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2012年7月

紅茶、コーヒー、カプチーノ * 7/5

 私は紅茶には砂糖は入れない。ミルクを入れて飲む。
 お茶を淹れる楽しさを教えてくれた友人が、それこそ大きなマグの底に大量の砂糖を入れている私を見て、
 「そんなに甘くしないと甘く感じないなら最初から入れなければいい。」
と、諭すようにも咎めるようにも、あるいは単なる感想として、そう私に言った。それ以来、私は紅茶に砂糖を入れるのをやめた。

 父はコーヒーしか飲まない。母は父が淹れたコーヒー以外は、日本茶ばかり飲んでいる。世間的にはただののろけだが、父が淹れたコーヒーがいちばん美味いのだそうだ。
 私の両親は酒は飲まず、飲むための酒が家にあったことはなく、おかげで私は酔っ払いを生ではほとんど見たことがない。
 酒の流れかどうか知らないが、私は炭酸飲料もほとんど飲んだことはなく、いまだ好きでもない。コーラの類いは、私には悪魔の飲み物のように思える。あの口と喉を攻撃して来る泡の凶悪さと言ったら。
 父はなぜかコーラが好きで、量は飲めないが、ちびりちびりと冷蔵庫から出して飲んでいたのを覚えている。

 私がコーヒーを飲まないのは、なかなか美味いコーヒーに出会えないからだ。今までに数回、まるでワインのように香りの良いコーヒーを飲んだことがある。
 私はどちらかと言えば、酸味の強いコーヒーが好きらしく、残念ながら紅茶のように砂糖を入れずには飲めないが、それでも自分好みのコーヒーに出会えば素直に天にも上る気分になれる。
 コーヒー通の父へは、実のところコーヒーの飲めない申し訳なさを感じているが、それを口にしたことはない。父のコーヒーは、残念ながら私の好みではないのだ。

 さて、5年ほど前、私は突然カプチーノを飲み始めた。砂糖も入れずにだ。
 一体何が起こったのかよくわからない。振り返って見れば、その頃カプチーノマシンを買った知人が、やたらと人を招いてはカプチーノを振る舞いたがり、常に暇と思われていた私は誘われる機会が多く、
 「コーヒーの類いは飲みません。」
とはっきり断るのは気が引ける程度の知人だったから、最初はやや無理をしてそのカプチーノを飲んでいたのだが、回数を重ねるうちに、あの濃さに慣れたのか気に入ったのか、同時期にゆるゆると流行り始めていたいわゆるカフェまがいのコーヒーショップへ、自分で足を踏み入れるようになった。
 その後は、カプチーノがきちんとメニューにあるカフェを見つけては味を試しに入り、機械が置いてあっても、作る人間が作り慣れているとは限らないことがほとんどで、残念ながら、常に一定のレベルの味を提供してくれることが期待できるのは、大手チェーンのコーヒーショップと言うのが現実だ。

 それより少し前に、カフェモカと言う、手っ取り早く言えばコーヒーとココアを混ぜたような飲み物に出会い(本場の本物はそんなものではもちろんない)、ひと頃やたらとその安っぽい甘さが気に入って、そればかり飲んでいた。
 このカフェモカは、安っぽくならとことん安っぽく作った方が、きちんと"甘くて"美味い、と言う飲み物で、インスタントコーヒーに、すでに砂糖の入った安いココアを贅沢に入れて、後は適当に混ぜるだけ、と言うやり方がいちばん美味しいように私には思えた。
 きちんとコーヒーを豆から挽いて淹れたり、練ればきちんと美味しくなるココアを使ったりすると、途端にニセモノであることばかりが強調される味になってしまう、不思議な飲み物だった。

 なぜか急にカプチーノ好きになり、大抵飲みたくなるのが深夜過ぎで、そんな時間にカプチーノをきちんと淹れてくれるカフェなど開いてはいないし、そんなわけで、私は自分でカプチーノを作り始めた。
 最初は安いカプチーノマシンを買って、しかしこれは手入れが意外と大変で、狭い台所で場所も食う。そして作った後にきれいにしておく手間が面倒になり始めた頃、こちらの心変わりを見抜いたように突然動かなくなってしまった。
 こちらから膝を折ってプロポーズをした相手に、性格の不一致で離婚を言い出すような、そんな後ろめたさで、私は割りとさっさとこの機械を処分し、またカフェ通いを始めた。
 やはり自分で作るよりは、こうして店で飲んだ方が美味いじゃないかと、月中に財布の中身がとんでもないことになるまで、私は新米のアル中患者のように、急性カフェイン中毒を非常に軽く扱っていた。

 収入の何分の一かを、カプチーノに費やす財力はなく、そうして私は再び、自分でカプチーノを淹れると言うことを決心し、前回の失敗を踏まえて、今度はいわゆる直火式のエスプレッソメーカーを購入した。店で飲むカプチーノ4杯分の値段だった。
 エスプレッソ用のコーヒーを買って来て、店の真似をして本物のホイップクリームも買い、泡だったミルクは自分で作れないこともなかったが、妥協してただ温めたミルクにした。見た目は少々違うが、カプチーノもカフェラテも、飲んでしまえば大した違いはない。
 一緒について来たマニュアルに従って、言われた通りの量のコーヒーを入れて、火の上に乗せておけばそれでいい。湯気がどこかから大量に吹き出て怖い思いをすることもないし、機械ではないから壊す心配もない。終わった後で分解して洗うのも簡単だし、経年劣化は部品を取り替えればいい。
 イタリアの家庭には必ずひとつある台所用品で、20年から30年同じものを使っている家庭も珍しくないと、そんな記事もどこかで読んだ。

 その後、このエスプレッソメーカーを使って、本物のチョコレートシロップ(チョコレート風味、ではなく)を買って来て、限りなく私の頭の中では完璧に近い(と信じている)カフェモカも作るようになった。
 もう、夜中の2時にカフェモカが飲みたいと思っても、店まで行く算段をつけたり、そもそも開いている店があるのかと心配する必要がなくなった。
 そして、いつでも好きな時に飲めると思うとそれほど執着も病的ではなくなり、カフェイン中毒もやや治まった。

 これをいずれ実家に持って帰って、恐らく飲みたがるだろう母に振る舞っても良いかと考えているが、それは父の気持ちを傷つけるかもしれないと考えもする。
 紅茶しか飲まず、コーヒーの類いは、父が淹れても飲まないのに、突然カプチーノなら飲めると言い出すのは、わかっていてもずっと、
 「コーヒー、飲むか?」
と、淹れる前に必ず私に訊く父に、非常に悪いような気がする。
 「ううん、いらない。コーヒーは飲まない。」
と言うのが私の常の返答だった。

 父が、エスプレッソの類いを好むかどうか、私は知らない。そもそも父が、そういう種類の飲み物があると知っているかどうかも知らないのだ。
 コーヒー好きの父のおかげで、私は喫茶店と言う空間を好きになり、美味しい紅茶を出す店を見つけることができ、稀には好みのコーヒーにも出会い、そして今は自分でカフェラテを淹れて飲むこともある。
 いっそ父のコーヒーと私のエスプレッソと、交換して飲んでみると言うのはどうだろう。
 父のコーヒーに砂糖を入れるのは冒涜な気もするが、さて、どんなものだろうか。

 煮出した後で冷やしたジャズミン・ティーが、私のこの夏のお気に入りだ。

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苦楽 * 7/6

 ある年のゴールデンウィーク、私は長編を1本書き上げた。
 長編とは言ってもせいぜい10万字程度の、今なら短編と小声で言うのが精一杯なものだったが、当時の私には充分に長いひとかたまりで、ほとんど日記のように書き継いで来たそれがそろそろやっと終わりそうだから、何の予定もなかったそのゴールデンウィークの間に、どこへも出掛けずに最後まで書き上げてしまおうと、そうやって始まった私のその連休だった。

 どうと言うことはない内容で、ふたりの人間が出会って、ほとんど事故のように恋に落ちて、その理由が前世で実はひとりの人間だったからだと、今読み返したら私は多分その場で自分の墓穴(はかあな)を掘り始めるだろう陳腐さだが、それでも、売ってもまだ余るような若さだけの体力と気力と情熱を傾けて、私はその物語を書き、そしてようやくそれは書き上がろうとしていた。

 こんな風に何かを作った経験があればわかるだろうが、こんな最終段階にはほとんどトランス状態になることがある。
 手を動かして書いているのは確かに私だが、私の頭の中になだれ込んで来る思考は、私のものなのに私のものではないようで、頭の中で綴られているのは私が考える前にすでに存在していた何かで、私はただそれを自動書記のように紙に書き写しているだけだと言うような、そんな状態だ。
 この時、私は生まれて初めてそんな状態になり(小説のようなものを書き上げたことは以前にも何度かあった)、連休の半ばからほとんど飲まず食わず、トイレにすらろくに立たずに、確か仮眠を2、3時間取っただけで、後は60時間程度、不眠不休で書き続けた。
 そして連休最後の日、これは単なる日曜だったと記憶しているが、早朝にこれをついに書き上げて、私は誇張ではなく、天から降って来る光を、自分の部屋の中で見た。

 単に朝になって、部屋の中に朝陽が差し込み始めたと言うだけだったのかもしれないが。

 私は、あれほど清々しく爽やかな気分を、あれ以前もあれ以後も、味わったことがない。
 解脱とか昇華とか、無理に名づけるならそんな状態だったのだろうと、私は考える。
 身体(しんたい)をくるりと裏返し、ごしごしと容赦なく洗い、表に返してまた洗う、そうしてまっさら新品同様になったような私だった。
 額のどこかに穴が開き、そこから外の世界が見える。世界はふた色明るく、ふた色鮮やかで、何もかもが恐ろしいほど透明で、そして完璧さに満ちていた。自分の中の汚れがすべて洗い流され、私の中は完全に空っぽで、そして同時に満ち満ちてもいた。
 恐ろしいほど昂揚した気分のまま、私は部屋の中を歩き回り、何かをせずにはいられず、そうして、どういう順番だったのかもう記憶は定かではないが、とにかくある友人の家へ向かって突然出発した。

 連休前に恐らく友人から聞いていたのだと思うが、その日曜はたまたま友人の誕生日で、私はその誕生日を直に会って祝いたいと急に思いついたのだ。
 どの時点で手に入れたものか、これも憶えていないが、とにかく私は花束を抱えて電車に乗っていた。友人の家までは2時間近く掛かる。事前に友人に電話をしたのかしなかったのか、私はまったく憶えていない。せずに突然の訪問だったのだとしても驚かない。幸いに、友人も私の少々奇矯な振る舞いを、笑って受け入れてくれる人だった(だからこそ、私と親友でいてくれたのだ)から、そのことはあまり問題ではなかった(と少なくとも私は思っている)。

 さて、その行きの電車の中でも、私の興奮状態は同様に続いており、周囲の見知らぬ同乗者たちには私の様子がおかしいのが明らかだったのではないかと、今振り返れば思う。
 私はほとんど覚醒剤使用者のように落ち着きがなく、笑みが絶えず、60時間ろくに眠っていない風体で、服装もぞんざいだったろうし、挙句膝の上には何事かと思うような大きな花束を抱えて、その時私は完全におかしな人だったろうと思う。
 ひとつ憶えているのは、私は落ち着きなく車内を絶えず見回して、そしてある時点で乗り込んで来た年配の女性(60から70くらいと思われた)に、車両入り口に佇むその人へ向かって、車両半ばから大声で声を掛け、自分の席を譲ったのだ。
 私は完全に、楽しく正しく狂っていた。私は完璧に真っ当だったが、あの時の外の世界では、そうは思われなかったに違いない。
 ともかくも幸いにその女性は席に坐ってくれ、私はこれも弾むように席を立ち、弾むように車内を歩き、弾むようにつり革につかまった。警察を呼ばれなかったのは、ただただそこが走る電車の中だったからだ、というただ一点だ。

 無事に乗り換えの駅に着き、友人宅へ向かうために次の電車に乗り、私は相変わらず弾むような飛ぶような足取りで歩き続け、友人の家に着き、まだパジャマ姿で出て来た友人に、
 「誕生日おめでとう!」
と、一言ほとんど怒鳴るように告げて、花束を渡して、明らかに当惑している彼女に何の説明もせず(後で電話で状況を説明はした)、私はそこへほんの2分とどまっただけで立ち去った。

 まったく同じ状態で自分の家へ約2時間掛けてとんぼ帰りし、そして多分、私はその日の午後、泥のように眠ったに違いない。
 目覚めてもまだ爽やかな気分は続いており、だが夜の暗さの中では、あの視界の拭ったような鮮やかさはすでに失われていた。やや落胆したような記憶がある。

 あれ以来、私はあの、まさしくチャクラの開いたような感覚を再び味わいたくて、書き続けている。
 自動書記のような状態になることは案外珍しくはないが、書き上げた後の虚脱や放心や昂揚や洗い上げられたような爽やかさや、そんなものも普通にあるが、"あの"、すべてが外に向かって開き切り、私が間違いなく世界の一部になり、私の中に世界のすべてがなだれ込んで来て、そして私はそのすべてを受け入れるだけに無限であると言う感覚は、あれきり味わえない。
 あの状態を思い出すだけで、使ってはいけない薬を使っている時のような(言っておくが、私は覚醒剤等を使った経験はない)状態に、私は軽く陥る。思い出すだけで"ハイ"になれる。
 私はあの感覚にすでに中毒しており、禁断症状に楽しく苦しみながら、その時を望んで書き続けている。

 書くと言う実際の作業は単なる肉体労働だが、脳を使っている感覚は悦びだ。私は苦しみを愉しんでいる。愉しみを苦しんでいる。
 私はあの愉悦を求めて書き続けるし、書き続けるいつかの先に、あの愉悦がまたあると、信じて疑わない。

 書く内容など問題ではない。誰も読まなかろうと、私はあの時、あの物語を書き上げると定められていたのだ。あの物語はあの時、私の脳を選んでどこからかやって来たのだ。書き上げられるために。
 私の脳は、どこかへ向かって全開になり、やって来る何もかもを受け入れた。受け入れることのできた、その時の私の脳だった。
 私は、どこかを漂っている、書き上げられることを待っている物語を、これからもずっと探し続けるだろう。脳を開き、底を深くし、手指の先へ真っ直ぐに滞りなく伝わるように、私は書き続け、そしてあの愉悦の時を求め続けている。

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染み * 7/11

 私は、膿と二酸化炭素の詰まった皮膚の袋だ。
 時折、皮膚のどこかを破って中身を洗い流してしまいたいと思うが、洗い流したいそれを、一体どこへ捨てたものかと思案する。人(少なくとも私と言う人間)が粗大ゴミか不燃ゴミの日に外へ出しておけないのはほんとうに不便だ。
 皮膚と肉と骨と内臓でできた、人間と呼ばれるものも、ゴミ箱の中に溜まるゴミと何が違うのかと、私は時折思案する。腐って土に還るまでには腐臭と融けた体を撒き散らし、焼けば灰にはなるが、燃料と時間の無駄ではないかとも考える。いっそどこか埋立地に、ぎちぎちと埋めてはもらえないだろうか。

 頭を振ると音がする。からからと、干乾びた私の脳が、頭蓋骨の中で転がって音を立てる。灰色の、皺もない死に果てた細胞だったものの成れの果ての、実を結ばない何かの果実の種のような、私の小さな脳髄だったもの。
 頭蓋骨の下の私の体の中には、膿が満ちている。可哀想な私の白血球が必死で闘い、死んだ後に残したものが、私の体をたぷたぷと満たす膿だ。
 憐れな白血球は、何と闘ったのだろう。ただおとなしく、血管の中を運ばれていればよかったものを、何を相手に、そんなに一心不乱に闘ってしまったのだろう。私の体をすべて膿で満たし、色の失せた皮膚の下でたぷたぷと満ちて揺れるだけだと言うのに。溜まった膿はどこへも出て行かず、ただ溜まってゆくだけだ。

 生きるために呼吸をしては、二酸化炭素を吐き出す。息を止めてしまえればいいが、窒息は苦しいものだ。あらゆることに気概のない私は、窒息すら耐えられない。
 皮膚のどこかを切り裂いて、膿を全部流せばいい。一緒に二酸化炭素も吐き出して、私はただの皮膚の残骸になって、自力では人の形さえ保てないものになれば、ぱたぱたと小さく畳んで、どこかへ放り込んでおけばいい。
 膿と二酸化炭素を包み込むだけの皮膚の袋の私は、自分が世界から隔てられているのをこの皮膚のせいにして、この皮膚が、例えば膿の腐った臭いを包み隠してくれているのだとか、二酸化炭素を抱え込んだ無用の長物未満の存在なのを覆い隠していてくれているのだとか、そんなことには思い至らない。
 私はただひたすらこの皮膚を憎み、その憎しみが間違った対象に向けられていると知りながら、本来の的に憎しみをぶつける恐怖に耐えられずに、私はこの、私の腐り果てた、捨てることさえできない本性を、とりあえずは人に見える形に整え、私に向かう世界の視線(そんなものがあると信じるのは、ほとんど私の妄想だ)を遮蔽してくれている皮膚を、憎んでいる。

 私は間違っているし、この皮膚に深く感謝すべきなのだろう。そして、私の憐れな白血球にも、心から感謝すべきだ。
 皮膚でできたいれものの私は、中に詰まったものが膿と二酸化炭素でしかないことに絶望しながら、けれど他の何を生み出すこともできず、そしてこの中身を捨て去って別の何かを入れ替える術も知恵も持たない。
 私は極めて愚かで、土に還ることもできない汚物で、私は生きていようと死んでいようと、無意味と言う点で一切世界に影響を与えない。私は、生きているだけでこの世界を汚しているが、死んだ後も私の体は世界を汚し続けるし、その汚れが、私を結局無意味未満の存在にする。
 少なくとも生きていれば、私は、私が世界に垂れ流す汚れ具合をコントロールすることはできる。死んだ後の死体の腐り具合は、私にはどうすることもできないのだ。

 私の白血球は、何を相手に闘って、膿に成り果ててしまったのだろう。空っぽの私の中に、一体闘うべき何があったと言うのか。
 あるいは、空のままでは人の形が保てず、それなら膿でも溜めれば少なくとも形は整うかと、その時すでに萎縮していたろう私の干乾びた脳が考えたのか。
 私はもう、自分がひとであった時のことを思い出せない。気がつけば私は、膿と二酸化炭素の詰まった皮膚の袋だった。頭を振ればからからと音がし、そこに脳が詰まった重さがあった記憶はない。
 私は、正確な意味で血も涙もない人間だ。膿だらけの体から血や涙が流れ出るわけはなく、こんな風に思慮もない人間が愚かでもあるのは、すでに生き物としての意味さえ満たしてはいない。
 私は正確な意味で人でなしであり、だから、皮膚の下にきちんと血が流れ、思考するための、真っ当な大きさと重さの脳を持つ人間たちと、繋がれるわけもない。

 皮膚が、私と世界を隔てていると、そう考えるのは私の自由だが、実際に私と世界を隔てているのは、私の中を満たしている膿と二酸化炭素であり、干乾びて使いものにならない私の脳だ。
 皮膚の色でも言葉でも育ちでも何でもなく、私が世界と繋がれないのは、ただ私のせいだ。
 私の皮膚は、白血球と同じほど必死に、私の腐り果てた中身を包み、世界から隠し、私をごく普通の人間に見せようとしてくれるが、この皮膚をただ憎む私は、皮膚にさえ隠せない愚かさを垂れ流して、いっそう世界から遠ざかってゆく。
 人でなしの私は、自分の皮膚に感謝することさえせず、ただ憎むしかしない。皮膚はいつか私を見限って、どこかへ去ってしまうだろう。私の皮膚に生まれたことを後悔しながら、私に付き合ったことも後悔しながら、染みついた膿の臭いに辟易しながら、私を置いて行くだろう。

 そうして私は、膿の水たまりになって、地面の染みになる。人形(ひとがた)ですらないただのいびつな丸の、気味の悪い緑の染みだ。そんな風に、世界から消えてしまえればいい。

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喫茶店 * 7/18

 好きな人がいるの、と彼女が言う。おやおや、と私は思いながら、手元のコーヒーに視線を落として、スプーンでかき混ぜている振りをする。彼女はカプチーノの泡をスプーンの先でいじりながら、上に掛かったチョコレートの線を、軽くくずして遊んでいる。

 で、と私は先を促す。どんな人?
 うーん、と彼女は考え込むような表情を作る。考えているのは、どんな人かと言うことではなくて、どう言えば私に上手く伝わるのか、そっちの方だ。
 話してるととっても楽しい人で、気遣いがすごくできる人で、いろんなことに詳しくて、好きなことにはすごく夢中になるタイプ。
 言葉を連ねる彼女の顔がほころび、幸せそうに火照り、決して整っていると言うわけではない彼女の顔立ちが、こんな時には何倍も魅力的に見える。彼女の言うその人が、そのまま彼女にも当てはまるのだが、彼女自身には自覚もないらしい。

 私はやっとスプーンをコーヒー皿に戻した。
 脈はありそう? 意地悪のつもりでなく、私はただ訊いた。
 彼女の笑みがいっそう深くなり、それからぎゅっと強く瞬きをして、鼻先にしわを寄せる。飼い主相手に困った時の犬のような表情だ。それから、彼女は冗談めかした仕草で首を振った。
 友達もたくさんいる人だし、正直わたしのこと、ちゃんと見覚えてるかどうかも怪しい。その人のいるところにいると、壁紙みたいな気分になるの。
 そんなことはないよ、と私は言わなかった。多分彼女はそう言って欲しいだろうと思ったが、同時に、そんなおためごかしを、私の口から聞きたくはないのも知っているからだ。

 彼女は魅力的な人だが、恋人にしたいとか一緒に暮らしたいとか、そういうこととは少し別で、世界の大半は彼女が誰にも気を使わない、わがまま勝手に振る舞う自由気ままな人間だと思っていて、だから一緒に真剣に暮らす相手には向かないと思っているらしい。
 私自身、彼女と暮らせば、互いに気遣うのに疲れてしまうだろうと言う感想を抱いていて、親しくなれば見えて来る、彼女の意外な繊細さと、気ままに振る舞っているように見せながら、実のところこちらに気づかせずに気配りをするところと、ああこれは、たまにひどく疲れてしまうのだろうなと、私は彼女のことを考えている。
 実際に、周期的に彼女は人嫌いに陥って、人恋しさを全身に滲ませながら全身に針を立てる。それはまるで淋しがり屋のハリネズミのようで、そうなれば付き合いの長い私も、気をつけて距離を取らなければ針に刺されて傷つくことになる。私が傷つくと、彼女がまた傷つく。

 滅多と恋患いの話などしない彼女の今度の人は、ほんとうに優しくて気持ちの良い人なのだろう。けれど、恋が成就するかどうかはまた別の話だ。
 その人と、もっと一緒にいたいけど、みんな忙しいから。
 彼女が言わないその後は、忙しいから、私と新たに付き合うための時間を捻出させる価値なんて、私にはないもの、だ。

 難しい問題だ。私は彼女をとても好きだが、世界の他の人たちが、同じように彼女を好きかどうか知らない。私にとって、私以外の誰かが彼女をどう評価しようと、私の彼女への評価にはまったく影響はなく、もちろん、私の他に、私のように彼女を好きだと言う人がいるなら、それは単純に喜ばしいことではあるが、同時に、私は時々そんな人たちのことを想像して、その人たちに嫉妬するのだ。

 私は、彼女を他の誰かと分け合うことに慣れていない。私から見れば、充分に人好きのする彼女は、けれど恋の相手に選ばれることは滅多となく(私も、人のことはまったく言えた義理ではない)、だからいわゆる、恋人ができて友情を二の次にする云々と言う事態が、私たちの間に起こったことがなく、彼女は大抵の場合、常に私ひとりのものだった。

 私たちを親友と評する人たちも数多くいるが、私はその呼び方に慣れていず、彼女を親友と決めるのは私であって他の誰でもなく、私を親友と決めるのも、また彼女だけであって他の誰でもあるはずがない。
 私たちは、互いを親友と呼ぶことをせず、それを言葉にして確かめ合ったこともない。私たちは、非常に親しい間柄でいて、長い間この親(ちか)しさを続けていて、それを特に名づけたこともなければ、名づける必要があると感じたこともなかった。
 多分、だからこそ、私たちはこんなに長い間、互いの皮膚の融け合ってしまうような親しさを、抱き続けていられるのだろう。

 私はコーヒーを飲みながら、彼女が語る新しい恋の相手に、ひそかにやきもちを焼く。
 彼女の、弾むような声の恋の話を聞くのを楽しみながら、見たこともないその人の、慈母のような微笑を想像して、ひりつくような痛みを覚える。
 素敵な人に違いない。
 私とは違って。

 その人が、他の人たちと楽しそうにしてると、仲間に入りたいなあって思うの。この間必死に話し掛けたら、みんな黙っちゃった。
 彼女がさも可笑しそうに言う。
 泣きそうだったけど、我慢したのね、と私は思う。泣くのが許されるのは中学生までだ。残念ながら、私たちはそんな可愛らしい年頃では、もうない。
 すごくね、優しい人なの。せめて友達になれたらって、思うだけで楽しくなるけど、そこから先は辛いだけなんだよなあ。
 彼女はもう、目の前のカプチーノのことを忘れてしまったように、横を向いて、まるでひとり言のように言う。私はその彼女の横顔を見て、そうね、辛くなるよね、と応えた。

 恋をすることは歓びだが、ある時点から苦痛だけになる。片思いは、自分だけで終わらせるものだから、思い切るきっかけを逃して、わざわざ苦痛を長引かせることになる。
 馬鹿だと自分のことを思いながら、その時にはもう、こんなに自分を苦しめる相手のことを憎み始めていて、憎しみの深さが気持ちの深さだと知らん振りもできず、いっそう振り捨てることができなくなる。
 なぜ、こんなに好きになってしまったのだろう。出会わなければよかった。この世に存在すると、知りたくもなかった。世界が全部光り輝くような思いの後で、後はひとりきり、水も日陰もない砂漠を、目的地もなく延々と歩き続けるような、そんな思いをするとわかっているのに、なぜ恋をしてしまうのだろう。
 なぜ、あの笑顔を、美しいと思ってしまったのだろう。

 好きな人ができると、ほんとに自分の粗ばっかり目について、落ち込むんだよね。好きになってもらう価値なんてないのに、おこがましいって、そう思うんだけど、好きになるのを、それでやめられたらいいんだけど。
 彼女は、途切れもなく言葉を継ぎ続ける。私はコーヒーを飲む合間にその言葉をすべて拾い上げ、彼女の痛みを自分の身に引き受けようとする。
 できはしないとわかっていて、それでも、彼女の痛みを感じようとせずにはいられない。
 その人とね、1日ずっと過ごせたらって考えて、どこに行こうとか何をしようとか考えるの。ばかばかしいけど、楽しい。楽しくて、その人のこと、もっと好きになって、どうしようもなくなるの。
 うん、そうね。私は、自分の、ずいぶん前に終わってしまった片思いのことを思い出しながらうなずいていた。

 私のコーヒーはそろそろ空になり、彼女のカプチーノは、消え掛けた泡の端が、カップの縁に未練がましく生き残り、それはそのまま、私たちの、実らない片思いの残骸のように見えた。
 冷えたカプチーノには気づかないまま、彼女はまだ私に横顔を見せている。
 辛いなあ、と彼女がつぶやく。辛いね、と私がつぶやき返す。

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隔たり * 7/21

 あなたは今何をしているだろうか。
 日曜の午後、冷蔵庫を開けて冷たい飲み物を探しているかも知れず、外へ出て買い物でもしているかも知れず、あるいは、誰か親しい人と会う約束に出掛ける途中だろうか。

 あなたは今どこにいるのだろうか。
 自宅の自室か。近所のコンビニか。あるいはバスが電車に乗って、流れる街の眺めをぼんやり目に映しているところだろうか。

 あなたは今何を見ているだろうか。
 テレビか。コンピューターのモニタか。携帯やスマートフォンの画面か。あるいは映画かもしれないし、これから乗り換える電車のやって来るホームの線路かもしれない。

 あなたは今何を聞いているだろうか。
 テレビのコマーシャルの音か。たまたま好きな曲を流しているラジオか。コンビニの有線か。それとも車の中で、お気に入りの曲を山ほど流しながら一緒に歌いでもしているかもしれない。

 あなたは今誰と一緒にいるのだろうか。
 家族か。親しい人か。友達か。恋人か。それとも、ひとりを楽しみながら、駅までの道を歩いているだろうか。

 あなたは今何を考えているだろうか。
 夕食のことを。昼食に食べたそうめんのつゆの出来が今ひとつだったこと。明日月曜が気が重いということ。それとも、誰か何か、とても大切なこと。考えるだけで、あなたの頬に自然に笑みが浮かぶ、その類いのこと。

 あなたは今誰の声を聞いているのだろうか。
 友達の声。家族の声。あるいはあなた自身の声。それともあなたがお気に入りの、あの映画監督のインタビューを聞き返しているところ。

 私は今、あなたのことを考えている。これは一体恋だろうかと、自分の胸の内を覗き込むようにしながら、あなたのことを考えている。楽しそうな、幸せそうなあなたを想像して、私はひとり胸をあたたかくし、いやこれは恋ではないと、その時だけの結論を下す。次の瞬間には、いやきっと恋だと、真逆の結論を下す。私はここのところ、そんなことを繰り返している。

 楽しそうで幸せそうなあなたを見て、私は時々幸せになり、時々辛くなる。あなたのその楽しみに私はもちろん含まれず、私はただ遠目にあなたを眺めるだけで、あなたは私の視線に気づかずに、私はここにいることすら知らない。
 あなたの周囲に、私は嫉妬し、妬みの末に自分が惨めになって、あなたに背を向けて、だがそれがもっと辛いことに気づくと、またあなたを見つめることを再開する。
 あなたを見つめずにはいられない。幸せそうな、楽しそうなあなたを、私は見つめ続けずにはいられない。

 昔々、初恋の人を背の高い花に例えて、自分を雑草に例えたが、現実に私は雑草ではなく、水や空気ですらない。あなたにとって、私は存在しない何者かで、せめて私がここにいることに気づいてはもらえないかと、近頃私が考えるのはそんなことばかりだ。
 私はここにいてあなたを見つめている。あなたは私がこの世に存在することすら知らず、他の誰かに微笑み掛けている。私はここにいて、せめてあなたが振り返って、その笑顔をはっきり見ることができないだろうかと考えてる。一度でいい、あなたが、私に微笑み掛けてはくれないだろうかと、そんなことを考えている。

 私が雑草なら、土の下で根を伸ばして、いずれあなたの根に触れることもできるだろう。
 私が水なら、あなたの乾いた葉を潤すことができるだろう。
 私が空気なら、私はあなたに必要なのだと、胸を張ることもできたろう。

 私はそのどれでもなく、この世に確かに在ると証明もできず、あなたの視線と微笑みの行方によって不在の証明をされ、あなたへの想いの存在によって、私はこの世に在るのだと知覚するしかない。
 私がここに在るなら、あなたが見たいものを塞いでしまう邪魔ものにしかならないだろうか。ただ目障りな遮蔽物でしかないだろうか。
 あなたを想う私は、確かにここに存在するが、私を知らないあなたにとって、私は存在しないものだ。その間で、私は自分が在るのかないのか迷い、混乱し、ないなら消すこともできない自分の存在を、空の掌を見下ろしてただ持て余す。

 あなたがいるから私は在る。あなたにとって私はない。私は何だろう。あなたによってしか、在ると知覚することのできない私は、一体何だろう。

 あなたは今、どこで誰と、あるいはあなたひとりきりで、何をして何を聞いて、何を考えているだろう。
 あなたは今、私の世界を占めているが、私はあなたの世界に含まれてはいない。
 あなたは今、私にとって酸素も同然だが、私はあなたの目には映らない存在しないものだ。

 私はあなたに恋しているのだろうか。これは一体恋なのだろうか。
 あなたが楽しそうに微笑んでいる。それを見て、私は幸せな気持ちになる。
 あなた故に在る私は、あなたの存在の気配を追い掛けて視線を回す。目が合ったところで、あなたの視線は私を素通りするだろう。それでも、あなたが見ているものをこの目で確かめにはいられない。
 あなたの目が見ている世界を、そのまま見てみたい。色も形も影も匂いも、何もかもそのまま、自分の目に映してみたい。

 私が欲しいのは、あなた自身まるごとではなく、ただあなたのふたつの眼球なのかもしれない。きらきらと楽しそうな、幸せそうなあなたの世界が映る、あなたのきれいなふたつの眼。私が欲しいのは、あなたの眼球なのかもしれない。
 それを奪い取らないために、私は遠くへいた方が良さそうだ。
 あなたには絶対に手の届かない、この辺りへいて、あなたを見つめているだけにしておいた方が良さそうだ。

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嘘つき * 7/22

 君とかあなたとか誰それでなく、私と言う一人称で文章を書くと言うことは、書いたことすべてを肩に背負うことなのだと、私と言う一人称で文章を書き始めてから初めて悟った。
 私は、と言う書き出しで書かれた文章は、読まれる時に、「これは"私"と言うこの実在する人物の考えること思うこと見ること経験したことすべてのはずだ」と前提されるのだと言うことに、私はこんな風に文章を書き始めるまで気づかなかった。

 少なくとも私は、自分自身は自分の書く文章とはかけ離れていて、真実などひとつもないと真顔で言うことができる。私は下手くそな嘘つきで、下手な嘘を並べ立てて、例えば自分のこととは真逆を描写して外の世界を煙に巻いていると思い込める程度には愚かで、思うままをここに綴りながら、文章の最後に一体何を言うつもりだったのか覚えてすらいないお粗末さなど日常茶飯事だ。

 私が例えば男女の恋を書いたからと言って、異性と恋愛中だとは限らないし、女性同士の片思いを書いたからと言って、私が同性愛者だとは限らない。私が死に掛けたことのある入院患者を描写したからと言って、私自身が事故にあった当人だとは限らない。もしかすると私が、その誰かを死に導きかけた加害者の方かもしれない。
 私が書くことは私自身ではなく、そもそも私は、いつもは「私」ですらない。「私」と名乗る私は、こんな風な文章を綴る時に私が使う人格で、普段の私とはまったく違う人物だ。
 「私」を自称する私は、実のところ、「私」とは名乗らない私自身を非常に混乱させる。普段の人称で世界を見ている私と、「私」と言う人称で世界を見ている私は、どこかでずれて存在している。「私」が見る世界と、「私」でない私が見る世界は、まったくの別物だ。

 こうやって「私」として文章を綴り始めて、少しずつ「私」と「私」ではない私の間の溝は狭まりつつある。深さは変わらないように思えるが、少なくとも今では、ひと飛びで飛び越えられる程度の幅になったような気がする。
 ごく自然に「私」と頭の中で自称する機会が増え、「私」として世界を見ている時間を自覚するようになり、「私」の見ている風景に、「私」ではない私ももはや慣れつつある。
 私は、この「私」の存在への戸惑いを減らして、互いに歩み寄ったのかどうか、ほとんど触れられるくらいの距離に近づいて、だが顔を見合わせることはしない。目を合わせることはしない。「私」は「私」の見たいものを見て、「私」ではない私は自分眺めたいものを眺めるだけだ。

 何の自覚もなく、ただそうしたい、そうしてみたいと言う欲求だけで私と言う一人称で文章を綴り始めた「私」は、それについては何の覚悟もなく、書き始めて初めて、「私」と言う一人称の意味深さに気づいた。
 私は、「私」と言う一人称で書かれた文章に責任を持たなければならない。「これは私と言う人間についてのほんとうのことが書かれているはずだ」と言う暗黙の了解を引き受けなければならない。
 それに対して私は、「自分は嘘つきだ」と言う返事を返すことにした。
 「私」と名乗る私は私ではない。だから、「私」と名乗って書く私の文章は、何もかも徹頭徹尾嘘ばかりだ。下手であろうとなかろうと、「私」は大嘘つきだ。

 こうして私は、「私」が書いたものに対する責任を放棄して、好き勝手な放言を続けることにする。私は、「私」が見たものや感じたことを、あるいはそうと思われることを、好き勝手に「私」として書き綴る。私は「私」ではないから、それがほんとうのことかどうかはわからない。
 「私」の言うことには、真実は何ひとつない。少なくとも私にとって、「私」の書き綴ることはすべて嘘だ。
 無責任で嘘つきで人でなしの「私」は、頭蓋骨の中や体の中にたまった膿を吐き出すために、嘘八百を並べ立てる。「私」にとっては書くことは呼吸と同様であり、書くことが嘘なら、「私」はつまり、「息をするように嘘をついている」ことになる。
 「私」とはそういう人物だ。「私」は無責任の被膜の陰から、あれこれのことを書き綴って、外の世界へ流し出す。「私」の手から離れてしまったそれらは、元は「私」の一部であったが、離れてしまった後はまったくの別物だ。それは、「元私だったもの」でしかない。
 「私」は嘘つきだ。「私」の言うことなど、何ひとつ信じられない。

 「私」は考える。人の笑顔など信じられない。世界は欺瞞に満ちていて、生きることに価などしない。誰も彼も醜悪で、その心のうちを思い遣る必要などこれっぽっちもない。世界は一瞬でも早く滅びるべきだ。そして月曜日は、誰にとっても素晴らしい日に違いない。
 あなたの月曜日はきっと、どうしようもなく気の滅入る、憂鬱なだけの日だろうが、そうに決まっているしそうであればいいと、「私」は考えている。

 そして私は、どうか良い1日を、と声に出して言った。

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独善 * 7/27

 私はまた、ひとりよがりの恋をしている。
 私の恋は常にほとんど妄想に近く、ろくに知りもしない相手に盲目的で愚かな想いを寄せて、そしてもちろん実る予感など最後までひとかけらも湧かないまま、何もかも一方的に終わる。
 私はまた、そんな間抜けな恋をしている。

 真摯な様に惚れる。一途で真剣な、そんな横顔を見てしまえばおしまいだ。そして合間に、私にと言うわけでもない笑顔でも見せられたら、誤解はいっそう加速する。
 あの人が、私にあんな笑顔を向けるはずがないとわかっているのに、視界の端に引っ掛かったそれを忘れられずに、何日も何日も、何度も何度も、私はその笑顔を反芻する。
 もしかして、はない。あの人は私に笑い掛けたりなんかしない。
 一方通行の愚かな恋は、こうしていっそう愚かさを増す。

 あの人の情熱の行く先へ、私も目を向ける。あの人の、熱のこもった視線。きらきらと、この上なく愉しそうに幸せそうに、あの人が生き生きと目を輝かせるのを眺める。あの目に恋をしない人間がいたら、きっと石か木だ。
 私はあの人の、輝く目に恋をして、その視線が真摯に注がれる方向へ恋をして、そして私はあの人に恋している。
 あの人が見つめるそのものと、そのものを見つめるあの人と、何もかも、何がどこまで何なのかわからないすべての入り混じったあの人の在る混沌に、私は深く恋している。

 私の目の前で、私がこうと思い描くあの人は、そしてゆっくりと形を崩してゆく。
 私の想うあの人は、真実のあの人ではなく、私の中に在るあの人は、何割かは私の勝手な思い込みの想像の像だ。真実のあの人を少しずつ知るたびに、私は1秒前よりももっと深くあの人に恋し、そして同時に、勝手な失望も味わう。私が想うあの人と、ほんとうのあの人の姿がぴったり重ならないのは、まったくあの人のせいではないのに。
 あの人が、あの真摯さを失いつつあるからと言って、それはあの人のせいではないのに。

 私は、真摯さに恋をする。真剣な情熱に魅かれ、その情熱のあふれる瞳に魅せられる。
 恋は突然気安く始まるが、気軽には終わらない。恋の最初の真摯さを憶えていれば、それを忘れることなどできないからだ。
 あの人の声、言葉、視線、情熱、少しずつ積み重なってゆく恋のかけらを、それはそれは大事に抱えて、そのひとつびとつを惜しんで、私は身動きできなくなる。
 私は恋をしている。愚かで苦しいだけの間抜けな恋だ。報われる予感などなく、最後は大抵、汚物を見るような視線を浴びて、私は向こう側の終わりを知ることになる。

 こちらから必死に伸ばしてあの人に結びつけた糸を、向こうから切られたからと言って、私の方もとほどくことはできず、どこにも繋がっていない糸の、向こう側の端を眺めて、私はため息をつく。
 あの、私が恋した真摯さはどこへ消えてしまったのだろう。最初から存在もしなかったのか。あるいは姿を変えて、それはもう私にとっては真摯ではなくなってしまったのか。それとも、私の視線すら汚らわしいと、どこかへ隠されてしまったものか。

 あの人は相変わらずあそこにいて、愉しそうに笑っている。それを見て、相変わらず幸せを感じながら、けれど私はそこにあの真摯さの存在を感じられずに、ひとり胸の内でだけ嘆いている。
 私の勝手だ。あの人の知ったことではない。
 端が地面にだらりとこぼれた糸の先の、こちら側を掌に乗せて、私はそれを眺めながら、あの人の真摯さを恋しがっている。私が恋したあの人の真摯さを、すでに懐かしがっている。
 私のひとりよがりの恋だ。どこへも行かず、どこへたどり着くこともない、私の自分勝手な恋だ。勝手に始まり、知らずに終わる。今度の恋が終わるのは、一体いつだろう。

 私はあの人が、コーヒーをブラックで飲むのかどうかすら知らない。多分これからも、ずっと知らないままだろう。

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ある女(ひと) * 7/29

 後2週間くらいですって。彼女が、微笑んでいるような悲しんでいるような淋しがっているような、そのすべてともどれかとも言える、複雑な表情で私に告げる。
 え、何? 何の話ですか? 半分くらいはうろたえて、私は聞き返す。
 お医者さまがね、後2週間くらいだろうって。私、死ぬのよ、後2週間くらいで。2週間と繰り返しながら、彼女は微笑んでいるように見えた。
 黄疸のひどい黄色い顔色で、90に手の届く彼女が言う。そろそろ死ぬのだと、私に告げる。88の誕生日をつい数ヶ月前に迎えた彼女が、ひ孫にすでに子どもがいて、彼女の娘がその子たちの子守をしている彼女が、私にそう言う。

 私は赤の他人だ。言葉も違う、生まれた国も違う、世代もまったく違う、偶然彼女に出会い、少しばかり彼女の世話をする(ただ彼女をひとりにしないように見守っているだけだ)ことになった、ただそれだけの私だった。
 彼女は、たまに私が作る食事にまったく文句ひとつ言わず、必ずありがとうと最初と最後に言い、私が淹れるコーヒーか紅茶を、これもありがとうと言って飲んでくれる。
 彼女の、くしゃくしゃに丸めてから広げた紙のようにしわばんだ手を、私は時々自分の手に取る。ひたすらに柔らかな彼女の手を握り、彼女の1/4程度しか生きていない、まだ幼い自分(失笑ものだが)の、いつでもあたたかい手の中に、彼女のいつも冷たい手を挟み込む。

 彼女は同性愛者が大嫌いだった。そのことを彼女が口にするたび、ひそかに同性愛者である私は、ただ微笑だけを返し、彼女の気持ちを変えようなどと大それたことは一度も考えたことがない。
 彼女の末の息子は、他の家族とそりが合わず、ある日突然姿を消した後で、はるか彼方のある都市で、死亡が大きく新聞の一面に載る程度には知名度を得て、エイズで亡くなった同性愛者として、遺影となって再び彼女の前へ姿を現した。
 彼女のいちばん上のひ孫の夫は、ふたりの子どもを得た後で、もう嘘はつけないと、ある日突然同性愛者であることを皆に告げて、ふたりは結局離婚することになった。元夫の彼は、今は恋人と一緒に暮らしている。
 彼女は、同性愛者が大嫌いだった。

 私は彼女がとても好きだった。物静かで、学校へは行ったことがないと言うのに、彼女の語彙の多さと読書量に私は舌を巻き、勤労を美徳とするのは私も同じだったから、私たちは違いを脇に置いて何となく気が合い、恐らく私が彼女を好きな分だけ、彼女も私を好きでいてくれたと思う。
 同性愛者の私は、同性愛者が大嫌いだった彼女を、とても好きだった。
 同性愛者が大嫌いだった彼女は、同性愛者ではあるがそれを隠していた私を、とても好いてくれていた。

 彼女を蝕んでいたのは、奥深い内臓の病気だった。
 私が知るところでは、医者は患者にほんとうのことは言わない。けれど彼女のいるところでは、医者は患者にほんとうのことをはっきりと言い、そしてこれから死ぬのだと告げられた彼女本人から、私たちはそれを告げられるのだ。
 私は彼女の手を取った。
 なぜ、あなたがそれを私に言うの? 死んで行くのだと言うことを、なぜ当人のあなたが、私に言うの?
 どんな表情をしていいのかわからず、私はすでに泣いていた。2週間、14日、その間に、彼女が死んでしまうのだと、そう告げられて、私は彼女の前で泣いていた。

 彼女は思いやりの深い、とても優しい人だった。自分には厳しく、他人にはあたたかく、聡明で生真面目で、けれどいつだってユーモアを忘れない、素敵な人だった。
 コーヒーの大好きな彼女は、私といる時は私に付き合って紅茶を飲み、私は時々彼女に合わせてコーヒーを飲んだ。
 病院の薄いコーヒーが彼女の口に合うわけもなく、私は彼女に会いに行くたび、コーヒーを買って彼女に届けた。
 こんなこと、してくれなくてもいいのに。
 言いながら、それでもあっと言う間にコーヒーを飲み干して、そして彼女が飲めるコーヒーの量が、少しずつ少しずつ減って行くのに、私は悲しみながら気づいていた。

 意識がほとんどなくなった頃、彼女は自宅へ戻り、家族に囲まれて最後の時を迎えようとしていた。
 私は彼女の傍にいることを許され、それができる時は必ず彼女の手を握り、彼女に話し掛け続けた。
 医者と看護婦が、日に1度か2度、様子を見にやって来る。彼女の体をきれいにし、薬を与え、こちらから様子を聞き、そして、淋しそうな微笑みを浮かべて、ではまた明日と帰ってゆく。
 ある日の早朝、その明日がやって来ないことを、私は突然悟った。
 人は、一瞬で逝ってしまうのではないのだ。彼女の、もう力のない手を握り、手首に指先を添え、脈が戻ったり止まったりするのを、泣きながら感じていた。
 さようならと、きちんと言う間はなかった。戻って来ると思った脈が、何度目かにそのまま絶え、絶えたことさえ、気づいたのは何十秒も経ってからだった。

 私は彼女が大好きだった。彼女は同性愛者が大嫌いだったが、最後まで私が同性愛者であることは知らないまま、私を好きなままでいてくれた。
 彼女の家の合鍵を、その後私は形見のように所持したままでいたが、最近、求められてそれをついに家族へ返した。
 私は、彼女が大好きだった。コーヒーが大好きで、同性愛者が大嫌いな彼女が、大好きだった。
 紅茶の方が好きで、同性愛者の私は、彼女が大好きだった。ほんとうに、彼女が大好きだった。

 彼女の棺に、小さなコーヒーのマグを入れてもらった。彼女が、これで好きな時にまたコーヒーが飲めるようにと、家族に頼んで入れてもらった。
 彼女は土の下へ埋められ、先に亡くなった娘婿と、孫娘と、それから私の入れたコーヒーのマグと一緒に、そこで安らかに眠っている。
 同じところへ埋められるはずもない私は、もうこれきり彼女に会うことはないが、生まれ変わって彼女に会うことはないだろうかと、時々考える。
 その時も私は同性愛者で、彼女は同性愛者が大嫌いだろうか。彼女はコーヒー党で、私は相変わらず紅茶党だろうか。

 私は、彼女が大好きだった。彼女のあの柔らかな手が、大好きだった。
 2週間、と私に告げた彼女の声を、私はずっと忘れないだろう。その後で見せたあの微笑みを、私は決して忘れないだろう。
 脈の失せてゆく、骨と皮膚だけの彼女の手首の、あの奇妙につるりとした感触を、私は一生忘れないだろう。
 私は彼女が、大好きだった。

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