Love Someone

 元々教師の資格を取ろうと思ったのは、休みの長い安定した職だから、万が一趣味で音楽をやり続けるとしてもきちんとその時間が取れるだろうと考えたからだ。
 プロになって、アルバムを出して、歌うことでだけなら世界のどこでも通用すると太鼓判を押されて、そのことを、自分でも疑ったことはなかった。
 歌うという根本的な部分で、声質にも喉の靭さにも恵まれ、そうして何より、己れのすべてを楽器にするということを、学ぶ以前に体ですでに知っていた。
 日本の外に出ればどちらかと言えば小柄に見える、背の高さも肩や胸の厚みもない体だ。背を伸ばし、ギターやドラムの上に声を乗せる。その体から出たとはとても思えない、太く厚い、なめらかなくせに耳に引っ掛かる、艶を帯びた声。一気にその場へ広がり、空間をすみずみまで満たす。好きと嫌いに関わらず、耳を魅かずにはいないその声だ。
 その深みの中へ、心を解き放つ。何年もかけて熟成させた酒に酔うように、漂い出て、酔っ払う。心を満たすその声を、上品に官能的だと言ったのは、あれは誰だったろう。
 普段しゃべる声はやや平たく、どちらかと言えば少し品のない発声になるから、電話を通すとそれがよけいに際立って、だからこそこの声が歌い始めると、世界の色が一瞬で変わるその様の美事さに、さらに目を見張ることになる。
 Neilがいつも言うことだ。元基はひとり小さく笑った。
 2、3年に一度、長い夏の休みを使って、1週間より少し長くイギリスを訪れる。数年、そこで活動していたことと、その時に知り合った人たちに会うためにというのが、いつも使われる口実だった。
 コンピューターが使えれば、世界のどこにでもアクセスできる。それでも、モニタやマイクロフォン越しでない会話がいつだって恋しくなる。カタカタとキーボードを打って綴った文章を送るのも、それほど筆まめではない性格が災いして、結局普通に葉書に切手を貼って送るとか、そんな昔ながらの方法に落ち着いてしまう。
 今でもきちんとプロとしてその世界にとどまっているNeilの方が、よほど仕事仲間やファンとまめにネット越しに連絡を取り合っていて、手紙がゆっくりとイギリスへ届く間に、たまたま開いたニュースサイトの記事でNeilの動向を知ることが多々あった。
 文明の利器をうまく使いながら、それでも顔を合わせて合える瞬間にはかなわず、会えば今もぎこちなく触れ合おうとする手が、握手以上には進まないことが増えたのはここ数年のことだ。
 今も、キッチンで紅茶をいれているNeilの隣りに立ってその手元を眺めながら、腰に腕を回そうかどうか、元基は迷っていた。
 やっと届く肩が、ここ数年目に見えて丸くなり、後ろから見る背中にも力強さがなくなっている。昔はたっぷりとその肩や背中を覆っていた見事な金髪も、今ではすっかりかさが減って、光を返さない灰色に変わってしまっていた。
 その髪に触れることがためらわれて、元基は変わりに今も大きさは変わらないNeilの背中を、掌でそっと撫でた。
 すでに60が手が届くNeilに、老いの姿を感じるのが怖くて、出会った頃の自分の父親の歳をとうに追い越してしまったこの英国人──スコットランド出身だと言うけれど、日本人である元基にはよく違いがわからない──の、あの頃から一向に変わらない穏やかな顔つきには安堵して、元基はひとり微笑んでいる。
 自分も同じように歳を取ってしまっているのだと、普段はほとんど考えないことを、Neilの横顔は思い出させる。
 あの頃長かった髪は、教師になって以来うなじを覆う程度以上に伸ばしたことはないし、派手な色に染めたこともない。50を過ぎて、さすがに目立つようになった白髪に嫌気が差して、わざと薄く抜いて色を入れてあるけれど、人目には派手に見えるかもしれないそれも、元基本人にとっては単なる実利を取った手段に過ぎない。
 ステージでイメージを売るミュージシャンにも、年々子どもっぽくなる生徒たち相手のお堅い教師にも、結局どちらにもなりきれない自分を、元基はいまだ感じ続けている。
 自分が誰なのかと、そう迷うたびに、なぜか思い出すのはNeilのことだった。
 紅茶を手渡され、リビングの大きなソファに並んで座る。会って1日目は、いつだってまだ触れ合うほどに近くは座らない。そこに手を置けば手が重なる。けれど、どちらも自分からそうすることには躊躇を覚えて、そのぎこちなさを楽しみながら、会えなかった時間の長さを埋めてゆく。
 そんな悠長さを楽しむ余裕も、生まれたのはここ10年ほどのことだ。
 出会った時にも、すでに若いとも言えない年齢だったふたりだ。それでも、まだ無茶をできる若さは残っていた。
 日本を離れていた淋しさに、滑り込んで来ただけだったのかもしれないし、あるいは、素の自分と歌う自分の隔たりに常に戸惑っていた元基の心の内を読めるNeilのこまやかさに気づいたのが、この恋の始まりだったのかもしれない。
 やっと見つけた半身のように、ふたりは腕を伸ばし合い、隙間もなく互いに抱きしめ合った。こうなるために歌い続け、日本を出て、Neilに出会ったのだと思った。
 だから、Neilを捨てて──少しばかり御幣があるにせよ──日本に戻ったあの時の自分の決断を、正しかったとも間違っていたとも思わずに、あれはやはりああなるべきだったのだと、今は心静かに思う。
 Vow Wowがアメリカに行くと決まった時に、Neilはアメリカには行かないと言った。だからバンドは辞めなければならない。そしてNeilは、元基にイギリスに残ればいいと言った。
 一緒に、何かやらないか。他のメンバーならきっとすぐに見つかる。ここでの方が、元基はきっとのびのび好きに歌える。
 それは楽観的な見通しではあったけれど、実現しそうにない絵空事でもなかった。バンドでもスタジオでも、文字通りの意味で数え切れないほどのアルバムやツアーに参加して来たNeilと一緒なら、日本人である元基がイギリスへとどまったとしても、何とかなるだろうと、確かに信じられた。
 それはひどく魅力的な申し出だったし、Neilが伸ばしたその手を、元基はふっと握ってしまいたいと、その時思った。頭の片隅で、そうしろ、そうした方がいいと、誰かがささやく声が聞こえた。
 そうして元基は、NeilよりもVow Wowを選び、アメリカへ行き、日本に戻った後で、バンドは消滅した。
 Vow Wowでなければあんな風には歌えないと、揺らがない自覚があった。端からどう見えようと、あれはあれでひとつの完成した、完結した形だったのだ。あそこからひとり抜け出て、Vow Wowの音を一生恋しがりながら別のところで歌い続ける自分に、元基は想像ですら耐えられなかったのだ。
 Neilを捨て、Vow Wowという自分の居場所を失い、空っぽになった掌を見下ろして、虚脱とも絶望ともつかないところへ叩き落されて、もう二度と同じようには歌えないのだと思った。歌うことはやめない。プロであることをやめても、歌い続けることだけはやめない。それでももう、Neilもいたステージで全身を開き切っていた自分はもうどこにもいないのだと、元基は空の掌を握りしめながら思った。
 髪を切り、歌う声を生徒たちに向かって使う日々が始まり、時折、ただのお遊びだと断って、以前の仲間たちと集まってステージに立つ機会を得て、そうやって新たに始まった元基の人生は、気楽と言えば気楽な、けれど誰にも見せない空虚さの中に、少しずつごまかしと仕方がないさというつぶやきが積み上がってゆく。
 昔の仲間たちと繋がる。そこから一足先に下りてしまった自分は、もう部外者でしかないけれど、元基のその声を惜しんで、ひっそりと作ってくれた小さな場所に、その時だけ入り込む。長くはいない。いてはいけないからだ。まだ、その場所に心を残している自分を、誰よりもよく知っているからだ。
 もうプロではないけれど、歌は続けると、そう伝えた時のNeilの落胆と歓喜の声を、今もよく憶えている。
 なぜ、とNeilは訊かなかった。ここに戻ってくればいいとも言わなかった。この世界に長くいれば、人の入れ替わりなど日常茶飯事だ。それぞれに事情と理由があり、外野があれこれ口を出すべきではないと、その思慮深さゆえに好かれこそすれ嫌われることなど滅多とないNeilは、他の仕事仲間や友人たちに接するその同じ態度で、元基に体にだけは気をつけてくれと、短く一言言った。
 ぽつりぽつりとこぼすひとり言のように、手紙と電話のやり取りは間遠ではあったけれど途切れることはなく続き、海と大陸と数年を経た後で、元基はまたNeilの元へ、たまの休みに訪れるという形で舞い戻った。
 最初の時のつたなさは微塵もなく、けれどどこか少年めいた情熱を取り戻した、ふたりの2度目の出会いだった。
 その2度目は、終わらないまま今も続いている。
 ゆっくりと忍び寄って来る老いの姿に、そうとはっきりと口には出さないままふたりで一緒に怯えて、元基よりは数歩先をゆくNeilは、元基を再び取り戻した後で、家族や友人を何人か失い、そのせいか自分が先に逝くことよりも、ある日突然元基が姿を消す──Cozyがそうであったように──ことを、何よりも恐れているように見えた。
 髪の色や肌の張りや、そんなわかりやすい形での老いと、そして次第に友人の数が減ってゆくという、若い頃には思っても見なかった形の老いと、それは古い家の壁に染み込んだ雨粒のしみのように、じわじわと広がり、ゆっくりと深まってゆく。逃れられないとわかっていて、逃れたいと特に思いもせず、それでも、もうそこには戻れないのだという思いは時折、老いてしまったことを自覚する時に、奇妙な親しみを持った痛みとともに、今ではきしんだ音を立てる骨にからみついて来る。
 もう、恋という言葉を口にするのも、照れではなくて懐かしさばかりが先に立つようになってしまった。恋人らしい繋がりも、気持ちが深まる分だけ、ごく自然に失せてゆく。それでも、こうしてじかに会わずにはいられない。会えば、互いの老け込み具合に驚くだけだと言うのに、それすらもいとおしいと思えるほど、元基もすでに若くはなかった。
 日本にいても歳よりも若く見える──見えるだけではないと、少し強がって思いながら──元基は、ここへ来ればまだ40前でも通用するだろう。東洋人は化け物だと、Neilが笑う。笑う顔は、出会った頃と一向に変わらない。つられて、元基も微笑んだ。
 飲みかけの紅茶を目の前のコーヒーテーブルに置いて、元基はNeilの頬に手を伸ばした。前に触れた時よりもさらにやわらかさを増したそこへ視線を当て、親指で骨の硬さをなぞりながら、肩へ向かって顔を傾けてゆく。肩を抱き寄せて来るNeilの長い腕の中で、元基は意味もなく目を閉じた。
 もし、あの時に戻れるなら。NeilがVow Wowか、選べと言われたあの時に戻れたら。また元基は考える。あの時以来、ほとんどずっと考え続けたことだ。もしと、そう考えることが馬鹿げていると思えば思うほど、その考えに取り憑かれてしまう。
 結局のところ、何も変わらないと、元基は思う。
 あの時にもう一度戻ったとしても、元基は同じ選択をするだろう。Neilを選ばないという意味ではなく、歌うこと以外を選ぶことが考えられないという、それだけのことだ。
 今は灰色がかった元基の髪に、Neilが唇を押し当てて来る。それにふっと眉を上げて、元基はNeilの首筋に額をこすりつけた。
 歌う自分も歌わない自分も、どちらも同じ自分だと言うのに、歌わない自分も歌う自分も一緒にさらけ出せるのは、今でもNeilの前でだけだ。
 歌う自分だけを求められることに、口には出さない屈託の分、心の隅に澱が降り積もってゆく。それを吐き出しに、元基はここまでやって来る。
 稀な声を持ち、それを使いこなす技量と能力を持ち、そんな元基と、そうではない元基の両方を、分け隔てなく抱き止めてくれるのは、きっと永遠にNeilだけだろう。
 会わない間にやったレコーディングやライブの音源を録ったCD──最初の頃はカセットテープだったのだと、時間の流れの早さをうっそり笑う──のことを考えながら、どの辺りから話を始めようかと、最後に会った時のことを思い出そうとする。
 熱さはない、今では形を変えた情熱の穏やかなぬくもりにNeilの体温を重ねて、元基は久しぶりにNeilの肩に両腕を回そうとしていた。
 重ねる唇が、記憶にあるそれよりもずっと乾いていて、頼りなくやわらかいことに淋しさを感じるには、ふたりは少しばかり歳を取り過ぎている。
 その先へはもう進むことのない浅い口づけに、熱を上げて湿る呼吸はなく、ふたりきりの空気がかすかに揺れるだけだった。

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