Pains Of Love

 紅茶を淹れに立ち上がった時、つい体が坐っていたソファの方へ向いた。
 開きかけた唇は、言葉を形作る前に、動きを止めた。
 紅茶を淹れると、告げる相手はいないし、それを聞いて、オレにも、と笑顔を見せてくれる誰もいない。
 ソファの背に置いていた、体を支えるための手を外して、Neilは少しの間、名残惜しげに空のソファの輪郭を視線でたどり、薄く苦笑いをこぼした後で、やっとキッチンへ向かった。
 どれだけひとりの時間が長かろうと、その時々に滑り込んで来る誰かと一緒に過ごす時間は、どれほど短くても、深く心の中に食い入ったままだ。
 そこから去って行った誰かの気配は、ずいぶんと長い間気配を色濃く残し、それが微笑ましく感じられることもあれば、ただひたすらつらいだけのこともある。
 今回は、その両方が、どちらがどれだけ多いとも言い切れない分量で、心の奥深くに淀んでいる。
 Neilは、紅茶の葉を入れてあるガラスのビンのふたを開けながら、そこから立つ香りに鼻先を打たれ、一瞬強く目を閉じた。
 アールグレイは好きではないと言った元基の、しかめて鼻の頭に寄せたしわを思い出して、Neilはひとりで笑う。
 歌う声の、凄まじいほどの音圧とは裏腹に、素の元基は小器用に心の裏側を隠す、自分を平面に見せることに長けた男だった。
 声の深みと、その声が生み出す世界の奥深さと、まるでそれが自分自身であることを隠したがるように、元基はことさら人前では軽薄に振る舞いたがった。
 オレは歌えばいいんであって、歌詞書くのはオレの仕事じゃないから。
 ベースを弾くしか能のない──元基同様、Neilも長い間そう振る舞っていた節がある──自分に、まさか作詞の役が回って来るとは思わず、他のメンバーが全員日本人で、歌詞が英詞なら唯一英国人であるNeilに、というのは確かに当然の流れではあったけれど、それでも歌詞なら歌う本人が書くものだと思い込んでいたNeilには、元基の発言は無責任のようにも、最初は思えた。
 自分の思うことを、言葉という目に見える形に変えるというのは、それはそれで新鮮な経験で、自分の紡いだ言葉を、元基の声があの色と表情豊かさで歌うというのは、面映い経験でもあった。
 Neilが書いた詞を、元基が歌う。歌いながら、言葉の意味や、文章の、表にははっきりと出て来ない意味を、Neilに尋ねて来る。説明する間に、ごく自然に、腕を伸ばす必要すらない距離に、ふたりは近づいていた。
 次第に、元基の声で聞きたい詞を、Neilは書くようになっていた。
 Neilの言葉を通して、元基は元基自身を表現する。自分で歌詞を書かないのは、あれは照れ隠しだ。そして同時に、元基は言葉にすればあらわになる自分自身のことを、ひそかに恐れてもいた。周囲が自分をこういう人間だと思い込むそれが、自分自身とかけ離れていればいるほど、なぜか元基は安心するらしかった。
 Neilは、元基の声を通して、自分の感情を吐露する方法を学び、自分のありのままを元基が表現するのを眺めて、少しずつふくらんでゆく自分の気持ちを自覚した。
 歌わないオレは、オレじゃないんだ。でも歌わないオレも、ちゃんとオレなんだ。
 ある夜、Neilの傍でひとりで酔っ払って、歌う時ではない平たい普通の声で、元基が言った。
 あの声を持たない元基に魅かれたかどうか、Neilには自信がない。
 日本人としてはごく平均的な体格だという元基は、Neilの傍にいれば薄く頼りなく、女性に間違われるという、英国人の男からすれば屈辱としか感じられないことも、ああそう、と、爪先を踏まれたほども感じないように右から左へ受け流し、その、他人からの評価など何ほどでもないという、あの声に対する揺るぎない自信に、Neilはひどく打たれた。
 その自信は、日本では傲慢としか受け取られず、自信なのではなく単なる事実だと元基が素直に態度に出せば出すほど、日本では孤立する以外の道がなかったと、決して自分の心情は歌では語らない男が言う。
 みんなオレのこと嫌いって言うんだ。
 言いながら元基は笑っていたけれど、Neilにはそれが泣き顔のように見えた。
 最初の一音で、元基は世界の色を塗り替える。空も風も空気も、何もかも、元基のあの声は、世界のすべての色を一瞬で塗り替える。何もかもを圧倒する声。引きずり込まれずにはいられない、魅かれずにはいられない、あの声が作る世界に、一生いたいと、思わずにはいられない。
 あの声に魅かれ、そして元基自身に、Neilは魅かれた。
 あの声ゆえに、元基が、周囲に遠巻きにされるということを理解して、Neilは元基の傍にいたいと思った。あの声を聞くために、元基そのものを欲しいと、そう思った。
 歌う声ほどは魅力的ではない、普段の元基の声すらいとおしいと思い始めた頃には、歌わない時の元基の素顔も、元基が自分からは決して明かさない内側も、それはそういうものだと受け入れてしまっていた。
 好きだという言い方が、愛しているという言い方に変わるのにそれほど時間は掛からず、するりと自分の人生へ入り込んできた元基をするりと受け入れて、元基を抱きしめて眠る夜に、別れの予感に苦しめられなかったと言えば嘘になる。 愛していると、自分が言う回数ほど元基が応えてはくれなかったからではなく、言葉や生まれの違いのせいではなく、バンドの進むべき方向と、Neilの望みが重ならなかったからではなく、元基にとってNeilは、ただひと時安らぐための場所だったに過ぎないのだ。
 アメリカに行くんだ。
 マネージメントがそう決めたのだと、元基が言う。浮き立った様子でもなく、沈痛な面持ちでもなく、まるで明日は雨だと告げる冬の日の天気予報のように、何の感情も込めずに、元基が言う。
 元基はここにいればいい。一緒にバンドをやろう。Vow Wowをやめて、好きに歌えばいい。
 元基を傲慢だと言ってつまはじきにする日本人たち──メンバーたちは違ったけれど──と別れられれば、その方がいいだろうとNeilは思った。この国にいた方が、元基は自由に呼吸ができる──自由に歌える──と、Neilは思ったのだ。
 元基の表情が歪んだ。困惑だけを浮かべて、いつも感情がつのるとそうなるように、早口の少し聞き取りにくい英語で、元基が言う。
 無理だよ。Vow Wow以外で歌うなんて、無理だよ。
 少し激した口論に続く、涙の混じった悲しい声。泣いたのは、Neilの方だった。
 あんなに泣いたのは、20を過ぎてからは初めてだったような気がする。恋はいくつかしたけれど、あんな風に、体の深い部分をもぎ取られるような痛みは、ほんとに久しぶりだった。
 さようならと、元基が英語で言う。ありがとうと、それも英語だった。そして、Neilにどういう意味か教えないままいつも言っていた日本語を、最後に付け加える。
 好きだよ。
 意味を尋ねたことはなかったけれど、元基の声の調子で、Neilは最初からそれがどういう意味か知っていた。
 うなずいて、自分もだと、英語でそう言った。それが最後だった。
 Loveという言葉を、元基に歌わせるために何度も何度も歌詞の中に使いながら、最後まで、それを日本語で何と言うのか、元基に訊いたことはなかった。
 訊くべきだったと思う自分と、訊かなくてよかったのだと思う自分が、今も同時に存在する。
 湯の沸く音を聞きながら、Neilは紅茶の葉の中へスプーンを差し入れて、1杯目2杯目をすくった後で、3杯目に迷った。
 元基は、もうここにはいない。アメリカにすらいない。日本へ戻って、Vow Wowは、もう終わってしまった。
 自分のいないところで、元基がVow Wowとして存在するという痛みを、感じなくてすむ。代わりに、元基の居場所が永遠に失くなってしまったのだという痛みを、一生感じ続けることになった。
 Neilは3杯目の紅茶の葉をすくって、ティーポットの上まで持って来たところで、それをまたゆっくりと元へ戻した。
 2人分の紅茶は、もう必要ないのだ。
 Neilの内側は、今も変わらず痛み続けている。痛みの深さが、想いの深さだ。痛みの分だけ、元基を身近に感じ続けていられる。
 愛していると、日本語でさえ最後まで絶対に言わなかった元基の、歌う声を耳の奥に思い出す。歌う元基こそが、ほんとうの元基だ。それでも、歌わない元基を同じほどいとしいと思うのは、歌わない時の元基が見せた、素直な表情のせいだ。
 声で、世界全部の色を塗り替える元基は、歌わずにNeilの世界を変えた。骨の芯に染みとおるあの声なしに、元基はNeilの内側に、するりと住み着いてしまった。
 元基はここにはいない。けれど、Neilの心の中には、今も元基が変わらずに住み着いたままでいる。それでも、あの声なしには、色のないままのNeilの世界だった。
 3分より長く葉を蒸らし、元基のお気に入りだったカップをわざわざ取り出して、紅茶を注いだ。
 立つ香りに目を細めて、元基のいない居間の方へ振り返る。元基の幻をそこへ引き寄せて、Neilはいっそう深く目を細めた。
 あの頃口移しに覚えた日本語を思い出そうとしたけれど、うまく音にならず、耳の奥に、ただ元基の歌う英語の歌詞が流れるばかりだった。
 力なく微笑んで、元基がそうしていたように、両手で紅茶のカップを持ち上げる。あたたかな湯気が、ひとの体温のように、唇の先を打った。

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