Father's Day
別に、意識して忘れていようとしたわけではないけれど、そのためにと自分のところへ娘がやって来た週末、Nateは父の日のことをすっかり忘れていた。「パパ、父の日おめでとう。」
今では、Nateの胸の辺りに背の届く、けれど相変わらず華奢なままの娘が、後ろから抱きついて来て、おはようと言う前にそう言った。腰の辺りに回った腕の、片方の手には、どうやらカードの入ったらしい、大振りの封筒。
冷蔵庫の扉に掛けていた手をそこから外して、Nateは小さな娘の腕の輪の中でくるりと体を回して、父の日の朝、娘と父親は向き合って、平和な笑顔を交わした。
「おめでとう。」
また娘が言う。痛いほど首を伸ばして、自分を見上げているその小さな顔は、今では母親にそっくりになりつつある。去年までは、まだもう少し自分の面影が強かったように思うのに、もう子どもではなく少女になり掛けの彼女は、どうかすると時折Nateをどきりとさせるほど、大人っぽい表情を見せることが増えていた。
彼女と自分が出逢って恋に落ちた頃のことを、娘はほとんど強制的に思い出させる。この子が生まれた時から、その辺りの思い出は、それほどNateの胸を刺さずにいるけれど、それでも結婚を選ばずに、この子をいわゆる婚外子のままにしてしまったことを、Nateはいまだに胸を張って正しい選択をしたとは言えないでいる。
少し体をかがめて、Nateは娘を両腕で抱きしめて、頬にキスをした。うれしがってはしゃぐ娘の腕が振れて、首の下辺りに持っている封筒の角が当たる。それを大袈裟に痛がって見せると、娘はいっそううれしそうに笑って、Nateの腕を引いてソファの方へ連れて行こうとした。
娘にそうされるまま、ソファに腰を下ろし、軽く開いた片膝に娘を乗せ、やっとそこで手渡された封筒を、これもまた大袈裟に驚いて喜んで見せてから、丁寧な仕草で封を開ける。真っ白な封筒から出て来る真っ白なカードの表には、どうやらコンピューターで加工したらしいNate自身の写真──試合や練習の時ではない、ごく普通の自分であったことに、Nateは深く安堵した──が印刷された下に、流れるような書体で、父の日おめでとうと別の色で印刷してある。
うれしそうに微笑んで娘を見た後でカードを開けると、これは何かから切り抜いたらしいNateの写真を真ん中に貼り付けて、ハートとLoveという言葉が、目の痛くなるような様々な色合いで見開きをほとんど埋め尽くしていた。
中の写真は、多分雑誌で見つけたものだろう。軽く開いた口の中にマウスピースが見えるところを見ると、格闘技の専門誌か何かに違いなかった。
一体どこの本屋まで出掛けて見つけたのだろうかと、自分の膝の上に乗って、ややはにかんだ様子で肩を縮めている娘に、ありがとうと言いながらNateはもう一度キスをする。
膝の上に娘を抱きしめて、感謝を示すために精一杯力強く、けれど注意深く、色の濃い柔らかな髪の生え際に唇を押し当てたまま、娘がくすぐったがって笑い声を立てても、Nateは腕の力をゆるめずに、その薄くて小さくて細い体を、いとおしげに抱き寄せ続けている。
Nateが力を込めれば、簡単に骨の折れそうな体だ。自分たちのように、どれだけ殴られたり蹴られてたりしても怪我をしないように鍛錬した体ではない。ごく薄い筋肉と、後はひたすらにやわらかな皮膚にくるまれた、子どもの体。いわゆる暴力とは縁のないこの存在が、自分の腕の中に今いる不思議を思いながら、Nateは娘の頬を撫でる。首を傾けてNateを見つめる彼女は、まだ充分に無邪気で無垢だけれど、自覚のないらしい奇妙に大人びた空気が、笑顔の端に漂うようになっている。
「パパ大好き。」
子ども特有の甲高さはやや失せた声が、けれどやっと言葉を発し始めた頃とまったく変わらない口調で、もう何度聞いたかわからない言葉を繰り返す。後何千万回聞いても、繰り返し聞きたいと思うだろう。Nateは、彼女がおしゃまな風に肩をすくめるのにとろけそうな微笑みを返して、可愛らしく波打つ髪を撫でた。
ふたり分の朝食を作るために、娘と一緒に立ち上がってキッチンへ戻る。手を繋いだまま冷蔵庫の前まで行って、それから卵とベーコン出して、牛乳を出して、少しの間、ふたりは一緒に忙しく立ち働いた。
作業の合間合間に、ふたりは何度も短い時間抱き合って、キスをした。一緒に暮らしているわけではない父娘(おやこ)のふたりは、一緒に過ごせる時は、いつだってこうやってできるだけ触れ合っている。愛してると言い合うのはまるで、彼女の父──Nate自身──と母が、そうする時間を充分に持てなかった埋め合わせのようにも、Nateには思えた。
テーブルの角を囲むようにふたりで坐って、朝食の間、今日は何をするかと言う話をする。図書館に行きたいとか、公園へ行きたいとか、あるいはその後で、ちょっとショッピングモールへ遠出をしたいとか、主には娘のしたいことを聞き出しながら、Nateはいつもよりゆっくりと朝食を楽しんだ。
一緒に後片付けをした後で、まだパジャマのままの娘をシャワーへ送り出し、娘にもらったカードを冷蔵庫のドアに貼り付けてから、Nateはリビングに置いたままの携帯にやっと手を伸ばした。
まだ、何の連絡もない。向こうではどうするのか知らないけれど、やはり同じように父の日があって、今日は親子水入らずなのだろうと思う。向こうは多分、生まれたばかりの子どもと一緒に、彼自身の父親──あるいは、彼の妻の父親──と一緒だろう。
彼も父親になったのだと思うと、それを喜びたい気持ちと、そして素直には受け入れがたいと考える気持ちと、両方が一度に湧く。結婚していて子どもがいるのはもちろん自然なことではあるし、常に一緒にはいない関係である以上、向こうがいつどこで何をしているのか、すべてを知る術はない。
Nateはひとり身だけれど、向こうは結婚している。Nateは自分が同性愛者だと思ったことはないし、向こうはそれを公けにする気はまったくない。ふたりがいるところでは、それがいかに自明の理だろうと、隠しておくのが周囲すべての人間に対する礼儀だという空気があった。
大っぴらにする気の有無に関わらず、どう転んでも日の当たるところへは出れない、ふたりの関係だった。
夜には、メッセージくらい送られて来るだろうか。週に数回は連絡を寄越すまめな男だ。誰にでもそうなのだろうかと、今日は少し疑心暗鬼に考える。彼には彼の生活があり、自分には自分の生活がある。たとえば許されたとして、彼のいるところ──ブラジル──へ、完全に移り住むような度胸があるだろうかと、何の音も立てないままの小さな液晶画面を見つめたまま、Nateは考える。
自分の方が身軽だ。惚れたはれたの関係は彼ひとり──そんな器用さはない──だし、娘には母親がいる。引退を口にしてもう1年、恐らく次の試合は永遠にないだろう。後はもう、どこかのジムにコーチとして腰を落ち着ける、それは一体いつかという時間の問題だった。
そんなことを考える程度には本気なのかと思って、ふっと笑いが湧いた。
シャワーを使う音がやんで、ぱたぱたと歩き回る足音が軽い。こんな風に立てる音さえまだ幼い娘に、きちんと会えない生活に耐えられるわけがない。階段を見上げる位置へ動いて、Nateは彼女が2階から駆け下りて来るのを待った。
「パパ、手伝って!」
ブラシを持って、階段を飛び降りるように、最後の数段はNateの腕の中に文字通り飛び込んで来る。まだそれを軽々と受け止めながら、片腕だけで彼女を抱き上げて、Nateはまたリビングへ戻った。
さり気なく、鳴らないままの携帯は後ろのポケットに押し込んで、また自分の膝の上に坐っておとなしく背中を向けた娘の、長くてやわらかい髪に、そっとブラシを当てる。この髪の手触りは、彼女の母親にそっくりだ。
髪を持ち上げると、細いうなじがあらわになる。片手だけで、簡単にへし折ってしまえそうな華奢さに、Nateは思わず目を細める。この子を守るために諦めたことの何ひとつ、惜しいとは思わない。それはいつまでも変わらないだろう。
これからどれほど育っても、彼女の首はNateのそれよりもずっと細く、肩も薄く、見た目だけは一生壊れもののように弱々しいままに違いなかった。
自分の、少しばかり道を踏み外した恋のことを思って、けれどそれよりもずっと大事な血の繋がった娘の、小さな背中を、Nateはその手で一度撫でた。
どれほど力を込めようとびくともしない、今こんなにも恋しい男の体を思い出している。それに、娘の体の小ささとやわらかさを上書きして、立ち上がる前に、また娘を抱き寄せた。
「パパ大好き。」
言いながら首に回して来る腕は、感触もないほど細くて軽い。
「パパもだよ。」
鳴らない携帯のことは、今は心の隅に追いやる。
娘の手を、力を入れ過ぎずに握って、やっとソファから立ち上がった。