One and Only
Dan HardyがMatt Serraのジムでトレーニングしていると、ぼそりとコーチのFiras Zahabiが告げる。一瞬、うまく応え損ねて間が空いた。Georgeは滴る汗を振り払う仕草で頭を振ったついでに、軽く肩をすくめて見せた。
「Submissionはほとんど外されると思って間違いないってことだな。」
付き合いの長い、同い年のコーチに、Georgeは大して感情も込めない声でそう言って、汗で湿ったボクシンググローブを、ぽんぽんと胸の前で合わせる。
「打ち合いになって1発食らったらそこで終わる。わかってるんだろう。」
「わかってるさ、もちろん。」
言葉の最後に、余計な力がこもる。Serraの名を聞くたびに、まだ気持ちが騒ぐ。苦い何かが喉元を圧迫する。惨めに殴り倒されて、立ち上がれずに、殴られ続けたまま終わったあの試合のことを、一生忘れることはないだろう。
それは、自分の強さだと言い聞かせながら、Georgeは口から取り出していたマウスピースを、また口の中に押し込んだ。
「オレは、オレのやるべきことをやるだけだよ。」
今は空のリングの中央に向かって言う。向かい側に、不敵な笑みを浮かべたHardyの姿が見える。そこに、丈の短い、どこもかしこも丸い、筋肉の塊まりのようなSerraの姿も重なった。
幻に向かって、右の拳を突き出す。
殴り掛かる相手はいるけれど、ほんとうに闘う相手は、自分自身だ。
シャドウ・ボクシングを始めたGeorgeを観察する目つきで、Firasがリングの隅へ体を寄せる。腕の伸び具合から爪先の滑らせ方や頭の位置まで、何もかもすべて、完璧であることを確かめるためにFirasの視線が追う。
マウスピースに触れる舌先が、まだ苦い。負ける悔しさは、一度味わえば二度と舌の上から消えない。
Hardyの幻の、首の後ろへ両手を掛けようとしながら、蹴り上げた膝に感じるのは、Sarraの硬い顎だ。
1度負けた相手に、2度目は絶対にない。負けた時よりも強くなった自分が、相手を徹底的に叩きのめす。そうやって奪って、守って来たベルトだ。
腰に巻いて、腕に掛けて持ち歩けば、次第に重さを増して来る。勝つたびに、ベルトはどんどん重くなって、しまいには持ち主の手に余るようになる。そのことに気づくのは、手にしてしまってからだ。重さに負けて手放すか、それとも、重さに耐えようと強くなり続けるか、ふたつにひとつしかない。
相手のいる戦いは、実のところそれほど難しくはない。赤の他人を見極めること、先読みすること、ほぼ不可能に近いからこそ、それに挑戦するのが面白くてたまらない。
けれど今Georgeがやっているのは、自分との闘いだ。100%見通せる、100%理解できるはずの、自分という人間との闘いだ。
何をしたいか、どうするのか、何もかもわかっている。わかっているから、ほんの一瞬気を緩めた隙に、油断がするりと忍び込む。常に張り詰めた神経、極限まで張り切った緊張の糸は、まだ両端から引っ張られ続けている。
切れそうだと、思うのは毎日のことだ。昨日よりも今日、今日よりも明日、わずかでも強くなっていれば、すべてを今のまま保つことができる。より良い状態で、上を目指すことができる。
ひとりきりで。
どれほど助けがあろうと、リングに入って闘うのは自分ひとりだ。今は相手も問題ではなく、闘う相手すら自分という、孤独地獄と闘うのに必死だ。
生まれる時もひとりなら、死ぬ時もひとりだ。だからこそ、生きるうちに、人は人と関わろうとする。そうしなければ生きて行けない。
人の中に在っての孤独。自ら望んだ生き方の先に見つけてしまった、深い深い孤独の底。今Georgeは、そこにいる。
誰かと殴り合い、勝敗を喫すること、それは恐ろしいことだ。勝つか負けるしかない。勝つという保証はない。負ければすべてを失う。また、あの苦いばかりの日々に逆戻りだ。あんなことは、もう二度とごめんだ。
Serraが、Hardyの特訓に付き合っているという。明らかに、自分に対する精神的なプレッシャーだ。Serraと聞けば動揺せずにはいられないのだと、相手に知られている。
そう思うなら思えばいい。Georgeは、HardyとSerraの幻に向かって爪先を高く蹴り上げながら、思う。そんなことで動揺して、どこかに隙ができるに違いないと思うなら、いくらでもやればいい。
動揺することは止められない。けれど、それで隙が生まれるかどうかは別問題だ。
感情は、リングの外へ置いてゆく。無心の自分が、リングの中へ足を運ぶ。無色透明の自分を作り出して、その自分があそこで闘う。自分を相手に、だ。
爪先から汗が流れ落ちて、マットの上がびしょ濡れになっていた。
流れ出た汗の分、まるで内側が洗い流されたと言うように、ざわめいていた心が静かになって、狭まった視界の中には音すら失くなり、振った腕から散る汗の水滴の輪郭まで、はっきりと見えるようになる。
誰の気配も感じない。誰の視線も感じない。声も空気の揺れもなく、ほんとうに、自分ひとりになる。
ここで闘うのだ。誰かとではなく、自分と。
戦う相手のいるHardyやSerraのことを、ほんのわずかの間うらやましいと思って、それが、口元に薄い微笑みになって現れた。
動き続けて痛みを訴え始めた筋肉を、いっそう強く速く動かす。もう動けないと弱音を吐くふくらはぎに力を入れて、さっきよりも高く足を蹴り上げた。
爪先から汗が飛び散り、その先で、Hardyの頭の上をするりと通り抜けてしまった。
ふっと力が抜け、Georgeは体の動きを止めると、両手をだらりと落として、大きく口を開けて笑う。
空のままのリングを見渡して、絞られて痛む肺に深く静かに空気を取り込みながら、自分を見守るFirasを振り返った。
Georgeの笑みに何かを感じたのか、Firasも笑い返して来る。
誰も自分には勝てない。Georgeは確信を持って思う。うぬぼれではなく、単なる事実だ。だからGeorgeは、自分自身と闘っている。
強い自分。負けることのない自分。そこにい続け、常に高いところを目指して上向いている自分。今日の自分よりも、わずかに強い明日の自分。
その自分を殴り倒そうと、Georgeは不意に1歩前に走り出して、右腕を体の外側から思い切り回した。
紙一重で、悠々とそれをかわす自分の姿を目の前に見ながら、追い駆けても追い駆けても、絶対に追いつけない自分の幻に向かって、Georgeはまた拳を突き出し続ける。
「スパーリングに移ろう。」
Firasが合図のために手を叩いたのが聞こえた。
それを数瞬無視して、手が届かないのを承知で、Georgeはもう1度自分を殴るために、汗で滑るマットの上に、前へ出した左足を踏みしめる。
拳が空気を切る音に耳を澄ませて、その音だけの世界へ、またほんの数瞬だけ沈み込む。
透明になった自分の内側へ、なだれ込んで来る殴られた衝撃を受け止めながら、Georgeはもう一度微笑んだ。微笑んで、口の中へ広がる苦さを、まるで味わうようにゆっくりと飲み込んだ。