Cinnamon Girl
「猫が死んだんだ。」Joshにそう言った時、Peteは、使い古した毛布にくるんだその猫を入れた小さな箱を見つめていた。
Joshは一瞬黙る。それから、小さなため息が聞こえて、
「それで?」
決して冷淡でも無関心でもない、けれど短い、どうとでも取れる問いを発した。
「庭に埋める。それから、そうだな、目印に石でも置いておく。」
両親の家の地下の、自分に与えられた空間で、居間に当たる場所に置かれたソファの上に、今Peteはひとりでいる。
「薬はちゃんと飲んでるか?」
14の時からPeteを知っているJoshは、他の誰も触れないところへも、きちんと思いやりを込めて触れて来る。その思いやりは、ごく親しい人にだけ通じるものではあるけれど。
Joshが訊いている抗鬱剤──幸いに、ごく弱い──の小さなボトルを思い浮かべながら、Peteは受話器に向かってうなずいていた。
「ならいい。」
普段は、Peteの心身の中身の状態になど関心はないという態度のくせに、肝心な時にはちゃんと何もかも知ってるんだと示して来る。
それを、今は鬱陶しいと思うと同時に、ありがたくも思う。Peteはソファに置いた腰を少し滑らせて、もう少し自堕落な姿勢を取った。
「苦しまなかったと思う。うめき声も聞かなかったし、痙攣もなかった。」
今はただ、見たすべて感じたすべてを吐き出してしまいたいだけの幼馴染に、好きなようににしゃべらせて、Joshは時折うなずくだけだ。
Joshも知っている猫だった。クリーム色の、少しつぶれた顔をした、瞳の無垢さをまったく失わない、おとなしい愛情深い猫だった。
農場をうろつく野良猫の母親に、体が弱かったのか見捨てられ、それを引き取ったPeteは、数日寝ずに子猫の世話をして、あれから20年近く、Peteの数少ない、心優しい友人のひとりになった猫だった。
いろんなものを見て来たはずだ。酒に酔って暴れるPeteも、連れ込んだ女とうまく行かなかったPeteも、Joshは知らないことになっているけれど、多分こっそりと連れて帰ったどこかの男とのことも、あるいは、バスルームで、カミソリで切り裂いたために血まみれになった腕や胸に向かって、大きな体を丸めて泣いている姿も、あの猫はすべてを見て来たはずだ。
そうか、とJoshは思った。人の言葉を解さないあの心優しい猫は、Peteの秘密を何ひとつもらさず、静かに死んで行ったのか。
馬鹿げたことだけれど、JoshはPeteが猫の後を追ってしまうのではないかと本気で心配する。物語の中に出て来る化け物ほども大きなこの男が、実のところ12歳の少女のように傷つきやすいと、ずっと知っているからだ。
ろくに顔も見えない、長い黒髪、そこから覗く、人を見下ろす無言の緑色の瞳、たいていの人間はPeteの見た目を恐れ、ある種の女たちは、Peteの服の下を想像して勝手に騒ぎ立てる。Peteはそのどの態度も気に入らずに、ひとり内側で、そんな風にしか見られないことに傷ついている。
今きっと、Peteは猫をうらやんでいるだろう。人間よりもずっと短い、食べて遊んで寝るだけの単純な人生を、そして"愛する誰か"がすがりついて、1分でも長引かせようと管や機械に繋ごうとする、そんなことのない猫の人生を、Peteは今心底うらやんでいるはずだ。
なぜ自分がこんな風に死ねないのかと、ただ静かに看取られて、死体はどこかへ埋められる。大仰な儀式はなく、泣き叫ぶ"愛する残された人たち"もない、とても静かな、そして荘厳な死だ。
取り乱さずに電話をして来たのは、かすかにある、Peteの男としての矜持──Peteの父親が叩き込んだものだ──がそうさせたのか。泣かれないことをありがたく思いながら、抗欝剤の効き目を同時に恐れて、Joshは、明日か明後日、様子を見に行った方が良さそうだと思う。
信じられないほど美しい音楽を生み出すこの友人を、Joshはあまりあらわにそうと示さないにせよ、心の底から家族以上に愛していたし、Peteがいなければバンドも立ち行かないという現実もある。そして、このことがまた、Peteの生む音楽に別の色と深みを与えるのだという、極めて冷徹な視線も、どこかにあった。
そんな自分を嫌悪するような無垢さは、もうJoshの中にはなく、会いに行った時には、もう新しい曲ができていて、Peteがそれを聞かせてくれるかもしれないと、態度には出さずに期待を抱く。
また新しい猫を飼えばいい。思ったけれど、口には出さなかった。それがどれだけ思いやりのない言い草か、Joshにさえわかるからだった。
「いつ埋めるんだ。」
代わりに訊く。Peteは、また箱の方を見る。
「明日の朝か、いつか・・・雨が降らないといい。」
「そうだな。」
いつもPeteのそばにいた、猫の姿を思い出す。はるか頭上のPeteを見上げ、足に体をこすりつけ、自分の体ほど大きなPeteの靴にかじりつき、その巨大な手が自分の頭を撫でるのに、おびえもせずに腹を見せる。ふかふかの、ほとんど白い毛に覆われた、柔らかな腹。猫の柔らかさは、人間の女とよく似ている。違うのは、他の男を引っ張り込んだり、他の男のためにこちらを殺そうとしたりしない点だ。
女と寝ることに恐怖はなくても、女そのものに対する優しい気持ちはあまりないJoshは、猫という生き物に対しても優しかった記憶はないけれど、Peteがとろけそうな表情で猫を可愛がる理由を、うっすらと理解はしている。
愛情の向かう先、自分に愛を向けてくれる対象を失うというのは、極めて個人的な出来事ではあるけれど、誰にとっても悲劇には違いない。
Peteが泣き出すまで相手をする気はなかったので、Joshは最後に、
「じゃあ、明日な。」
同情のためだという、そんな風にはとられないように、なるべく平坦な声で言って、電話が切れる。
明日、裏庭に、なるべく深い穴を掘ろう。誰かが掘り返して、死体にいたずらをしたりしないように、できるだけ深く、Pete自身が埋ってしまえるくらいに、深く。
土の下の昏さを思い浮かべて、Peteは目元を押さえた。死んだ後には、何もない。無だ。暗闇とすら認識できない、ただの無だ。
Peteがもう何年も望んでいるそこへ、彼女──猫のことだ──はやすやすと、ひとりきりで旅立ってしまう。
音もない、色もない、匂いもない、風も動かない、無に取り込まれ、無自体になって、彼女は彼女だった時の記憶を失くす。それは、とても素晴らしいことのように、Peteには思えた。
奇妙なことだけれど、両親にすら、猫が愛してくれたようには愛されなかったと思う。ただひたすらに、こちらに注ぐだけの愛。見返りは、あたたかな寝床と食事。こちらには、膝の上のぬくもりと胸の内のぬくもり。
愛してるわ。そう彼女が鳴く声を、Peteはいつだってきちんと聞き取っていた。
俺もだよ。
誰にも使ったことのない、ほんとうに優しい声で、Peteは箱に向かってそう言った。
上で足音がして、こちらへ通じるドアが開いた音がした。
「Peter、まだ起きてるの?」
イギリス訛りの消えない母親の声が、階段を下りて来る。
「もう寝るよ。」
大き過ぎない声を投げ、ドアが閉まった後で足音が静かに去ってから、Peteはやっとソファから立ち上がった。
箱を、両手でそっと取り上げ、そのまま自分の部屋へ向かう。最後の夜に、一緒に寝るつもりだった。今まで、Peteがいる時には、毎晩そうだったように。
明日掘る穴の暗さに、負けそうな気がする。そのまま生き埋めになってしまいたいと、そう思う気持ちに負けてしまいそうな気がする。
だからJoshは、また明日と言ったのだろう。Peteがまだ逝ってしまわないように。まだもう少し、先へ一緒に行けるように。
箱を、つぶさないように両腕で抱きしめて、Peteはそこに口づけた。生きている時には、いつだって冷たい鼻先をくっつける挨拶を交わしていたけれど、もうそれはかなわない。
愛してるよ。思わず、無音の箱に向かって言った。
わたしもよ。柔らかな声と同時に、足首の辺りを、ふわふわとした感触が、一瞬の半分にも満たない間撫でて行った、ような気がした。