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2012年9&12月

通学路 * 9/13

 大通りで工事が始まって、そこをバスが通れないので迂回ルートを使う。臨時のバス停が設けられ、そこまで普段の3倍の距離(とか言ってもたかが10分足らずだ)を歩くのだが、今朝、歩く方向が真っ直ぐに太陽と対面することに気づいた。
 天気の良い日に、朝から太陽が輝いているのが眩しくて、久しぶりに世界を美しいと感じた朝だった。

 臨時のバス停は学校の前なので、通学中の学生たちと同じ方向へ向かって歩くことになる。
 よく一緒になるのは、3人連れの少年たちだ。両脇のふたりはほぼ同じ身長で、真ん中の子は彼らより頭ひとつ分背が低い。騒がしくしゃべりながら道いっぱいに広がって歩く彼らを見て、自分に子どもいたらあんな風にはしないと思ってみたりもする。
 この間は、どの子がどの子へ言ったのかは知らないが、
 「オレの親父でもないくせに!」
と言う会話の断片が聞こえて、ふと、こんなことを言う輩に限って、実の父親の言うことだからと、別に神妙に聞く気もないんだろうなと、そんなことを思った。
 今朝は彼らを見掛ける前にバス停に着いたのだが、相変わらず騒がしくやって来る彼らは、正面から眺めてもやっぱり騒がしい子どもたちだった。

 バス停には別にベンチがあるわけではないが、歩道の端に芝生との段差があるので、そこに腰掛けてバスを待つ。
 元々背の低い私には、地面に近い方が落ち着く癖があって、そうすると走り過ぎる車の助手席と目が合い、乳母車に乗って連れられてゆく赤ん坊たちと目が合う。
 目が合って、笑う赤ん坊もいるが、ほとんど驚愕と言った表情を浮かべる赤ん坊もいて、異人種がそんなに珍しいのだろうかと常々思っていたが、今日ふと、もしかすると私が掛けている眼鏡のせいかとふと思いついた。
 生後1年程度の赤ん坊に、顔立ちの違いや髪の色の違いがどのように見分けられるものが、私に分かるはずもなく、そんなことではなく、単に眼鏡を掛けた人間を見慣れないだけだと言う方が正確なのではないかと言う気がした。

 背の低い、大抵の場では異人種として存在する私は、子どもたちには、性別も年齢も見分けられない、よく分からない存在として認識されることが多い。身長のせいで彼らの仲間かと一瞬思うらしいが、私はたいてい彼らの親に連れて来られるので、それなら親側の人間なのかと思い直して、そうして、子どもたちは私に対してどういう態度を取るべきか迷うらしい。
 きちんと礼儀を持って大人として対するべきか、仲間として飛び掛ってテレビで見たプロレス技でも仕掛けてみるべきか、この幼稚な言葉遣いは大人のはずはないが、親たちはそれなりの態度を取っている、我々はどうするべきなのだろう、彼らの葛藤は、観察している分には非常に興味深い。

 大型犬には、よく新しいおもちゃと思われる。
 うっかり習慣で床に座ると、すぐさま頭上から飛び掛られて、人間相手の躾はされているはずだが、おもちゃ相手では話が別だ。声を発して初めて、
 「これは何だかおもちゃじゃない。」
とようやく認識される。
 おかげで、大型犬の近くへ寄る時は、必ず飼い主がその犬を押さえていることを確認するようになった。怪我をすれば自分も困るが、犬が処分でもされる羽目になるともっと困る。
 小型犬なら大丈夫かと言えば、こちらはこっちをあたたかい椅子と思うようだ。膝に乗ったり体に乗り掛かったり、多頭飼いの友人宅では、常時数匹が私の膝を取り合っている。
 どうやら膝がいちばん良い場所らしく、その次が腹の上、それからふくらはぎの辺りらしい。嫌われるよりはましかもしれないと諦めている。

 私はもう、椅子やおもちゃや何かよくわからない存在である自分を受け入れて、とりあえずまた明日も太陽が目の前に輝いていてくれればいいと、そう思うばかりだ。
 雨が降るとバス停までの道のりでびしょ濡れになってしまう。手持ちの傘が小さ過ぎるからだ。
 だが、雨の日もそう悪くはない。
 この間は、例の臨時のバス停で、高校生らしい男女のふたり組と一緒になった。雨宿りの場所もないそこで、ふたりは一緒に雨に濡れていて、少女の方は自分の荷物には頓着していなかったが、少年の方はシャツの下に教科書の束らしい四角いふくらみを隠して、そしてようやく目当てのバスが来ると、少女だけがバスに乗り、少年の方は、
 「あーあーまた濡れちゃうなー家まで歩いて帰らなきゃーあーあーもっと濡れちゃうなー。」
と、まるで彼女に罪悪感でも抱かせるように(もちろん冗談だ)言い続けながら、バス停に顔を向けたまま、歩道をあとずさってゆく。走り去るバスをそうやって見送ってから、彼はようやく普通にこちらに背を向けて走り出した。雨の中で、それでも彼は最後までうれしそうに微笑んだままだった。
 バスの中の彼女は、そんな彼の姿を目の先に追って、一緒にくつくつ笑い続けていた。
 雨の日には、そんな出来事が明るい太陽の代わりになる。

 バス停が遠くなったせいで、元々の出不精に拍車が掛かっている。家に閉じこもっていると、ろくなことを考えない。
 太陽を正面に見据えて、なるべく外へ出よう。いろんな美しいものを見よう。美しいものを見て、脳を満腹にしよう。心がひもじがっている。だから、美しいものを見つけに、明日も外へ出よう。

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9月 * 9/23

 9月はあまりいい時期ではないらしい。
 ぱたりとやる気が失せ、すべきことにすら手を着けず、ただ無為に日々を過ごす。その無為に焦りを感じながら、それでも手も足も動かず、心は灰色に鈍麻したまま、美しいものよりも醜いと感じるものばかりが目に入り、ただただうんざりするばかりだ。
 そのくせ、もう何度読んだかわからない文章にひどく心を揺さぶられて、ページを繰りながら泣いていたりする。
 仕方がない。こんな時もある。

 好きな音楽も聞かず、本だけは読みながら、けれど自分で指先を動かすことはろくにせずに、1日の終わりに、ああ今日もまた何もしなかったと思う。そうして、頭の中は空白に満ちて、なかなか寝付けない夜を、これもまた空白に過ごす。何を考えても心が浮き立たない。何も私の頭をいっぱいに満たしてはくれない。ひもじい感覚ばかりがつのるのに、そのひもじさを癒せる何かがわからず、私は夜通し寝返りを打って、夜が明けたら少しはましになるだろうかと、そればかり考えて、朝の間近にようやくうつらうつらする。
 そうしてまた、同じ無為な1日を過ごすことになる。

 カフェラテを淹れることが非日常になるほど、何もない私の時間は、24時間などあっと言う間に過ぎ去って、その間に何をしているのかと言えば、音楽を聴くでもなく映画を見るでもなく、ただ言葉の切れ端を追って、垂れ流して、それだけでささやかに満足を得て(募る不満の方が結局は大きくなるのに)、夜の終わりを区切りながら、また眠れないまま朝を迎える。
 心も脳も、何かに飢えている。何かが足りない。何かが欲しい。
 だが私には、それが何なのかわからない。

 少しの間我慢していれば、事態はそのうち好転する。
 なぜあんなにも、醜いと思うものばかりに目を突き刺されていたのかわからないほど、美しいものが目の前に甦って来るし、世界は音楽に溢れて、素晴らしい言葉に満ちているとまた思えるようになる。
 私は笑顔を取り戻し、弾むように道を歩き、挨拶をする相手が自分に微笑み返してくれるのに、心の底からまた感謝できるようになる。
 私に向けられる笑顔は決して無駄や社交辞令ではなく(もちろん私の誤解の場合もあるが)、たまには誰かが自分を好いていてくれるのだと、私は素直に信じられるようになる。

 紅茶やカプチーノを淹れるのを、思いついた瞬間から飲み終わってカップを洗い終わるまで事細かに実況して、ネットのどこかへ垂れ流すような日々はひとまず終わり、私はようやく、何かそれなりにまとまったものを書きたいと思い始める。
 何でもいい。それこそ、カプチーノの自己流の淹れ方だっていい。ある日のカフェラテの会心の出来を、事細かに描写するのだって構わない。私がそれを楽しめるなら、心底楽しんできちんと書くなら、何だっていい。
 カプチーノを淹れるのが非日常の私の日々にとって、思わず出来た最高の味は、微細に描写するに値する。

 私は恐ろしく退屈な人間で、それに劣らず退屈な日々を送っている。私はそれを、それなりに楽しんでいる。楽しい限りはこれでいいじゃないかと、美しいものが美しく見える限りは思い続けるだろう。
 書き続ける限り、私は呼吸しているのだし、私は自分の脳を使って考えているのだし、私は間違いなく生きている。生きているなら、今はそれでいいじゃないかと、こんな時にはすらりと考える。
 退屈な人生、先行きなど何も見えない人生、非生産的で、非社会的で、外へ向かって胸を張れるものなど何もない人生、それでも私はひとまず、ここにいて息をしている。少なくとも今私は、消えてしまいたいとは感じてはいない。
 それで充分じゃないか。

 卑怯だと言われようと現実逃避だと言われようと、私は今、美しくて楽しいものだけを見ていたい。呪詛も毒も必要ない。私は自分の憂鬱を抱きかかえるのに必死で、他の誰かの怒りや嫉妬や不愉快を、目にして抱え込めるほど寛大でも寛容でもない。
 悲しみや淋しさの共有はやぶさかではないが、私と同じように努力を嫌う人間が、努力の果てに才能を花開かせた誰かに嫉妬する、その心に同意しろと強要されるのは、今はただの苦痛でしかない。
 妬み嫉みがないわけではないが、そんな愉しくもない気持ちに、今は囚われていたくはないのだ。
 美しいものを生み出せる人の存在を、有り難がりこそすれ、踏みつけにしようなとどは思わない。世界を明るくしてくれるその情熱を、愛することはできても否定も妬みもできない。
 私が持っていないものを持っているあの人を、愛することはそんなに難しいことだろうか。

 音楽は美しい。言葉は美しい。描(えが)かれた線と塗られた色は美しくて、私はそれを目にして耳にして幸せになる。
 ドーナッツの穴のように、空ろなのか哲学なのかわからない9月はそろそろ終わりだ。私は頭の中に美しい夢ばかりを詰め込んで、それと一緒に踊りながら、また言葉を紡ぐ日々に戻る。戻ろうとしている。
 週末にはカフェラテを淹れて、外出する必要のないことを喜び、美しいものを生み出す人たちのいるこの世界に感謝して、そして私は、もう少し生きてみようかと思うのだ。
 戦争は本とゲームの中だけのことになればいいと、半ば本気で思いながら、絵空事の中に埋没して、絵空事の欠片のようなものを指先から滴らせて、私は薄暗い9月をやり過ごそうとしている。
 愛するものと愛する人のことだけを考えながら、それを空っぽの頭に詰め込んで、もうすぐ寝る間すら惜しいようなそんな日々にまた戻れるように、私は生き続ける理由をそうやって目の前に並べて、憂鬱のトンネルを通り抜け掛けている。
 私はそんな風にしてここにいる。両手を上げて振って、誰かが自分を見てはくれないかと、私に気づいて笑い掛けてくれないかと、少しばかり必死に、薄暗い9月のトンネルの終わりで、私は明るい方へ向かって爪先を滑らせている。  9月はもうすぐ終わりだ。

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* 9/26

 「その頭、どうした?」
 鏡台の前にぺたんと坐って、何とか櫛を通そうとしている私の後ろで、鳥が何かをついばむようなかすかさで訊いて来る。私は振り向かずに、鏡の中の自分に視線を据えたまま、ちょっと肩をすくめて見せる。
 「切ったの、自分で。蟹の子と一緒に。」
 ぶつぶつと切り落として、長いところは多分2センチくらい、短いところは1センチもなさそうな私のザンギリ頭を、鳥は小首を傾げて眺めている。
 「かにのこ?」
 「そう、はさみで、ふたりで一緒に切ったの。」
 鳥は振り向かない私に焦れたように、ちょんちょん畳の上を飛び跳ねて、だらしなく投げ出した私の足首へ飛び乗り、そこからちょんちょんと、スカートに包まれた腿の辺りへ登って来る。
 「なんで切った?」
 どこか怒ったような声で鳥が訊く。小さな体の、丸々とした胸をそらして、まるで威嚇するように尋ねるが、その黒くて丸いつぶらな瞳では、どんな低めた声も凄みなどない。
 鳥はそこからはたはたと羽ばたいて、私の肩に乗って来た。
 ピアスのない私の左側の耳朶を鋭い嘴で、だが充分に用心した強さでつつく。じゃれ掛かられているようなその仕草に、私はくすぐったいと肩をすくめ、櫛を持っていた手を下に下ろす。
 「どうしてかな、突然切りたくなったのかもしれない。どうせすぐ伸びるもの。」
 ふふっと、自分でも驚くほど軽く、私は含み笑いをこぼす。
 鳥はさらに怒ったように羽をふくらませ、ぷうっと頬もふくらませたように、まるで鞠のようになって、私の首筋へいっそう近づいて来る。
 そうして、また嘴で、すっかり短くなった私の髪をついばんだ。
 「こんなになったら、遊べないじゃないか。」
 「ごめんなさい。」
 微笑みを消さずに、私は答える。
 そうだった、草を抜く私の後ろから、時々髪をつまんでは遊ぶのが、鳥は好きだったのだ。まさか鳥が、私の髪を惜しんでくれるとは思わなかった。
 「切った髪は持って帰ったから、巣材に使うといいわ。」
 「今年はもう巣は作らない。」
 「じゃあ来年。」
 「そんなに待ったらふにゃふにゃになる。」
 「ならないわよ、髪の毛は腐らないから。多分。」
 草の葉や木の枝とは違うのだと、どうやって説明しようかと重いながら言うと、鳥はどうも合点が行かないが、もうそれ以上は訊くのも面倒だと言わんばかりに、また私の頭をつつき始める。今度は、少しばかりさっきより強く。
 「痛い。痛い。」
 思わず頭を傾けて鳥の嘴から逃れようとすると、
 「つまむ髪がないからしょうがない。」
 まるで、私が髪を切ってしまったせいだと責めるように(実際に責めているのだろう)、鳥は私の頭をつつき続けた。
 「そんなに意地悪してると、蟹の子に羽根を切られちゃうんだから。」
 肩の鳥を追い払うように手を振ると、ひと時鳥は私の頭をつつくのをやめるが、すぐに、今度はぱたぱたと私の頭の周りを飛び回りながら、ちくちくつくつく、私の頭を嘴で突き続けるのだ。ついでのように、短い髪も時々引っ張ってゆく。
 「はね?」
 「そう、蟹の子のはさみはよく切れるんだから。気をつけないと。」
 私の前髪を、触れただけで切り落としてしまったように、あの蟹の子のはさみが鳥の羽根に触れたら、すっぱりとオレンジ色の羽毛が散るだろう。
 羽根を切られたら、鳥は飛べなくなってしまうかもしれない。そうしたら、鳥はもうどこへも行かずに、私の傍へいてくれるのだろうか。そう考えてから、私はふと淋しくなって、そう考えた自分がいやになって、振り払う手の動きを止めて、しんと鏡の縁へ視線を滑らせた。
 ふん、と鳥が、動かなくなった私の肩へまた止まり、再び虚勢を張るように丸く胸をそらす。蟹の子のはさみなんか怖くも何ともないと、そう言っているように、鳥の姿が鏡の中へ映っていた。
 蟹の子がここへやって来る時は、もうしばらくは必要のない髪をまとめるゴムの輪で、あのはさみをくるくる巻いておこう。色とりどりのゴムの輪を、蟹の子に選んでもらおう。あの鋭いはさみをゴムの輪で留めて、切るのには使えないようにして、そうして鳥と私と遊んでもらおう。
 しっかりと閉じたはさみの先は、鳥の嘴ときっといい勝負だ。かちんかちんと可愛らしい音を立てて、それが会話の代わりのように、鳥と蟹の子が一緒に遊ぶ。私はじりじりと畳の上に膝を滑らせて、私も交ぜて、と控え目にお願いするのだ。
 人差し指を差し出し、嘴と閉じたはさみと一緒に、つっつきっこをして遊ぼう。あるいは鳥も蟹の子も、私の短い髪をつついて遊ぶだろうか。それなら私は畳の上に腹這いになって、ザンギリ頭を差し出して一緒に遊んでもらおう。
 緑や黄色や青の輪ゴムで留められた蟹の子のはさみ、淋しいオレンジ色の羽根をした鳥の、金色がかった黄色の嘴、私の少し赤みの入った黒い髪、混じらずに、色々が交じり合う。
 私はくすくすとひとりで笑った。鳥が、なんだと言うように、私の首筋を嘴の先でくすぐって来る。
 「髪なんか、すぐ伸びるから。来年また、草抜きが始まる頃までにはきっと。」
 どうだか、と私の言うことなど信じていない風に、鳥はそのほとんどない撫で肩をすくめて見せる。鳥は気づいていないようだが、その仕草はだんだん私そっくりになりつつある。
 そして私は、少しずつ鳥の仕草に似て、何でもかんでも指先でまずつついてみるのだ。
 私たちは、そんな風に親しさを増して、今では離れていても、互いを忘れてしまうかもしれないと、そんな風には考えなくなっている。
 私は庭に出て草を抜き、鳥はそこへやって来て、庭の土と私の髪をつついてゆく。土の凍る頃には、鳥は姿を消して、だが時折気まぐれに私を訪ねて来る。訪ねて来ると、土のない代わりに私の髪で遊ぶのだ。
 しばらくは私の髪では遊べない。だから今度は、蟹の子を誘ってみよう。遊びにおいで。鳥がいるよ。はさみをちょっとの間閉じて、一緒に遊ぼう。私も交ぜて。
 そろそろ土が凍る。あたたかな部屋の中で、私たちは互いを優しくつつき合う。決して傷つけないように。痛ければ、痛いと遠慮なく叫んで。
 鳥が、すりすりと丸い頭を私の耳朶へこすりつけて来る。機嫌の直った仕草だ。
 鳥のために、私の髪で遊べない鳥のために、私は鏡台の引き出しを開けて、ふらふらと耳朶からぶら下がるピアスを探す。鳥がつついて遊べるように、切ってしまった髪の毛の代わりに、長く鎖の垂れたピアスを取り出して、右の耳朶にふたつ並べて着けた。
 「ほら。」
 銀色の細い鎖の先に、小さな緑の石のついたピアスを振り向けると、鳥はそこで小さく羽ばたいて、私の右肩へ飛び移って来る。
 鏡の中に、ザンギリ頭の私と、オレンジ色の鳥と、小さな緑の石がふた粒、ふらふらと映る。鳥がその石をつついて遊ぶ。私はそれを見て笑う。
 蟹の子は、どんな顔で笑うのだろうと、まだうまく思い浮かべられずに、鏡の中の鳥に、私は微笑み掛けていた。

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膚と背中 * 12/6

 男が、切羽詰まった様子で私に触れて来る。飢えているような手つきで、男の飢えが、自分とは違う女の体に対してなのか、自分ではない他人のぬくもりになのか、それとも私個人と言う、とりあえずは取り替えの利かないことになっている、特定の誰かに対するものなのか、男の指先を受け入れながら、私はいつも考えている。

 好きと嫌いで言えば、好感の持てない相手に触れられることなど我慢できず、だから私は、この男のことが好きには違いなかった。
 女に慣れていない風もないのに、女と女の間が長くなれば、それなりに物珍しさと飢餓が湧くのか、男の態度は夢中のそれだ。
 とは言え、それにあっさり自惚れるほど私も自信過剰ではなく、どこと言って取り立てて綺麗でもなければ、変わったところもない自分に、あえて自慢できる部分と言えば、触れた誰もその場で声を失う膚だろうか。

 触れる最初に、男はいつも私の服をとにかく剥ぎ取ろうとし、女の服の常で、ボタンだジッパーだホックだと、あれこれうるさいものがついていて、決して不器用でもないらしい男の手を毎回煩わし、静かになった後で、そんな小物のいくつかがどこかへ消えてしまっていることも珍しくはない。
 おかげで私は、裁縫セットをそっと持ち物のひとつに加える羽目になった。

 私の膚を剥き出しにする。そうして男は、自分の着ているものを引き剥がすように脱いで、肌と肌を触れ合わせる。冷たかったり、あたたかかったり、思いがけない体温に驚いたり、あるいは汗に湿っていたり、やすりにでも触れたように乾いてざらついていたり、自分の膚に触れても何と思うわけもないが、男の肌に触れるたび、その微細な変化に気づいているのは私の方だけなのだろうか。
 私の肌に触れて、男は何を思うのか。それが優しさのつもりなのかどうか、歯を立てたり乱暴な跡を残したりは決してしない男の、微笑みを誘う思いやりに、全裸で男と触れ合いながら、私たちは一向に心の内の本音をさらけ出そうとはしない。
 内臓や筋肉や血管で触れ合うのは無理にせよ、ほとんど1枚のそれになりそうに肌を近づけて、息や体液を交換し合っているのに、私たちの心は一体どこにあるのか、こうして抱き合う理由すら、私自身のそれすら定かではないまま、男は明らかに私と寝ることを望んでいて、私は男の素肌に触れることを愉しんでいる。

 素肌──正確には、完全なる素の素肌ではない──の手触りに、男の暮らしが現れている。時々大きな傷跡が触れ、飾りではない日焼けの名残に、かさつきの激しい部分のある、肩や首筋の辺り。顔の皮膚は決してなめらかではなく、男の頬に掌を当てながら、時々私は、意地悪ではなくやすりに触れているようだと思うことがある。
 男の肌が私の肌をこする。傷つきそうで傷はつかないやり方で、私の全身の肌をこすり上げて、その間に空気がたまり、抜け、汗が湧いて滑る。
 曲げれば筋肉の形がはっきりと浮かぶ腕が、私の首を抱え込んで、ほとんど絞め殺すように──二重の意味において──私の体全部を抱きしめて来る。

 男が私を絞め殺そうとすると、私もお返しに男を絞め殺そうとして、全身をたわめて、ゆがめて、ねじって、深く切り過ぎないようにいつも気をつけている足の親指の爪の先で、男のアキレス腱の辺りを引っかいてやる。
 痛みに、男は一瞬だけ我に返り、下にいる私に向かって目を見開き、そうすればこれが私だと確認できるし、私を自分の下に引き留めておけるとでも言うように、私の左の乳房をつかみに来る。
 時によってはひどく痛むその仕草に、私は眉根を寄せて、男はその私の表情を、何やら別のことに勘違いする。その勘違いを、私は修正もしない。どれだけ近く触れ合っても、私の痛みは私だけのもので、男の感覚は男だけのものだ。
 与えられる痛みを、男に伝える術などなく、男が私の中で感じていることなど、私には知る術はない。
 こうして、世間的には愛──読んでも書いても言っても、感情をこめられない言葉だ──と言われる風に私たちは抱き合いながら、互いのことなど何も知りようがない。

 男は私と寝たがり、私はそれを拒まない。好きと嫌いで言えば、私はこの男が好きなのだろう。男の素肌に触れる。私はそれが好きだ。
 それだけが取柄らしい、私の柔らかな膚。男の、かさついたぶ厚い指先が触る。皮膚の下にももぐり込みたそうに、指先を押し付けて来る。男の指先の形を肌の上に感じるたび、私は男の指先が、私の血管に触れることを想像する。
 感心なことに、男は私に触れる前にはきちんと爪を切り揃えて来る。やや短いと思うくらいに、丸くきれいに切って、そんな切り方をしては、切られた爪の端で皮膚を傷めてしまいそうなくらいに、男は癇症に爪を切って来る。
 その男の指が、私の中に入って来る。腿の内側に触れて、他の部分よりも薄い柔らかなその膚に、男が時々息を詰めるのがわかる。
 私の中も、首筋や背中の膚と同じように、柔らかくて張りつめていてほのかにあたたかいのだろうか。私には分からない。触れている男にしかわからない。

 男も私も、互いのことなど知りようもないと同じほど、自身のことも分からない。私の背中を見れるのも、私の寝顔を見れるのも、男だけだ。
 同じように、男の寝言を聞けるのも、うなじから短く刈った髪の中へ消えている、異様なその傷跡を見れるのも私だけだ。
 不思議なことだと、私は思った。

 もしかすると私は、男を通して自分を見たくて、男と寝ているのかもしれない。男は、私を通して自分を知りたくて、私と寝ているのかもしれない。
 貝殻骨と、古い言葉で言われる、自分の肩甲骨の形など、きちんと知っている人間がどれほどいるだろう。男の下でうつぶせになりながら、私は考える。固く盛り上がるその骨に、男が掌を乗せる。男の掌の感触に、胃の表側まで突き通されながら、私は、男が滅多と見せてくれない裸の背中のことを考える。
 男は、私を隅々まで見ているのに、私はそうではない。なぜだろう。無我夢中に見えて、いちいちじっくりと私を眺めているとも思えない男の方が、私の体の隅々まで知っている。
 私はと言えば、見上げるにせよ見下ろすにせよ、あるいは正面からは見えないにせよ、常に見るのは男の体の前面だ。
 男が背中を隠しているわけではない。こうやって抱き合う時に、私にはどの男の背中も、あまり眺める機会がないと言うだけのことだ。
 服を着ている時なら、こんな風に暗い部屋ではなく、昼間の太陽の下で会うなら、私が眺めるのは男の背中ばかりだと言うのに。

 男の背中に掌を伸ばす。触れる。肩甲骨の形を探って、指先と掌に、それを視(み)ようとする。男の背中の表情を、見ないまま視ようとする。
 筋肉に薄く埋もれた背骨。腕が動くたび、上がったり下がったりする肩甲骨。意外に厚い肩と太い腕。見掛けよりもしっかりとした、腰の辺り。脚を絡めて、私は男を引き寄せる。
 男を絞め殺すために、私は腰をよじった。そうしながら、両手で男の顔を覆い隠した。乱れようもない短い髪の間から、汗が滴り落ちて来る。それを瞬きもせずに私は見ている。

 男の背中が伸びて丸まり、短く切った息がついに止まる。二の腕を、男がつかんだ。男の節の高い指が、どこまでも沈み込んでゆく、私の腕の膚。
 汗に濡れた男の首筋を、揃えた指先で撫でる。まだ正気に戻らない空ろな男の目に瞳を凝らして、私は下から首を伸ばした。首筋から背中へ腕を滑らせる。唇を開く。私がまた殺した男へ、ねぎらいのために、体の他の部分に比べればやや乾いた感触の唇で、やすりのような男の頬へ触れる。
 私に殺されたがる男は、見せない背中をけれど私の腕に預けて、伸びかけたひげを気にしながら、私のなめらかな頬にあごをこすりつけた。

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告白 * 12/6

 私はどうも、少しばかり本気でカフェイン中毒を心配した方がいいらしい。それとも、他の依存症よりはましだろうか(と考える段階で、きっと私はもう危ない領域へ足を突っ込み掛けている)。
 日々のことをメモ代わりに書いてみたら、毎日コーヒーを飲むことばかり考えている。どこでどんな風に、どんなコーヒーを飲むか、私の1日にとって、それは大変重要なことのようだ。

 何かを書く時の連れに、必ず紅茶が必要だ。だから始終何か書くことばかり考えている私の手に、紅茶の入ったマグが常にあることは不思議でも何でもないが、実のところ、書くためにカフェインを飲むのではなく、カフェインを飲みたいために書きたいと思うのかもしれないと、ふと考え始めた。
 紅茶もコーヒーもなしに、私は書きたいと思うだろうか。書くと言う作業は、カフェイン抜きでもきちんと為せるのだろうか。
 紙やPCのモニタに向かっている私の傍らに、けれど湯気の立つ紅茶やコーヒーのマグが見当たらない。そんなことが有り得るだろうか。

 少なくとも高校の頃には、お茶を淹れて飲むと言う習慣はなかった。実家を離れ、同居人を見つけて、その何人目かの同居人が、何かあれば、
 「お茶飲む?」
と言う人だった。
 それまでの私にとって、お茶とは外へ出て飲むものであり、家にいて自分で淹れて飲むものではなかった。
 彼女と暮らした時間はとても楽しく、その楽しさとお茶が、私のどこかで深く結びついてしまっているのかもしれない。楽しいことをするとは、私にとってはお茶を飲みながらすると言うことになってしまっているのかもしれない。

 と言うことは、私がお茶を淹れて飲みたいと思うのは、楽しいと感じていると同義と言うことなのか? 楽しいことが起こるのだと期待して、そこへ結びつくお茶を、私は自分の傍らへ招き寄せようとしているのだろうか。お茶を淹れれば楽しいことが起こると、私の脳は思い込んでいるのだろうか。
 お茶とは、私にとっては楽しいことなのか。お茶それ自体と言うわけではなく、お茶が、楽しいことを常に連想させてくれるのか。
 お茶は美味しい。お茶は楽しい。私はお茶を淹れて飲むことが大好きだ。

 さて、お茶(紅茶かコーヒーだが)を飲めない時、私は不機嫌になるだろうか。
 残念がりはする。がっかりはするが、不機嫌になるほどではない。煙草や酒や音楽や書き物ほどは、切羽詰った気分にはならない。
 ちぇ、お茶(紅茶、コーヒー、カプチーノ、カフェラテ、カフェオレ、カフェモカ、パンプキンスパイシーラテ等々)が飲めないのか、とせいぜいポケットに両手を入れて肩を揺する程度だ。
 ああだが、街中をうろつき回って、コーヒーショップを探すくらいのことはする。どこかへ出掛ける時に、近くにスターバックスか何かがあるかどうか、今時なら事前に調べはする。
 大事な保険だ。不意に急にお茶を飲みたくなった時に、すぐそこへ行けるように。

 私はカフェイン中毒だろうか。
 煙草のみが、ライターを忘れると激怒するのを知っている。本気の地団太を踏んで悔しがるのを知っている。駐車場に車を停め、車外へ出て店の入り口へたどり着く5歩の間にも、煙草の先に火を点けずにはいられないのを知っている。
 酒飲みも同じだ。飲めないとなると、凄まじい暴れ方をする。
 音楽はどうだ? 落ち着かない気分になる。一刻も早く家に帰って、PCをつけて(私のCDコレクションは、ほぼ全部PCの中に入っている)メディアプレイヤーを起動させたくてたまらなくなる。聞いている最中には、眠る時間すら惜しい。夢の中でその曲をずっと聴いていられないものかと、真剣に考える。
 書くことも同じだ。書きたいのに書けないとなると、指先が気になってたまらなくなる。ペンと紙がありさえすればと、頭の中はそれでいっぱいになる。書けないことが理不尽に思えて、自分が世界一不幸な人間のように思えて来る。乗って来れば、睡眠など3の次だ。

 そう言えば、筆が乗っている時は、マグが空でも気にはならない。いや、書くこと以外のすべてが何もかもどうでも良くなる。
 それじゃお茶でもと思うのは、ひと区切りついて、筆(と言うのも、今時おかしな言い方だが)を置いた時だ。
 やはり私は、カフェインを飲みたくて書いているのではなく、書く時の最良の連れに、カフェインを選んでいるだけなのだ。

 私がカフェイン中毒気味であることは、残念ながら否定のしようもないだろう。
 そしてなぜか、どんな本が好きか、どんな映画が好きか、どんな音楽が好きか、と同じ程度に、どんな飲み物をどんな風にどこで飲むのが好きか、と言うことも、自己評価と他己評価のために重要と思っていると、最近気づいた。
 その人を知るために、飲み物の好みはとても大事だ。自分を知るためにも、そのことはとても肝心な点だ。
 こんな風に、繰り返し繰り返しお茶のことを話題にするほど、私にとってはお茶を淹れて飲むと言うことは、とても大事なことのようだ。

 さて、そろそろ新しい紅茶を淹れて来よう。

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週末のエスプレッソメーカー * 12/15

 土曜日、午前遅くか午後早く、台所へ行き、エスプレッソメーカーを戸棚から取り出す。3人用のだ。高さはせいぜい20センチくらい。数年前の春先に手に入れ、以来、私の大事な持ち物のひとつだ。
 ひとりでしか飲まないのに3人分にしたのは、巨大なマグに作って、ひとりちびちび飲むからだ。3人分がこの小ささでは、ひとり用は一体どれほど小さいのかと、小さいもの好きの私はちょっと心を騒がせるが、いまだひとり用の実物にはお目に掛かったことがない。
 アルミ製の、小さなポットと言った風情のそれは、いくつかの部分に分解して、下部に水を入れ、中央にコーヒーを入れ、ひとつにまた戻して火に掛ける。数分後には水が沸き、放っておけばエスプレッソが上部にたまる仕組みだ。
 水が沸き、こぽこぽと音を立て始め、注ぎ口から湯気が出始めると、私は火力をややゆるめ、電子レンジにすでに入れた、計量カップできっちり量った牛乳を沸かし始める。レンジが切れるのは3分半後だ。
 コーヒーにはまったくこだわりのない私は、行き先のスーパーで、エスプレッソ用とパッケージに書かれた、その時いちばん安いのを手に取るのだが、この間、イタリアものと記されたコーヒーが安くなっていて、初めてダークローストと言うのを買って来た。ダークローストが何であるかは知っているが、だから味がどうなると言うことなどまったく知らない。私はとことん無知だ。
 普段使うのと違い、それはもっと細かく挽いてあって、すくうと、ざらざらではなく、さらさらとこぼれる。盛るとふわりと山になり、調べたところによれば、機械でエスプレッソを淹れるなら、そのように細かく挽いてある方がいいらしい。私の、直火式のものでは特に違いはないと書いてあった。
 本来なら、使うコーヒーも、何かきちんと道具を使って、コーヒー入れの部分に押さえつけて入れるべきらしいが、私の貧乏舌でわかるような違いもなく、毎回私はスプーンに山盛りのコーヒーを3杯、こぼれないように入れる、それだけだ。
 牛乳があたたまると、エスプレッソの方の火を止め、まずはエスプレッソをカップに注いで、それから牛乳を入れる。両方が適当に混ざると、上にホイップクリームを乗せる。
 これも、自分で買い始めて知ったことだが、ホイップクリームも、本物とまがい物があり、買う時には注意して名前を読むようになった。本物でなければ、ひどく油くさくてまずくなる。スターバックスはさすがに本物を使っているようで、甘みも淡く、そして舌触りも固い。
 自分でホイップクリームを作ることまではせず、とりあえずは本物と書かれた缶入りのクリームだ。私の貧乏舌にはこれで充分だが、たまにスターバックスの、いかにもその場で作っている風の、固くて甘くないホイップクリームが恋しくもなる。
 さて、上に乗ったホイップクリームだけを飲み込んでしまわないように注意して、カップの縁に唇をつけ、ひと口飲んで出来を確かめる。
 普段使っているコーヒー(挽きがどちらかと言えば粗い方だ)は、作るたび味が違うのだが、今回のダークローストは、少し濃い目に作るようになってから毎回我ながら美味しいと思えて、少しばかり得意になっている。私の腕ではなく、コーヒーのおかげだろうが。
 味に満足すると、まだ溶けていないホイップクリームを舌と唇ですくい取って、動物性の甘みで口の中を真っ白にする。ここで油断してカップから目を離すと、クリームの匂いにつられて寄って来た猫にクリームを盗み食いされるので、カップから注意をそらしてはいけない。
 コーヒーと甘い菓子はなぜか合わない気がして、紅茶の時にはチーズケーキだのクッキーだのと連れが登場するのだが、エスプレッソを淹れた時にはそれだけで飲む。甘みは牛乳とホイップクリームだけだ。
 カフェインは紅茶よりも少ないはずなのだが、夜に飲むとなぜか眠れなくなるような気がするので、エスプレッソを作るのは、遅くとも午後の早い時間と決めている。平日も避けている。これは、私の、週末のささやかな贅沢だ。
 エスプレッソメーカーは、冷えるまで置いておいて、夕食の頃に、分解してなるべく熱い湯で洗う。洗剤を使うと、コーヒーの味を損ねるそうだ。何回かに1度は完全にばらばらにして、部品すべてをきちんと洗う。時折、まあいいかと洗剤も使う。
 使うにつれ、アルミ製は見た目に染みができて来る。味に支障はないが、次に買う時はステンレス製にしようと考えている。部品を取り替えれば、ほぼ半永久的に使えるらしいから、次が一体いつになるのか、その頃まで、私のエスプレッソ好きは続いているだろうか。
 無知な私は、いまだエスプレッソ専用の豆の挽き方があるのか、それとも普通にコーヒーを淹れる時の挽き方でも構わないのか、よく知らないままでいる。パッケージにエスプレッソと言う文字があれば間違いないだろうと言う程度で、それ以上調べることもせず、味の違いもわかるわけでなし、エスプレッソらしいものができればそれで充分だ。
 明日の日曜は、チョコレートシロップを入れてカフェモカにしよう。ホイップクリームも、そろそろ空になるから、次の買い物のリストに忘れずに追加しておこう。
 土曜日が、カフェラテが冷めるのと一緒に、ゆっくりと更けてゆく。今夜はカフェインと一緒に夜更かしだ。

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