Once Upon A Time

 これは夢だ──Vivianは思った。
 だって、夢に違いない。現実のわけがない。Adrianが、ここにいるはずはないから。
 そろわない肩を並べて、AdrianはVivianの右側に立っていた。掌はしっかりと重なって、指はちゃんと絡んでいた。
 舗道の上。車道とVivianの間を隔てて、AdrianはVivianの右側にいる。ごく当たり前のように、ひとりの時より歩幅を狭めて、背中を少し丸めて、決してVivianが、自分よりも20cm近く背の高い彼を見上げすぎていて、疲れないように。彼にとってはごく当たり前な、そんなこと。
 ここがどこの道なのか、Vivianは知っていた。通りの名前は見当たらないけれど、Vivianは、自分がどこを歩いているのか、ちゃんとわかっていた。
 隣を歩くAdrianの、ブルーのデニムシャツは色褪せていて、けれど着古したそんな感じが、Adrianにはよく似合っている。
 折り上げた袖口から見える、骨の太い手首。そこから、上腕に続く線。肩に伸び、首に添い、そして、胸から腹へ滑らかにすべり落ちる。その線のうねりを、 Vivianはすべて知っていた。Adrianの着やせする筋肉が、どんな動きにどんな影を見せるか、すべて知っていた。多分、Adrian本人よりも。
 シャツのボタンは、上のふたつがはめないままだったから、ちょうどVivianの視界を、その厚い胸元が覆うことになる。
 その中で、何度も呼吸を止められた。何度も、そのまま死んでしまいたい衝動に、とらわれた。
 でも、僕は生きてるよ。
 Vivianの呟きが聞こえたのか、Adrianがすいと頭の位置を落とし、Vivianの口元に耳を寄せた。
 どうした?
 思わず足を止め、身を引く。AdrianがそんなVivianを、不思議そうに見る。
 だめだよ。僕と君は、一緒にはいられない。
 そうだ──この街はVivianを受け入れない。ここにこのままいれば、きっと何かよくないことが起こる。Vivianにだけでなく、Adrianにも。それが恐ろしかった。
 夢の中で、Vivianはすべてを知っている。
 どうして? 俺はいつも、おまえと一緒にいたじゃないか。
 いつの間にか、溶け合うほど絡んでいた指がほどけ、繋いでいた手が離れていた。
 だって僕はアイルランド人だよ、わかってる?
 ああ、わかってるさ、もちろん。
 Adrianが笑った。生まれたての赤ん坊の無邪気な笑顔で、口元を綻ばせた。
 ほぼ完璧な、その外見。見事な白金の髪。南の空の破片のような、淡い青の瞳。ナチスの軍服がさぞ映えるだろう、広い肩と厚い胸──長身の、オランダ人。
 ヒトラーは、ユダヤ人と同性愛者を忌み嫌った。
 君はゲルマン人だ。僕はアイリッシュで、ついでに恥知らずのゲイだよ。わかってる?
 Adrianが、薄く笑って首を振った。唇が、柔らかくつり上がる。
 ふたりの共通語は英語だけれど、たまに──Adrianが、オランダの家族に電話をした時、とか──Adrianの母国語を聞くと、英語なんかよりはるかに、形の良い、意志の強げなAdrianの唇には、その方が似つかわしいと、Vivianはいつも思う。自分が決して、アイルランドの響きを忘れないように。
 僕らは一緒にはいられない、知ってるだろう。僕がせめてイギリス人ででもない限り。君のゲルマン人の血を汚したら、僕らはそろって銃殺だ。ああ、僕はそれともガス室送りかな。
 ──何を言っている、一体?
 自分で喋りながら、今この場を、地上から50cmほどの視界で傍観している、もうひとりの自分がいることに、Vivianは突然気付く。
 笑顔のままのAdrianを、早くこの場から立ち去るように説得しようと、一歩前に踏み出した時、Vivianの胸を、小さな鉛の塊が貫いた。体の中を駆けてゆく途中で、肋骨も何本か砕いて。ぐしゃっと肉の弾ける音も、聞いたような気がした。
 どくんと、喘ぐように心臓が、大きく波打って、それきり動きを止めた。
 飛び散った自分の血が、Adrianのシャツを汚したのを、Vivianは心からすまなく思う。
 気に入ってたシャツだよね、確か。血まみれで、もう染みは落ちないかもしれない。台無しにしたね、僕のせいで。
 Adrianを見つめたままの瞳を、Vivianは閉じなかった。
 Adrianの、自分に向かって伸ばされた両腕に抱き止められながら、Vivianは、ここへ近づく足音を聞いている。
 軍靴の響き。何十、何百の軍靴の、重々しい響き。
 誰が自分を撃ったのか、知っていると、Vivianは思った。
 やがてここへやって来る、その軍靴の連中が、自分の死体をAdrianから奪い取り、そして八つ裂きにするだろう。Vivianが望んでいるように、 Vivianの死体を、ただの肉片と骨片に、叩き潰してくれるだろう。血の海を踏みしだき、彼らは、かつてVivianだった残骸に、唾を吐きかけるだろう。
 そしてAdrianも、その彼らの中にいるに違いないのだ。
 狂っているのは一体どっちだ。僕なのかAdrianなのか──そんなことはどうでもいい。ほら、もっと近づいてくる。早く僕を粉々にしてくれ。Adrianが、二度とあの唇で、僕を愛していると、囁く気を失くすくらいに──。
 Vivianは、不意に目覚めた。
 殺される夢など珍しくもないのに、神経がささくれ立って、いやな気分だった。
 2、3日前から読み始め、夕べようやく読み終わった本のせいだろう。
 ナチスがユダヤ人を、この地上から抹殺しようとしていた頃、同様に排他された、同性愛者たち。
 かつての恋人を、ナチ将校の前で撲殺し、少女の死体を犯すことで自分の性癖を隠そうとしたあげく、彼は収容所で最期の恋に落ちる。一度として触れ合うこともなく、恋人は無残に、彼の目の前で殺される。彼は恋人の死体を抱き、号泣する。
 愛していると、繰り返し囁いたAdrianの唇。今は繰り返し、おまえと一緒にいたいと呟き続けている。
 Whitesnakeはもう存在しない。
 受話器を取り上げ、彼に電話すればいいことだった。僕も一緒にいたいよとそう言えば、すべては終わる。電話を切った数時間後には、身ひとつで現れて、 Vivianを抱きしめて、溺れるほどの囁きを浴びせてくれるだろう。以前と、まったく同じに。まるで何も変わらずに。
 ねえ、僕も君と一緒にいたいよ。
 呼吸でもするように、Vivianは呟いてみた。
 耳の中に、夢で聞いた靴音が、うねりを持って広がってゆく。
 思わず耳をふさいでも、それは容赦なく、Vivianの中を満たして行った。
 自分は狂っているのだとふと確信して、Vivianは、抱き寄せた膝に顔を埋めたまま、森にひとり、置き去りにされた子どものように、いつまでも怯えた肩を震わせていた。

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