Green Man

 眠れずにじっと、光る時計の文字盤をじっと見つめている。もう3時を過ぎていた。
 時計の傍には電話が置いてある。Johnnyはずっと、時計と電話を交互に眺めていた。
 こちらに向いた隣りの背中は、幸いに身じろぎもせず、健やかな寝息を立てて眠り続けている。
 Johnnyはついに、そっとベッドを出た。
 テレビに向かうソファに坐ると、右手のそこにも電話がある。真っ暗な部屋の中で、Johnnyはまた電話を見つめた。
 ソファの肘掛けに肘を置いて、指の先に額を乗せる。どこか陰鬱な表情の、眉だけが時々動いて、すかすようにまた電話を眺める。
 ほんの数週間前まで、時々深夜、ほんとうにこんな時間に、電話が鳴ることがあった。掛けて来るのは誰だか決まっている。
 現在形で、そう頭の中で考えてから、Johnnyは慌ててそこをやり直した。
 違う。もう現在形では語れない。掛けて来た、だ。それはもう多分、この先二度と起こらない。電話は鳴らない。黙ったまま、しんと静かに、見つめるJohnnyの視線を受け止めている。
 鳴らない電話は、何だか時限爆弾のようだ。いつ鳴るかいつ鳴るかと、何だかどきどきしながら見つめてしまう。鳴らないとわかっているのに、Johnnyはそれを受け入れられずに、じっと電話を見つめている。
 暗い中にぼんやりと見えた時計の小さな光は、そう言えばうっすらと緑だ。黒と緑の組み合わせが、またJohnnyを物思いの中に引きずり込んでゆく。
 いつまでもひとりだったあの男は、妻子持ちのこちらの都合などお構いもなく、午前3時に電話を掛けて来る。誰もが寝静まった真っ暗な家の中に、無遠慮に響く電話の音。他の誰も起こさないよう──無理に決まっているけれど──に、Johnnyは慌てて飛び起きて受話器を取り上げる。
 まだ半分寝たままの声で応えると、すっかり酔って、あるいはハイになって、呂律の怪しい低音が、電話を通すといっそう低く聞こえて来る。
 用があるわけではない。ただ夜の夜中、夜明けまでまだ間のある時間、眠ることもできず、朝まで待てず、孤独を分かち合う誰かを、彼は探していただけだった。
 JoshもKennyも相手をしない。そもそも電話に出ない。だから彼は──Peteは、Johnnyのところへ電話を掛けて来る。
 律儀に、どれだけ深い眠りを破られようと、不機嫌をきちんと押し殺して、JohnnyはPeteの相手をする。
 まれに素面の時には、たった今思いついた曲のメロディーを聞かせてくれることもあった。うっかり、Johnnyは笑う。どうしても本気で邪険にすることもできず、怒ることもできず、年上のこの大男を、なぜだか弟のように感じることさえあった。
 たまには、一体何に腹を立てているのか、怒鳴り散らしながら電話をして来て、今から自分の家に来いと言う。素手で殴り合いをしようと言うのだ。
 そいつは無理だなPete。勘弁してくれ。
 深夜だからというだけではなくて、多分喧嘩慣れなどしていないふたりがそんなことをしたら、互いに大怪我をするからだ。第一、PeteはJohnnyよりも30cm近く背が高い。おまけにウェイトトレーニングを欠かさない。
 死にたい死にたいと、常に繰り返すPeteが、抗欝剤とサプリメントを常用し、きちんと体を鍛えている──主には、周囲にいる女性たちのために──というのは、あまりに彼らしい冗談だった。
 薬か酒で、ある日死体で見つかるかもと、そう口にはせずに、皆で思っていた。Joshはその不安を隠そうともせず、バンドとの関わりを極力減らして、自分の人生は自分で守ると、そう言った通りに行動した。
 実のところ、Peteとはいちばん親(ちか)しいKennyは、Peteと同じような道を歩みながら、Peteほどは破滅的ではなく、Peteよりは幾分か幸運に恵まれている。
 Peteのことを考えながら、Johnnyはまだ、彼のことを過去にはできない。今にも電話が鳴りそうに、今にもあの低い声が、不機嫌にあれこれ文句を言い出しそうで、それを黙って聞く自分の耳の中に、今ならきっとあの声は心地よく満ちてゆくのだろう。
 あの声を聞くことは、もうかなわない。
 弾くベースの音よりも低い声。陰鬱な、聞いているだけで気の滅入りそうな、あの声。その声が冗談を言い、笑う。空気の凍りそうなジョークは、彼の十八番だった。
 自分を痛めつけるということにまったく縁のないJohnnyは、Peteの目にはひどく健やかに映ったらしかった。Pete流の冗談をすぐには解さず、基本的には何もかもを真面目に受け取り、世界の優しい部分になるべく心を砕こうとするJohnnyは、世界のすべてに意地悪な目を向け、皮肉まみれの冗談だけで会話をし、その合間に、これも冗談のように、本気の"早く消えてしまいたい"という願望を滑り込ませるPeteの生き方を、最後まで受け入れはしても理解はできなかった。
 けれど多分、理解できないJohnnyだからこそ、Peteは真夜中の電話の相手に、Johnnyを選んだに違いないのだ。
 Peteがナイフやカミソリで皮膚を切り裂くのを、何度か目撃した。やめろよと、最初の1、2度は言ったけれど、へらへら笑うだけのPeteを、これもへらへらと眺めている他のメンバーに倣って、Johnnyもすぐに口出しをやめた。自分の血を見なければ落ち着かない人間もいるのだと、Johnnyはそうやって受け入れることしかできなかった。
 自分よりずっと年上のPeteが、実のところほんとうに13、4の少女のように繊細で、そよ風にさえ傷つくような、そんな脆い心の持ち主だと気づいてから、彼の冗談も違う色を帯びて聞こえるようになり、彼の真意を汲み取れるようになった──と、Johnnyは思っていた──頃には、そんな少女めいた部分をさらけ出せる相手と認識されたのか、バンドの中にすっぽりとはまり込んだと同時に、全身を傾けて来るPeteを受け止める役にも据えられていた。
 拒む隙さえなく、はなからその気もなかったJohnnyだった。
 可哀想にと、そう思う自分の傲慢さを自覚しながら、Peteに同情するのを止められなかった。
 傷ついた犬か猫のように、怯えて尻尾を巻いて耳を伏せて、それでも差し出される手を拒めない。拒んで、見捨てられるのが怖いからだ。その手が、自分を傷つけると知っていて、それでもPeteは、ずっとその手を信じることをやめられなかった。
 かわいそうに。またJohnnyは思う。
 あんなに、愛に飢えた人間を、Johnnyは他に知らない。飢えて飢えて、与えられる愛ではとても足りずに、いつだって空の全身をさらけ出して震わせて、頼むから愛してくれと、無言で叫び続けていた。
 誰が彼のことを愛したのだろう。彼が求める通りに、誰が彼を愛せたのだろう。
 足りない愛を補うために、彼の愛は、酒や薬に向かう。あるいは、あたたかいひとの体。そして、裏切られるたび──裏切られないことなどなかった──に、Peteの声も歌も、艶やかな絶望を増して行った。
 苦しまなければ、何も生み出せない人間がいる。苦しみゆえに生み出さずにはいられないのか、それとも生み出すためにわざと苦しんでいるのか、Johnnyにはどちらとも見分けがつかない。苦しいと転げ回る大きな背中を、ただ黙って撫で続けていただけだ。
 電話は鳴らない。もう二度と、彼からの電話はない。
 Johnnyは、深く長く息を吸い込んで、ゆっくりと何度か瞬きをした。
 原因が、皆が長い間そう予想していたように酒や薬ではなかったことは、幸いなのだろう。恐らく眠ったまま逝ってしまったのだと、そう説明されたのは、Pete自身よりも、自分も含めた周囲の人間たちに幸いだったと、Johnnyは思う。
 せめて死ぬ時くらい安らかに。そんな死に方はPeteにはまるで似つかわしくないように思えたけれど、生きている間に苦しんだ量を思えば、そのくらいは許されるだろうと、そう思えた。
 愛する人たちが皆死んでゆくと、Peteが歌う。みんな大嫌いだと、Peteが歌う。誰が気の狂った人間を救ってくれるんだと、Peteが問い掛ける。みんな殺せ、死ぬのが怖いか、ろくでもない存在、Peteが歌い続ける。そうやって歌うPeteを、Johnnyはずっと後ろから眺め続けていた。
 そうして、Peteが最初に逝ってしまった。予想通りだ。けれど、覚悟していたよりも、それはずっと大きな衝撃として、JoshやKennyやJohnnyを襲った。
 世界は長い間、黒と緑に塗り潰されていた。緑を全部、Peteが持って逝った。世界は今、真っ黒にだけ塗り潰されている。
 かわいそうに。またJohnnyは思う。思って、また瞬きをする。
 はだしの足音が聞こえて、薄闇の中から声がした。
 「Johnny、眠れないの?」
 ベッドが空なのを心配して、探しに来たらしい。自分の隣りに腰を下ろす彼女の肩に、Johnnyは自分の額を乗せた。
 「また、Peterのことを考えてたの?」
 黙ったままうなずく。彼女のやわらかくてあたたかい手が、Johnnyの頬を撫でる。
 あたたかい肌。Johnnyが泣きたいと思えば、いつも手の届くところにいてくれる、あたたかい体。Peteが、ずっと欲しがっていたもの。
 Johnnyは、彼女の体に両腕を回した。
 電話は鳴らない。もう、深夜に起こされることはない。真夜中の繰り言に付き合う必要はなく、電話の最中に薬の過量摂取や酔っ払い過ぎで、Peteが失神してしまうのではないかと、心配する必要もない。あの大きな体を受け止め損ねて、自分が体を痛めるのではないかと、そんな心配ももういらない。
 それは、とても淋しいことだ。とてもとても淋しくて、悲しいことだ。
 彼女の手が、またJohnnyの髪を撫でる。
 Peteはひとりだった。いつもいつも、絶望的に、ひとりぼっちだった。
 かわいそうに。Johnnyは、口の中で小さくつぶやいた。
 彼はまるで、いつまでも子どもっぽいままの弟か、永遠に歳を取らない少女の、無知で無垢なままの妹のようだった。
 電話が鳴らない。もう永遠に、電話は鳴らない。
 緑と黒だけの世界は、今はもう黒ひと色だ。
 「泣きなさい。」
 彼女が静かに言った。まるで、そうやってJohnnyをここに繋ぎ止めているとでも言うように、いっそう強くJohnnyを抱きしめて、彼女が言った。
 髪を撫でるそのあたたかな手の動きに合わせて、目の奥が不意に熱くなる。Johnnyは歯を食い縛り、声を立てずに涙を流した。
 喉が震える。Peteが歌った時のように、Johnnyの喉が震える。そこから出る声は、Peteのそれとは似ても似つかず、あたたかな体を抱きしめて、あたたかな体に抱きしめられて、Johnnyは声を立てずに泣いた。
 電話は鳴らない。時計の、針の動く音だけが、どこかからかすかに聞こえて来る。Peteの歌う声を、Johnnyは耳の奥に探している。探しながら、泣き続けている。

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