2月のある日
熱気のこもった真っ白い部屋の中に響き渡る、かん高い泣き声。確かにひとの声だけれど、それと認識するのに、数秒かかった。医者の手から、最後まで耐え抜いた妻の腕に手渡され、その腕の中にちんまりと収まった小さな小さな我が子を、Serraはそっと覗き込む。
まだしっかりとは開かない目は、どちらの親に似たものか、色を確かめることはできず、けれどついさっきまで死に損ねの獣のようにうめいていた妻が、今は苦痛をすべて拭った爽やかな表情で、
「耳の形が、あなたにそっくりね。」
にこやかに言った。
「そうか?」
初めて見る我が子の、あまりの小ささへの驚きと、見るに耐えない苦痛を耐えた妻への感謝と、そして、とうとう父親と呼ばれるものになったのだという、かすかな恐怖に近い怯えに、Serraは同時に襲われ、それをどう処理してよいものかわからず、何度も何度も瞬きを繰り返していた。
うっかりそれを止めれば、とめどもなく涙があふれて来そうだった。
たいていは誰にでも見くびられる短躯の、けれど隠しようもない首の太さや肩や胸の厚みが、Serraが只者ではないことを物静かに伝えていて、誰が伝えたものか、看護婦の何人かは、Serraが何者であるかをきちんと知っている。
Ultimate Fightingと呼ばれる団体の、ウェルター級のチャンピオンだったことがあるSerraは、腰に巻いたベルトと我が子と、どちらが重いだろうかと、妻の腕の中でむやみに指先を動かしている小さな生きものを見下ろして、けれどそれを口にしたら、一生妻の不興を買うだろうことはわかっていたから、喜びを表す笑顔に紛らわせて、きっちりと唇を結んでおいた。
父親になったのだと、改めて思った。
金網を張り巡らせた、八角形のリングの中で、同じような体格の男たちと、素手で殴り合う。殺し合わないために、審判が選手を見張っている。必死に鍛えた体を見せびらかすように、むやみに背を伸ばし胸を張る男たちの間で、Serraのひときわ小さな体は、どう見せたところで虚勢にもならない。それでも、一度組み合えば、彼らの表情が一瞬で変わるのがわかる。この男を、見かけと同じに侮ってはいけない。そう思わせれば、試合の方向はどうあれ、Serraの勝ちだ。
そうやって、前も後ろも見ずに、ただその瞬間だけにすべてを賭ける生き方の中に、ぽつんと、生まれたばかりの我が子が泣いている。
昨日までは、試合の最中に腕をへし折られようと、首の骨をずらして麻痺が残ろうと、知ったことかと思っていた。Matt Serraという男が、小さな体と短い手足で、けれど八角形の金網の中へ入れば、ただ必死で獲物を追う獣に変わったのだと、それを世界に知らしめることだけが目的のような生き方が、今日、この瞬間に変わったのだ。
怪我をしないのも、選手としての才能のひとつだけれど、今日この瞬間からは、この子の父親として、家族だけではなく、この家族のためにこそ、自分の身を守らなければならないのだ。
リングで血を流す姿を、この子に見せてはいけない。痣だらけの顔を腫らして、笑顔を浮かべられない、そんな姿を見せてはいけない。あるいはいっそもう、リングの中で、どこの誰ともよく知らない相手を容赦なく叩きのめすような、そんなことをそっくりやめてしまえばいいのかもしれない。
もちろん、そんなことはできない。するつもりもない。
試合があるたびに、お願いだから無事にすませてねと、大きな腹を撫でながら妻が言うのを、半分ほどは笑いに聞き流して、愛する誰かを背後に置き去りしても、リングから離れることは考えられない自分のエゴを、Serraは心の中だけで笑う。
けれど今、自分の血を分けた我が子をこうやって見下ろしながら、ほんの一瞬、あのリングを離れることを、本気で想像した。
金のためだ。家族を養うためだ。けれどそれだけではない。あそこに、戻らずにはいられないのだ。自分を見世物にして、けれど自分を見物している金網の外の連中に、自分のできることを見せつけるために、Serraはあそこへ戻らずにはいられない。あそこで、誰かを追い駆け、引きずり倒し、叩きのめす自分こそが、何よりもほんとうの自分なのだと、そう思うことは一生やめられないだろう。
ライト級から始まった戦歴は、Serraをウェルター級のチャンピオンに導いた。自分よりも確実に体の大きな男たちと互角に渡り合い、振り上げる拳の速さで皆を黙らせた。そうやって、Serraはあそこを生き延びて来た。
それは、明日も続くのだ。
自分のために。家族のために。そして今日からは、この生まれたばかりの我が子のために。
疲れた顔で、けれど赤ん坊を抱いて頬の線と口元をとろかしたままの妻の傍から、Serraは静かに立ち上がった。
「ちょっと、電話して来る。」
「誰に?」
「他の連中だ。無事に生まれたって、ちょっと言って来る。」
一緒にトレーニングをしている選手や、ジムの運営を手伝ってくれている人たちや、自分がコーチをしている若い選手もいる。連中と言うのは、そういう連中のことだ。
Serraは片手に握った携帯電話を妻に見せ、まだ赤ん坊から視線を外さずに、念のために置いてあった点滴のスタンドの足に爪先をぶつけ、あいたたと言いながら部屋を出た。
熱気のこもった部屋から出ると、廊下はひんやりと冷たい気がする。ドアからすぐには離れずに、口元をふくらませて、ふうと大きく息を吐き出すと、Serraは携帯電話を使ってもかまわない建物の外近くへ向かった。
ほんとうに、あの赤ん坊とチャンピオンベルトと、どっちが重いだろうかと、また考える。歩きながら、次第に湧き上がって来る父親という実感を、けれどSerraは口に出せずに持て余していた。
携帯の中に入っているいくつもの電話番号の中から、少しばかり見慣れない市外局番の番号を選び、外を走る車の音に邪魔されまいと、左耳を掌で抑えた。
「George?」
繋がった瞬間に、Hを抜かした音の挨拶が聞こえる。
「やあ。」
Serraの声を聞き分けて、電話を通せばいっそう強まるフランス語なまりが、うれしそうに一音高い。
「今どこだ? また武者修行か。」
トレーニングのために、ありとあらゆる強い選手を求めてあちこちへ出掛けてゆくのをからかってそう言うと、声の主──GSPことGeorges St-Pierre──が楽しげに笑った。
「ちゃんとモントリオールにいるよ。次の試合が決まったらまたトレーニングに出掛けるけど。」
2週間前に、BJ Pennを破ったばかりの、ウェルター級の現チャンピオンが、気負いはないけれど張りのある声で答える。
長い間、Matt Hughesが占有していたタイトルをGeorgesが奪い、それを、Serraが直後に奪った。今それは、Georgesの手に戻り、そしてしばらくそこから動くことはないだろうと、誰もが──Serraも含めて──思っている。
この間の電話は、BJ Pennに勝ったことを、Serraがおめでとうと伝える電話だった。今日は、内容は違うけれどその逆だ。
「さっき、無事に生まれた。女の子だ。」
電話の向こうで、大きな笑顔を作ったせいで、声が途切れた気配があった。
「よかったじゃないか、おめでとう!」
「女房は、耳の形がオレにそっくりだって言ってる。きっとオレに似てチビに育つだろうな。女の子でよかった。」
「息子が生まれたらライバルがひとり増えるな。それも面白いじゃないか。」
Georgesは、心底うれしそうに、興奮すると少し早口になる英語が、電話ではやや聞き取りにくい。
ああ、遠いところにいるのだと、Serraは不意に思う。
一緒にトレーニングをした仲間だ。タイトルを奪い合ったライバルでもあった。今だってライバルだと、Serraは思っている。Georgesが、すでに SerraやMatt Hughesよりも1段高いところへ上がってしまっているのだと気づいていて、それでも、まだそこへたどり着く可能性があるのだと、Serraは辛抱強く自分に言い聞かせている。
我が子を前に、それが、心中でやや揺らいでしまったことを、Georgesに悟られたくないと思いながら、そんなことを口に出せるのも、きっとこの男だけなのだとも思う。
高過ぎも低過ぎもしない身長、バランスよく長い手足、スピードを殺さないぎりぎりまで強化された筋肉、凄まじい身体能力と、欲しいものを得るためにどんな努力も惜しまない、恐ろしいほど高い志し、Serraが、いつだって欲しがっていて得られなかったものを、Georgesはすべてするりと身に着けている。それをすべて手に生まれて来たのだと、ごく自然に体を動かして、能力を操って、Serraが我が子と同じ重さかと思ったチャンピオンのベルトは、今は彼の腰に巻かれている。
誰にでも分け隔てのない純朴にすら見える笑顔の後ろで、彼が血の吐くような努力をして来たと知ってはいても、我が身と引き比べて、彼が恵まれているのだと思わずにはいられない。
「おまえも早く彼女見つけて子ども作れよ。」
喜びが言わせた軽口だと思ってくれることを祈って、そんなことを言ってみた。
照れたように言葉を止め、電話の向こうで首を振っている気配が伝わって来る。
「・・・オレは、まだ、いいよ。」
はは、そうか、とそれ以上追い駆けることはせず、Serraは笑った。
羨望や嫉妬や揶揄交じりの、ゲイなのだという噂すら立たないほど、禁欲的に自分を律しているこの男なら、引退すると決めるまで恋人すら持たないかもしれない。
Serraは、それに耐えることができなかったのだ。自ら足に巻いた枷の重さに、そして今、ひとり恐れおののいている。
父親なんかになるべきじゃなかった。オレはこれから先ずっと、試合のたびに怖くて眠れなくなるだろう。怪我をしたらどうなるか、後遺症の残るような傷つき方をしたらどうなるか、あるいは、リングの中で死んでしまったらどうなるか、その恐怖と戦いながら、冷静さを保つのに必死になるだろう。
敵は、目の前の誰かではない。これからずっとSerraが戦い続けるのは、さまざまな思惑や煩わしさに常に足元をすくわれかける、自分自身だ。
その恐怖を振り払うように、弾んだ声を作って、子どもが生まれたよりもずっと大きなニュースだと言わんばかりの口調で、焦らすように伝える。
「Matt Hughesと、5月にやるんだ。」
とっくに知っていたに違いないのに、さも今初めて聞いたと言う風に、Georgesが大げさに驚いた声を立てた。
「ほんとに? やっと長年の恨みが晴らせるってヤツかい?」
フランス語の訛りをわざと強めて、からかう響きが続く。
Matt HughesとSerraが、大っぴらに互いを嫌い合って、もう数年になる。同じ階級のライバルと言うことだけではなく、主にはHughesがあまり人の良い男ではなく、リングの内側だけではなく、外側でも相手を精神的に追い詰めるような言動をするのを、それも戦略のひとつの内だと言って憚らない、 Serraがいちばん嫌いなタイプの人間だったせいだ。
戦い方には好みというものがあるから、それについてどうこう言うなら好きに言えと思うけれど、背の低さだの筋肉のつき方だの、努力ではどうしようもないこともある。それを人前で平気であげつらうような男を、Serraはどうしても好きにはなれなかった。
選手としてのHughesなら尊敬もできたけれど、それ以外では、同じ空気を吸うことさえ、正直耐えられない。名前が同じことすら、時折我慢できなくなる。
誰でも知っていることだったけれど、Hughesと違ってSerraはそれをあまり口にはせず、その辺りの気持ちの機微らしきものを、正直に打ち明けられる相手が、Georgesだった。
子どもが生まれたと言う用件の電話なのに、結局話は試合やトレーニングのことになり、誰と誰が一緒にやっているとか、誰が誰に何を習っているとか、そんなことばかり話した後で、Serraはやっと落ち着いた気分になって、そろそろ妻と子のところへ戻ろうと、話を切り上げにかかった。
「次に会える時を楽しみにしてるよ。」
別れの言葉と一緒に、Georgesが言う。それから、一言一言を区切るように、優しい口調で付け加えた。
「おめでとう、Mattie、アンタはきっといい父親になるよ。」
Tの音がくっきりとした、けれど語尾が丸くなるフランス語交じりの響きで、滅多と呼ばれることのない、少し子どもっぽい親しみを表すその愛称に、Serraは、思わず口元を掌で覆う。
ありがとうと、すぐには言葉が出て来なかった。
フランス語の発音できちんと呼ぶべきだと、最初から思ったことのないその名を、英語のままで呼んで、Serraはついにあふれた涙を悟られないように、腹筋に力を入れて、礼を言った。
電話が切れ、しばらくの間携帯を握りしめたまま、Serraは外の雑音の中に身を置いて、けれどどこかすっきりと軽くなった頭の中で、父親、という言葉を小さく数度繰り返した。
枷ではない。これは、喜びだ。
金網の中で素手で殴り合う父親の姿に、あの子は誇りを感じてくれるだろうか。
そうでなければ、今まで生きて来た甲斐がないじゃないかと、Serraは思った。
まずは、宿敵のHughesを何とかしよう。丸い顔の、造作の大きな目鼻が、不敵な笑いに線を崩す。
チャンピオンベルトではなく、我が子を腕に抱くために、Serraは建物の方へ足を向けた。携帯の電源を切り、もう一度それを手の中に握りしめて、リングへ向かう時と同じ表情を浮かべているのには気づかなかった。