるこんな類いの痛みに、眠れぬ夜を過ごすのか。刑事である以外の貌を持つまいとする彼もまた、こんな時には隠しようもない、自分の素顔に戸惑うのだろうか。
今自分が、そうであるように。
彼が想うかもしれない相手のことを考えて、ちくりと胸が痛んだ。それが自分であることはありえない。願うことさえできない。架空の相手に対するつまらない嫉妬は、実体がないその分だけ、リキを苦しめる。
飲む酒も、吸う煙草も、もう残っていなかった。
眠っちまおう。そう思って、むりやりに、またひとつ重ねた空っぽの夜を終わらせることにする。
巽をそこに残し、明かりを消すために立ち上がった時、不意に巽が女の名を呼んだ。
寝言とわかっていて、それでも一瞬立ちすくんだ後、リキは夢でさえ名前を呼べない彼のことをまた思った。
団長、とつぶやいて、明かりを消すために腕を伸ばす。