I Met Your Mercy
部屋まで来てくれと言われた通り、Nateは何も考えずにそこまで素直に足を運んだ。どこにでもあるホテルの部屋は、試合で遠征するたびに泊まる部屋と何の変わりもなく、Nate は数秒だけ中を見渡して、後は自分を呼び出した男の、傷ひとつない顔の上に、迷う視線をうろうろと当てる。
試合が終わった後もすぐには発たずに、それを自分のためかと思うほど自惚れる気持ちは湧かない。それでも、試合が終わった直後にそうしたように、ごく自然に自分を抱きしめるために両腕を開くMaia へ、引き寄せられるように1歩寄りながら、Nateはもう彼のことをファーストネームで思い浮かべていた。
個人的なことなど、お互い何も知らないはずだ。
試合のために調べたのは、これまでの戦歴と戦い方と、そして誰と一緒にトレーニングをして来たのか、そんなことばかりで、たとえばどこで生まれ育ったとか、どんな家族だとか、兄弟はいるのかとか、そんなことは互いに一切知らないはずだった。
今もまだ、知りたいと思う気持ちはないまま、 Nateはそれでも自分を抱きしめるMaiaの腕の中で、素直に体を伸ばして、自分も彼の背中を抱きしめた。
同じ階級なのだから、当然と言えば当然だったけれど、肩の位置も肩の幅も、ふたりはとてもよく似ている。
公式発表の数字を信じるなら、腕の長さもほとんど同じで、服を着ていれば、後ろ姿では見分けもつかないほど、良く似たふたりだった。
勝ち試合の後のインタビューで忙しかったのか、 Maiaはスーツを着ていて、Nateは、家の周りをうろつく時と変わらない普段着だ。
一昨日の試合の結果そのままのような、ふたりの姿だった。
ほとんど殴り合う機会もなく、倒れてもつれ合ったまま、誘われるように引き寄せられて、気がつけば腕の輪の中に首を、両脚の中に胴を締めつけられて、逃れる努力は無駄以外の何物でもなかった。
数分で終わった試合。Maiaは無敗のまま、 Nateにとっては数少ない負け試合のひとつになった。
試合の後でついうっかり口を滑らせたのを、まったく自分らしくないと悔やみながら、首筋の後ろを這い上がって来るめまいを、まだわずかに残ったインフルエンザのせいにしてみる。
試合の1週間前に始まった悪寒と熱、試合の直前まで、まだ時々トイレにこもって、とっくに空の胃をあえがせていた。それを、負け試合の言い訳にするのはひどく見苦しいことだとわかっていて、それでも完全でない自分があっさりと負けた悔しさには勝てず、次があれば必ず勝つと、付け加えることは忘れない。
100%なら、少なくとももう少しましな試合ができるはずだ。
まるきり無傷の頬同士が触れ合う。せめてここに、あざのひとつくらい、次は残せるようにと、物騒なことを考えながら、Nateは自分の背中を締めつけて来る腕に添って、わずかに胸を反らせた。
あの時は単なる偶然で触れた唇が、今は目的を持って軽く重なる。掌が首筋をとらえて、流線を失くした耳に伸びて来る。
慣れた様子で開くMaiaの唇に合わせて、 Nateも自分の唇を開いた。
滅多とこんな風に誰かと触れ合う機会はない躯が、心はどこかに置き去りにしたまま、ただ昴ぶってゆく。
あの時は、最初から半裸だった。殴り合うために振り上げた腕。汗に湿った肌。重なるのはけれど、相手を圧倒するためだ。
負けた試合に深く失望しながら、自分を負かした相手に敬意を払うために、歩み寄り、両腕を開く。回る腕、高さの同じ唇が、何のためらいもなくNateの頬に触れた。
それが理由というわけではなかった。病み上がりにはそうなることがあるし、試合の後には行き場を失ったアドレナリンが、あふれる場所を求めて暴れることがよくある。
Maiaに抱きしめられた時、Nateはそういう状態だった。Maiaに、敬意とねぎらいの接吻を返しながら、Maiaもまったく同じ状態なのに、Nateは気づいていた。よくあることだ。わざわざ体を引くのも無礼に思えて、Nateはそのまま Maiaを抱き返していた。
頬へ返すつもりだったただの挨拶の口づけが、唇に触れる羽目になったのがほんとうに偶然だったのか、今では自信がない。
あの、首に回った腕と同じに、これも単に仕掛けにはまったということなのかもしれない。
誰かの掌の上で転がるだけの自分、それを恥と感じると同時に、いつまでも未熟な部分があってもいいじゃないかと、半ば捨て鉢にも思う。
「首を痛めなかったか。」
Nateの首筋に手を当てたまま、ポルトガル語訛りの英語が訊く。もう少し距離があれば、何を言ったか聞き返さなければならないだろう程度に、彼の英語は少しばかり聞き取りにくい。
「別に。」
笑顔を見せないまま、Nateは声の慄えを抑えて答えた。
また、唇が重なって来る。今度は、さっきよりももう少し情熱的に。ブラジル人というのは皆こうなのかと、自分の娘の母親も南米の血筋であることを、場違いに考えている。考えながら、腰に回った腕が、シャツの中へ入り込むのを止めない。
押しつけられる躯。あの時と同じに、ふたり一緒に、同じように昂ぶっている。
宗教一色で育ったせいで、20を過ぎても、異性を完全に避けることがごく当たり前だったから、教会とも家族とも友達とも縁を切って、外の世界へ飛び出した後も、結局は格闘技の世界に没頭するあまり、恋をするという機会には見向きもしないままだった。
今も、恋愛と言われて思い浮かぶのは、ひとり娘を産んでくれた女性だけだ。あれ以前もあれ以後も、Nateの人生に恋という言葉はなく、Nateにとっての──単なる──異性は、今ではひとり娘だけだ。
自分を抱く腕。殴るためではなく、触れるために伸びる指。体が近づくのは、押さえ込むためではなく、もっと親しく触れ合うためだ。
男ばかりの世界で、だからこそ病的に女に固執する男たちもいる。あるいは、恋愛という面倒くさい手続きを省いて、排泄だと割り切って、身近な誰かに手を伸ばす連中もいる。
これを、排泄行為だと思ったことはない。思うほどの経験もない。リングの外では、人の体はただひたすらにあたたかく優しい。それだけだ。
Nateは、人を抱きしめることが好きだった。男同士が交わす挨拶として、明らかに不適切と思い込んでいる連中もたくさんいる。けれどNateは、金網の中で殴り合うことを仕事として選んだからこそ、他人に対して表す親愛を、きちんとわかりやすい形にして示したかった。
憎しみではない。暴力ではない。ただ、そう在るものとして、その時だけ向き合い殴り合う。15分、あるいは25分間だけの、衝動だけの空間。そこへ放り込まれて勝ち残るために体を極限まで鍛えながら、その腕で、だからこそ優しさだけをこめて人を抱きしめたいと、Nateはいつも考える。
誰かを抱きしめるということは、自分が抱きしめられるということでもある。抱きしめられたいからこそ、誰かを抱きしめるのだと、気がついたきっかけは何だったろうか。
Maiaの腕が、今はNateの素肌に触れている。NateのシャツもMaiaのスーツの上着も、いつの間にか床に落ちていた。
ネクタイは、Maiaが自分でほどいた。
闘うために、余分なものを一切削ぎ落とした体。骨を巻く筋肉の層。病的なほど健康な、遊びの部分など一切許さない体。
そうして抱き合う姿は、なぜか金網の中で取る姿勢とそっくりになる。上になり下になり、胸と肩を合わせて、自分の上から相手を振り落とそうと、全身を揺さぶる動きと同じに、開いた両脚の間に腰を挟み込んで、けれど今は、そこから逃れようとはしない。もっともっと近く躯を寄せ合って、無意識に、筋肉へ送り込む酸素を大量に取り込もうと肺を絞りながら、今はそんな必要はないのだと、NateはMaiaの下で、細い呼吸を何度も繰り返した。
唇の間に差し込まれる指。コロンだろうか、とてもいい香りがする。決して傷つけないように、爪の生え際に、慎重に歯を立てる。上で、Maiaがにやっと笑う。
Nateの肩をつかむように掌を置いて、そこから筋肉の形をなぞるように、指先が滑ってゆく。硬くて太い腕。浮いた血管の上を通り、Maiaの掌が、 Nateの掌に届く。
今は、胸は離れていた。代わりに、掌が重なる。熱にぬくまった汗が、そこで滑る。
Nateは首を傾けて、重なったふたつの掌を眺めた。
体つきと同じように、手の大きさもよく似ている。けれど、指はNateの方が長くて、もっと骨張っている。爪の形も、少し違う。
殴るよりも、引き倒して締め上げる方が得意な Maiaの腕の輪郭を、肩まで視線でなぞった。太い首から、まだきちんと形を保っている耳までを眺めて、伸ばしているらしい口回りのひげに、Nateは視線を止める。
そのあごに、自分の右拳をいつか食らわせてやると、喉を反らしながら思った。Maiaの手を握り込みながら、今組み敷かれている意趣返しのように、こっそりと右手を拳の形にする。
外側から回り込んで伸びる自分の右腕が、Maiaの頬へたどり着き、彼の顔を、瑞々しい果実のように砕く。
次は、絶対に。
Nateは不意に体を起こし、そうせずにはいられないという仕草で、Maiaの首に両腕を回した。
躯が、もっと近くに寄る。昂ぶりが触れ合って、Maiaが小さく声を立てた。
鼻先をこすり合わせる近さに顔を寄せると、
「・・・インフルエンザがうつる。」
Nateは、微笑みながら言った。
「うつせばいい。」
Nateの微笑みをそのまま写し取って、口回りのひげを歪めながら、Maiaがきっぱりと言う。
よく似た躯がふたつ、重なってこすれ合って揺れる。互いの首に触れた手の形だけが、少し違う。同じ高さの小さな声が、重なった唇の間から、湿った息と一緒にもれた。