道の上
私たちは、葡萄畑の間を歩いていた。
それ以外は青い空しかない真っ直ぐな、歩道などない道を、時々通る車を気にしながら、私は彼の背中を見つめ、彼は振り返って私がそこにいるか気にしながら、私たちは、夏の日、そうして一緒に歩いていた。
私が初めてまともに彼を見たのは、大学のジムのプールでだった。
学生証を見せてタオルを受け取る受付でたまたま一緒になり、彼は男子用更衣室へ、私は女子用更衣室へ、右と左に別れ、着替えは女性の方が時間が掛かるものだから、私がプールサイドへ出た時には彼はすでに一番右端のレーンで泳ぎ始めていて、私は一番左端のレーンへ静かに入り、他のことなど目も入れずにすぐに泳ぎ始めた。
私たちはふたりとも眼鏡を掛けていて、だから私がひと息ついた時に、上から私に声を掛けて来たのが彼だとは、すぐには気づかなかった。
私は彼の顔がよく見えず、おまけに眼鏡のない顔をそもそも想像したこともなく、
「よく泳ぎに来るの?」
彼が、私と同じ英語修得のコースにいる学生で、母国語がスペイン語で、次はもう大学へ入学の許可されるいちばん最後のレベルのクラスでも上の方らしいと、私の彼に対する知識はその程度だった。
「毎日、2回。」
彼に通じるかどうか心配しながら、いちばん下のクラスにいる私は、彼へ向かって声を軽く張り上げた。
「ここでは初めて会うね。」
彼が微笑む。眼鏡のない彼の表情は、眼鏡のない私の目にはぼんやりとしか見えず、それでも笑顔が案外可愛らしい人だと、その時私は思った。
じゃあ、と彼が手を軽く上げて去ってゆく。儀礼的に私もそれに手を振り返し、私はまた水の中へ戻ってゆく。
ただ、それだけのことだった。
大学構内に入ると、図書館への入り口がある。一応の受付──人がいるのを見たことがない──が右の方にあり、その正面にはベンチやソファが並んで、学生たちはバスを待つ間、たいていそこへたむろっている。
壁際の、構内への入り口へ背を向ける位置の真四角のベンチが、私のお気に入りだった。
私は帰宅前のバス待ちの時間をよくここで過ごし、授業の合間に暇があれば、まず間違いなくここで本を読んでいる。読むのはもちろん私の母国語の本だ。あるいは、表紙を隠したこの国の子ども用の絵本だ。
プールに行くのは昼休みと放課後。1日2回。突然変わった環境で体を壊すことを恐れて、体力作りのためと言うことがひとつ、もうひとつは、学生ならただで使えると言うジムの温水プールが案外と豪華で、中学以来水泳から遠ざかっていた海の傍育ちの私は、川すら見かけないこの街で、単純に水の眺めに飢えていたのだ。
ろくにこの国の言葉も使えない私は、授業についてゆくのが精一杯で、言葉の違う友達を作ると言う余裕などなかったから、そうやってひとりの時間を過ごすことがほとんどだった。
同国人の学生とは、
「黒人の人って彼氏としてどう思う?」
だの、
「本って、教科書しか読んだことないから。」
とか、
「日本人がバナナってどういう意味?」
と台湾人の学生に真顔で訊いて絶句されると言う風に、一体何を話せばいいのか見当もつかないまま、こちらが戸惑う間に向こうから相手にされなくなると言う状態だった。
私はひとりには慣れていたし、うまく人と付き合えないことにもさして危機感はなく、学生たちにロビーと呼ばれていたその構内の受付前の場所で、周囲の会話で耳が拾った単語を辞書で引く、と言うことを合間にやりながら、いつもひとりで本を読んでいる変わり者として通っていた。
「これ、君が書いたんだよね。」
プールで聞いた声が、また上から降って来る。広いベンチの上に、靴を脱いで素足であぐらをかいていた私は、眉を寄せて声のする方へ顔を上げ、読書の邪魔をされた不快感を隠しもしない。
私たち英語修得コースの学生用の新聞が、彼の手にあった。
月に1度出るそれを、記事を集めて編集しているのは彼ら上のコースの学生たちだ。私たち下のレベルの学生たちは、彼らがどうやってこんなものを作っているのかすら知らない。
彼はその紙面をもう少し私に近づけ、長い指先を下の辺りに置いた。
「これ、君だろう。」
指し示されたそこには、10行ほどの文章が囲みの中にあり、それに目を凝らして最初の2行を読んでから、私は一瞬で顔を真っ赤にした。
そうだとも違うとも言わず、しかし私の反応で答えは十分だったのか、彼はおかしそうに声を立てて笑い、
「そうだと思ったんだ。君の書いたこれ、好きだよ。」
同じクラスのスペイン語を話すクラスメートに比べると、訛りなどほとんど感じられない流暢さで、彼が軽く言う。
私は、不意に裸の背中を見られたような恥ずかしさを感じて、それ以上は彼には何の反応も返さず、黙って読んでいた本へ顔をうつむける。
私の態度をどう取ったのかわからないが、彼は微笑みは消さないまま、じゃあ、と私の傍から去って行った。
彼が私に見せたのは、作文の時間に私が書いた課題からの抜粋の文章だった。お気に入りの場所があって、そこにいつもいる。そこにいればひとりでも大丈夫だし、そこで周りの人たちを見ているのも案外と楽しい。そこは私の大事な場所だ、と言うような、他愛もない幼稚な内容だ。
それがなぜ、私たち用の新聞の記事として載っているのかはわからなかった──作文の先生が、多分紙面埋めに提供したのだろう──が、ただ先生に見せるためだけに書いた私の文章、しかも見るに耐えないだろうひどい文章が、あんな風に人目に触れているのが信じられず、明日は先生に話をしに行こうと私は心に決めた。そして決めた瞬間、実行しないことをまた決心する。
だって、どうやって話すの? 挨拶もろくにできないくせに。
彼くらい話せれば、先生たちとも気楽に会話ができるのだろう。私のできるせいぜいは、バスの乗り降りに、運転手に必ずありがとうと言うくらいだ。
目は手元の本の字を追いながら、どうせ他の学生たちは、あんなものにわざわざ目を止めたりはしないと、私は自分に言い聞かせた。
彼があれを見せに私のところへやって来たのは、きっと何かたまたま、彼がそうしたい気分だったからだろう。プールで会ったことを思い出したからかもしれないし、ひとりで可哀想だと、あれを読んで同情でも感じたのかもしれない。
彼も含めて、あれが先生以外の他の人たちの目に触れていると言う事実は、私をひどく打ちのめした。
さらりと無機質に書いたつもりで、けれどああやって活字にされて紙面で読めば、行間から自分自身のやるせなさのようなものが読み取れて、自分でも気づいていなかったひとりぼっちの淋しさを目の前に突きつけられて、私は実のところひどくうろたえていた。
でもきっと、それを読み取るのは、あれを書いた私自身だけに違いない。他の人が読んだところで、私の、私自身ですら無自覚の真意に、他の誰かが気づくはずがない。
ベンチの表面を掌で撫でながら、心の中で、私はベンチに向かってありがとうと言い続けていた。どんな時もじっとここにいて、私と一緒にいてくれるこのベンチに、私は礼を言い続けた。
彼とまた、プールサイドで顔を合わせた。
彼はにこやかに微笑んで、やあと手を上げて来る。水の方ばかり見ていた私は最初彼に気づかず、歩き続ける私を避(よ)けない大きな影が目の前に来てから、慌ててそれを見上げ、それが彼と気づいて、私はひどくうろたえた。
「これから泳ぐの?」
普段、人とは物理的にも距離を取っているのが普通の私は、こんなに近く誰かに傍に立たれることに慣れていず、おまけにここはプールサイドで、つまり私たちは水着姿だ。私は咄嗟に自分の体を彼の目の前から消し去りたくなり、そして同時に、狼狽しながら触れられそうな近くにある彼の裸の胸や腹から目をそらそうとした。
こんな距離では、眼鏡なしの近視の視界も役立たずだ。遠視だったらよかったのにと、私は内心わけのわからない八つ当たりをしている。
彼の目を見ずにうなずいて、彼がまだ何か言いたそうだったのを、私は知らん振りでそこに置き去りにした。
彼はちょっと首をかしげて、そして何も言わずに立ち去り、私はほとんど逃げるように水の中へ入って、目の中から消えない彼の水着姿のイメージを振り払おうと、いつもよりもむきになって泳ぐ。
50mを半分に区切った25mのプールを、3度も往復すれば頭の中が空になるのに、今日は雑念ばかりが渦巻き、泳ぐことにまるで集中できない。それでもとにかく、いつも通りに40分程で500mほど泳ぎ、私は水から上がった。
更衣室から出て、受付の傍を通り、ジムの建物から外へ出るために階段へ向かったところで、その階段の下から5段目に腰掛けて、本を読んでいる彼に出くわした。私と違い、彼の読んでいる本はきちんと英語の本で、人の読んでいる本のタイトルをまず読み取るのは私の癖だ。
私が日頃読んでいる本とはまるきり装丁が違い、開きも逆のその本を持つ彼の手が、しっくりと本そのものに馴染んでいて、首の傾け方や視線の動きで、私は一瞬で彼が相当の読書家だと見て取って、同じように本が好きな人を見つけた喜びよりも、クラスでも成績が良く、先生たちにも一目置かれていると言う噂が私の耳すら届く彼に、私はこの時、劣等感を死ぬほど突き刺されていた。
この国の言葉は、挨拶すらろくにできない私と、こんな本をすらすらと読んでしまえる彼と、裸を見られても隠すことすら思い浮かばないらしい彼と、水着姿と同じくらい恥ずかしい幼稚な作文を読まれて、死にたい気分になっている私と、彼はなぜここにいるのだろうと、私はほとんど怒りを覚えながら考えていた。
「帰るの?」
読んでいた本を閉じて彼が訊く。
私は表情も全身も硬張らせて、短くうなずいた。走るように階段へ足を掛け、彼の傍をすり抜ける。彼は素早く立ち上がり、カバンを取り上げて、私の傍へ、軽々と2段飛ばしに並んで来た。その長い脚をちらりと見て、ここから突き落としてやろうかと、物騒な考えが頭をよぎる。
「バス、1本遅らせないか。」
階段を上がり切ったところで、私と歩調を合わせて彼が言う。私は正面を向いたまま、首を振った。
「用があるの?」
食い下がって来る彼に、私はほとんど自分をいじめたい気分で、ほんとうのことを言った。
「うん、帰ってセサミ・ストリート見るから。」
「セサミ・ストリート?」
「そう、セサミ・ストリート。アルファベットと数字。ニュースなんか見ても全然わからないから。」
さあ呆れろ、と私は言いながら思った。大学へ行くために言葉を学んでいるはずなのに、私はどうせそんなレベルだ。数すらまともに数えられない。読めるのは幼児向けの絵本だ。夏にはここの大学へ入れる彼が、こんな私に一体何の用だ。
「ここのセサミはフランス語なんだろう? 僕が見たのはスペイン語だった。」
彼が、私の刺々しい言葉を引き取る。まさか彼が、セサミ・ストリートの話題を拾うとは思わず、私はうっかりその場で足を止めた。さすがに無視し続けるのは失礼過ぎると思い直して、足を止めたついでに、私はやっと彼へ体を振り向けた。
「・・・スペイン語も、フランス語のもある。どっちも全然わからないけど。」
「僕のクラスの子が、テレビをたくさん見て勉強しなきゃって、テレビをつけたらひと言もわからなくて、"ああオレって全然ダメだ"って思ってたら、ルームメイトが後ろから、"おいおまえ、それフランス語放送だぞ"って。」
さすがに、英語でないくらいのことは、聞けば私でもわかる。
「フランス語とスペイン語だってわかるなら充分だよ。」
慰めるためか力づけるためかそれとも単なる冗談か、彼はそうやって最後を締めくくる。私はいつの間にか眉間に寄せていた皺を伸ばし、彼を正面から見上げていた。
私が、やっとまともな対応をする気になったのを見て取ったのか、彼は少しの間呼吸を整えるような仕草をして、それから、カバンを肩に掛け直して、話す速度を少し落とした。
「前から話したいと思ってたんだ。」
「なぜ?」
言われた瞬間、断ち切るように私は疑問を口にする。それも、もう少し柔らかな言い方があると私が学ぶのは、もう少し後のことだ。
「君のクラスの×××、僕と同じ国から来てるんだけど──。」
言われてすぐ、よく喋る、いつも明るいひげ面の、穏やかに笑うクラスメートの顔がひとつ浮かんだ。そう言えば彼とよく一緒にいる。スペイン語を話すと言うことは知っていたが、同国人とは知らなかった。それで、と私は身構えながら続きを待った。
「君、ヤツに訊いたんだろう、僕らの国では、政府が浮浪児を組織的に殺してるってのは本当かって。」
脳の隙間に、冷たい空気が入り込んで来るような感覚があった。私はぎくしゃくとうなずき、いっそう彼に向かって身構える。
「観光客に見映えが悪いから浮浪児たちを殺してるって本当かって、ヤツに訊いたんだろう?」
「うん、訊いた。」
彼の声はあくまで穏やかだったが、今では明らかに怒りか憤りかそんなものが含まれて、これから何が起こるのか、私はほとんど怯えながら予想しようとするが、突然空白になった私の脳は機能せず、ただ彼の言葉を聞いていた。
乗るつもりだったバスの時間が過ぎようとしていたが、私は彼と向き合ったまま、そこから動けずにいた。
「君が訊いたことは嘘じゃないけど、僕らにも言い分はあるんだ。」
目を細め、彼を見上げて、私は彼の言葉に必死で集中した。授業中だって、こんなに一生懸命誰かの言葉に耳を傾けることはない。
「あの子たちは、盗みをするし人を傷つけもする。人殺しも厭わない。靴片方のために、あの子たちは人を殺すんだ。」
映画や音楽でしか聞いたことのない、殺すと言う言葉を耳にして、私は少しだけ頬を打たれたようにうろたえる。殺すと言う言葉は、どの言葉でも聞いても、こんな風に禍々しく響くのだろうか。
彼は、少なくとも私がきちんと話を聞いていると思ったのか、相槌すら打たないのに、そのまま話を続ける。
「僕の友達も、ああいう子たちに殺された。僕のいとこもだ。政府は、そういうことを未然に防ごうともしてるんだ。」
私は、彼の言うことを正確に聞き取っているかどうか不安になりながら、思ったことを、数の足りない単語数で必死に表わそうと努力する。収容所、と言う言葉が分からず、代わりの言葉を探して、結局訳の分からない言い方をした。
「集めるとかは? 家とか。」
「学校とか孤児院みたいに? そんなところに入れたって、彼らはすぐ脱走するし、彼らはそもそもそんなところに入れられたいなんて思ってやしない。」
彼の言い分は、半分くらいは一方的なように思えた。それでも恐らく、彼に言わせれば、私がテレビで見た放送のされ方も極めて一方的な意見なのだろう。正しいことはひとつではないのだと思いながら、私はそう思うことすらきちんと表現できないことにひとりで焦れ、彼の話を一方的に聞くしか術のない、自分のあらゆる拙さを歯痒く感じている。
彼の言うようなことを、私はほとんど見聞きしたことがなかった。浮浪児たちは盗みをしたり人を殺したりする、収容するのも無駄、他に手立てがないので彼らを殺すことにする、そんな恐ろしい話が一体どこに転がっているのかと、私は海を越えた遠い、名前さえ彼らの言葉でそのまま発音できるか怪しいある国の出来事に、完全な他人事として憤る。安全な場所で、家族や友人を殺される恐れもなく、その浮浪児たちに対面する機会すらないまま、彼らの悲しい運命を嘆く。単なる自己満足だ。
彼はそうではない。その子たちに日々直に会い、彼らが何をしているのかを知っている。彼らが、ただ可哀想なだけ──見方によっては、もちろん彼らはただ気の毒な存在だ──の憐れな孤児たちではないと知っている。残念ながら、彼自身が被害者であり、その立場から、加害者である浮浪児たちが"駆除"──これは、テレビが使っていた言葉だ──されることを黙認するのも仕方がないと思っている。
私はただ彼の話を黙って聞くしかなく、それは私の言葉の未熟さだけのせいではなく、ほとんど生まれて初めて、自分の振りかざす正義が絶対ではないと思い知らされ、そして正義の形も存在も、ただひとつと言うわけではないのだと、目の前に突きつけられたからだった。
私は、自分の幼稚さを恥じた。できれば、この場で彼の前から消えてしまいたいと思った。
「わかった。あなたの言うことは、わかった。」
私は心の底から素直にそう言い、だが謝罪の言葉のようなものは付け加えなかった。私の見聞きしたことは少なくとも完全に間違いではなかったからだ。見解の相違と言う代物を、口にする前に考えなかった私は愚かだったが、私が悪かったと自分のことを思ったのは、彼の気分を知らずに害してしまったというただその一点だけだった。
「起こってることが正しいとは思わない。でも、困ってる人たちがいるのはわかった。」
「・・・僕らだって、あの子たちが殺されるのを正しいと思ってるわけじゃない。」
でも他に手立てがない、と彼が言葉を切った後に、私にはそう聞き取れた。主には言葉の問題で、私はそれ以上彼に問うことをしなかった。
私たちは、ごく自然にそのままバスの乗り場まで一緒に行き、一緒にバスに乗り、横に長い座席に肩を並べて坐り、バスの走る音に負けない声を上げて、ほとんどは彼が一方的に学校のことを話すのを聞いていた。
学生たちはほとんどが街の中心でバスを乗り換えるので、私たちも同じ様にターミナルでバスを降りたのに、すぐ次のバスに乗れる彼は、15分待たなければならない私の傍を離れず、結局私たちはその後2本のバスを乗り過ごし、ベンチでずっと話をした。
彼は熱っぽく自分の国のことを語り、いろんなことを変えて行かなければならないと、繰り返し言う。
暴動が繰り返され、そのたび政府は軍を出動させ、街中に──彼は首都に住んでいるそうだ──戦闘機が飛び交う。彼が両親と暮らす背の高いアパートメントの、最上階に近い窓から、その戦闘機がよく見えると、彼がほとんど可笑しそうに言った時、私は、ここへ来る以前の自分の暮らしのことを考えた。
軍の基地の近くに住んでいたから、学校へ通う──私は学生だった──電車の窓から、展示されている飛行機を見たことはある。母は基地のある街で仕事をしていた時期もあった。明らかに外国人の多いその街は、彼らに合わせた生活用品や文房具が多く売られ、それを珍しがって母があれこれ買って帰って私に見せる。私は軍や戦争を、特に理由なくありがちに忌み嫌っていたし、それに参加するすべての国や政府を、ただ愚かだと内心で常に一刀両断していた。
「僕は、ここでは好きに話ができるけど、国に戻ると手紙すら自由には受け取れなくなるんだ。僕や僕の家族が受け取る前に、全部開封されて中身をチェックされるから。」
なぜ、と私が訊く。国の方針なの?
「そうだね、方針でもある。僕の母さんは元々ロシアの人間だし、父さんはドイツ移民と山岳系原住民の混血なんだ。そのせいで色々あって、うるさいことを言われる。」
国同士の政治的な軋轢にまったく知識のない私は、彼の家族がロシアやドイツからやって来て、そしてそこの原住民とさらに交わったと言うのが、なぜ彼の国の政府にとって都合の悪いことなのかよくわからなかった。彼は詳しく説明してくれたが、私にはほとんど理解できなかった。
原住民の混血であると言うのは、彼の国ではほとんど恥ずべきことであるらしく、そう言えば、別のクラスの彼と同国人の女性──父君が弁護士で、非常に裕福な家族だと聞いた──が、その原住民の人たちを指して、
「森の中に住んでる野蛮人。」
と、眉をひそめて吐き捨てたと聞いたことがある。彼女は、自分の血筋がスペインからの直系であることが非常に自慢だったらしい。
北海道にゆくのにパスポートがいると言う冗談を信じてしまったような私には、無知の極みで何がどう恥で何がどう自慢なのか、一向に理解もできない。
普通に街を歩いていて、トラックの荷台にあふれるほどの人が乗り、その人たちがすべてライフルを携えている、と言う彼の日常は、私にはどうあってもただひたすらに遠い話だった。
高校の時に、オーストリア人の母親を持つ後輩──私の高校には、片親が外国人の生徒がたくさんいた──は、そう言えば18までに国籍を選ばないといけない、今もどちらを選ぶかで親への愛を試されてるような気がして嫌になると、一緒に電車に乗っていてぼやいていたことを思い出した。
世界の広さを目の前に見ながら、私の心は相変わらず矮小なまま、彼に答える言葉などひとつも持たない。それでも彼は、私に向かって熱っぽく語り続けた。私は黙って、彼の言葉をできるだけ全部聞き取ろうと、耳だけを必死に傾けていた。
「セサミ・ストリート、見れなくなったね。」
突然彼が言う。彼の今まで使っていた難しい単語の中に、不意に耳に馴染んだ言葉が混ざり、私は一瞬意識の切り替えがうまく行かずに、妙な表情を浮かべてしまった。
「別に。明日もあるし。」
「毎日見てるの?」
彼が冗談めかして訊く。私は真顔でうなずいた。彼がちょっと表情を改めて、私には冗談が一切通じないとようやく悟ったようだった。多分、冗談を言うのも理解するのも、まずは言葉の能力が必要で、それは今の私には徹底的に欠けているのだとやっと気づいたのだろう。
妙な人だと、私は彼のことを考えた。言葉が通じているかどうかもわからないのに、こんなに熱心に話をして、虚しくならないのか。今日見損ねてしまったセサミ・ストリートを意外なほど惜しみもせず、私は、またにこにこと笑みを浮かべ始めた彼につられて、いつの間にか微笑みを浮かべていた。
それから、彼は私がロビーのベンチに坐っていれば必ず隣りへやって来るようになり、プールで行き会えば、何となくそのまま一緒に外で落ち合って同じバスでターミナルへ行くと言うことが増えた。
彼は私がそれをどう思っていると尋ねることはせず、断る理由も思い当たらなかった──あったところで説明もできない──私は、何となくそれを受け入れて、学校のない週末も、彼からの電話で一緒に外へ出ると言うことまで起こり始めた。
何もかも、私が拒まなかったからだが、恐ろしいほど自然に彼は私の隣りにやって来て、私を外へ連れ出し、私の読む本を眺めて面白がりながら、私が読めそうな本を、さり気なく誘ってくれた街の図書館で一緒に探してくれるということまでやった。
私は彼の話し方と言葉遣いを浴びるように聞き、耳から学んだその発音で、その頃一緒に住んでいたイギリス移民の家族に、
「どうして君にはスペイン語訛りがあるんだろう。」
と訝しがられるほどだった。
彼のおかげで私の言葉は上達しつつあったが、家族から得たイギリス訛りと、彼から移されたスペイン語訛りがごちゃごちゃと混ざり、もちろん私自身にはその自覚などなく、発音の奇妙さを指摘されたところで、わざわざ直すような余裕もなかった。
セサミ・ストリートは、週末には朝から夕方まであちこちの局で繰り返し放送されていたから、彼の滞在先へ招かれて、彼のルームメイトたちと一緒に笑い転げながらモンスターたちを眺めて土曜の午後を過ごすと言うことも多々あった。
そしてそんな時、彼は夕方少し日が翳って涼しくなると、よく長い散歩に私を連れ出した。
彼の家は街の東側にあり、そこをもっと先へゆくと、湖から流れ出た長い河にぶつかる。その河は街々をずっと縦断し、いずれは別の湖へたどり着く。私は彼に教えられて初めてこの街にそんな河があることを知り、彼と一緒に、河に沿って作られた遊歩道を、彼は私に合わせて少しゆっくりと、私は彼に合わせて少し早足に、北へ向かってずっと歩き続けるのだ。
すれ違う人たちは、明らかにいろんな血の交じり合った彼の、ひょろりと背高い姿にまず目を止め、それからその隣りにいる小柄な東洋人の私を見て、必ず少しばかり驚いた表情を浮かべたが、彼の隣りを歩くのに必死な私は、彼らの視線には滅多と気がつかず、彼らとすれ違った後で彼に、
「はは、また変な顔された。」
と可笑しそうに言われて、初めて彼らを振り返って眺めるのが常だった。
広い河にはよく船が通り、何ヶ所かに渡された橋は、そのたび真ん中で割れ宙に跳ね上がり、船を先へゆかせるために車の通りを止める。そんなものも生まれて初めて見る私はすべてが物珍しく、これもまた、彼があれこれ説明してくれるのに、ただ耳を傾けた。
時々、その橋のひとつを歩いて横切り、河の反対側の岸へゆく。そこから少し西へ進むと、ひたすら畑ばかりが広がる辺りへ出る。家も人も車もまばらで、夜来たら、さぞかし淋しいだろうと思える場所だった。
「夜になったら星がきれいなんだ。」
今はまだ青い空を指差して、彼が言う。見渡しても街灯も滅多と見当たらないそんな場所で、街の灯のない暮らしなどしたこともない私には、何だか不安しか湧かず、それでも、ひとりきりでないなら、いつか夜空を見上げてみたいとも思った。
ここには腰掛けの学生の私たちは、もちろん車など持たず、移動はすべて徒歩かバスの私たちは、暗くなってから会ったことはなく、今思い返せばそれは、もしかしたら彼も、私と一緒に夜空を見たいと、そう言ったつもりだったのかもしれない。そうすることは、無理ではなかったけれど、その時の私たちには少しばかり難しかった。
一度だけ、彼と一緒に映画を見に行ったことがある。夕食の後に、ターミナルで落ち合って、街でいちばん大きな映画館へ一緒に行った。悪くはない映画だった。もちろん、台詞の大半が私にはきちんと聞き取れず、見終わった後で彼に説明してもらう必要があったが。
夜には数の減るバスを待つ間に、私たちはコーヒーショップへ腰を落ち着け、相変わらず他愛もないことを話して時間を潰した。
「夏が終わったら、自分の国に帰るんだ。」
彼が言う。いつものように微笑んでいたけれど、そう言った後で、奥歯を噛みしめた頬の線が、はっきりと見えた。
私たちは、小さな丸いテーブルに、高さの違う肩をわざわざ寄せ合うようにして坐り、彼のその頬の線を眺めて、私は自分の家族のことを突然思い出していた。今彼を眺めている角度が、ちょうど自分の家の食卓で、父親を眺める角度と同じだったからだ。私の父もよく何か内心に屈託がある時は、こんな風に奥歯を噛みしめた横顔を私に向けた。
女性はそう言えば、こんな風な顔を見せないと、よそ事を考えながら、私は彼のその頬の線を見つめ続けていた。
「もう、飛行機は決めたの?」
「まだ。」
短く答えて、彼は自分のコーヒーの紙コップへ視線を落とした。
私はすでに、彼の帰国のことを、彼と同国人のクラスメートから聞いて知っていたから、大きなショックは別になかった。夏が終わって帰国するのは彼だけではなく、恐らくもう半年はここへいるだろう私を初め、居残り組の学生たちは、去った学生たちと入れ替わりにやって来る新しい学生たちを秋に迎えることになる。
彼はもう自分の国で大学を出ていて、だからここの大学へわざわざ入学する必要はないのだ。
私は、視線の先で彼と自分の父親を重ねて、この時初めて、彼を好きなのだと気づいていた。私にとっては永遠に安全な異性である父親と、何ひとつ似たところなどない彼もまた、私には安全な異性であり、そしてこのふたりがまったく同じような表情を私に見せていることが、私にはひどく意味深いことに思えた。
彼の気持ちは知らない。彼はしばしば私と一緒に時間を過ごしたがったが、だからと言って何か具体的に私に言うこともなくすることもなく、私たちはまるで兄と妹のようであり、偶然だが、彼にはひとり妹がいる。私たちがこのように時間を過ごしているのは、そのせいもあったのかもしれない。彼を兄のように思い、そして今彼が自分の父親と重なったのは、私にはごく自然のことのように感じられた。
ひとつだけ奇妙だと言えば、兄のように思う彼が父に似て見えた瞬間に、彼を好きだと気づいた自分の心持ちだが、恋愛と言うものに疎く、親しい異性と言えば家族しか知らない私には、家族のように思えなければ心を開けなかったのかもしれない。
「ごめん。」
不意に彼がそう言った。私を見て、私が泣き出したりしないように、心配しているのが見て取れる。
「謝る必要なんかないのに。」
泣き笑いになったりしないように、私は一生懸命笑った。紅茶の紙コップへ添えた指先が震えていたのに、私自身は気づいていなかったが、彼も気づかなかったろうか。
「もしできたら、僕が帰る前に、一緒に星を見に行こう。」
ずっと考えていたことをやっと口にした、と言う風に私には聞こえた。
大層な自惚れ屋だと心の中で自嘲しながら、私は彼に向けた笑みをいっそう深くする。私たちが一緒に、いつかの夜に星を見に出掛けることはないだろう。私たちはふたりとも、そのことを知っている。彼の言葉をすべて振り払うように、私は肩をすくめた。
バスの時間が近づいていたが、私たちのどちらも、まだ席から立とうとはしなかった。
夏の終わりは素早くやって来た。
最後の授業が終わり、卒業式などと言う形式ばったものもなく、私たちはただ講師たちにさようならと送り出され、後は好きなように好きなだけ、別れを惜しみたい学生たちだけが、惜しみたい相手たちと一緒にロビーに長々とたむろった。
クラスメートたちとの別れの挨拶に忙しい彼は、途中で私をつかまえて、
「週末に会おう。電話する。」
と、奇妙に切羽詰った声と表情で言い、私にきちんとそれを約束させた。
私のクラスメートたちはほとんどが居残り組だから、別れを惜しむのにそれほど時間は掛からず、夏の休みの間にきちんと言葉を上達させておくことを互いに誓い合って、私はいつものようにセサミ・ストリートを言い訳に、その日はひとりロビーを後にした。
彼は火曜日に帰国することになっていた。空港へ向かうのは早朝だ。もう、明日と明後日(あさって)、それから明々後日(しあさって)しか残っていない。
ひとり帰宅するバスの中で、私は、彼の同国人の友人からちらりと聞いた話を思い返している。ほんとうのことかどうかは知らないが、彼はいずれは同じ教会の女性と結婚するのだそうだ。今現在、その対象の女性がすでに彼を待っているのかどうかは、彼らも知らなかった。どの種類の教会なのか私にわかるはずもなかったが、様々なしがらみで、彼は教会の外の女性と結婚することはできず、彼自身もその決まり事に反抗する気はないらしかった。
彼と神の話をしたことがあったが、もちろん私に無神論や多神教の話がきちんとできるはずもなく、教会に関係したことはないし、これからもないだろうと、そう伝えるだけが精一杯だった。
彼が教会の話など持ち出したのはそのせいだったのかもと、今になって思い至りながら、では私が、たとえば彼の教会に属してもいいと、そう答えたなら、私たちの状況は変わるのだろうかと、埒もなく考え続ける。
そんな風に思うほど、私は彼を好きになってしまっていたし、それでいて彼との別れの現実が身には迫って来ず、まだ何とかなるのではないかと、夢のようなことを考えていた。
もう少し子どもの頃に思い描いていたのは、好きだと気持ちが伝わり合えば、そこで何もかもがうまく行くと、そんな風な物語だった。そこから先はない。好き合っていれば、反対も障害もなく、そのままふたりはただ幸せになれるのだと、この頃まで私は心のどこかで無邪気に信じていた。
実際には、山ほどの懸念があり、心配事があり、ハードルがあり、そもそも好きの度合いとベクトルが違えば、何も起こらないことも有り得るのだと、私はこの時生まれて初めて悟っていた。
乗客の少ないバスの中で、いちばん後ろの席に坐り、そして、誰もこちらを見ていないことを確かめてから、私は少しの間涙を流した。声は立てず、涙だけが流れる、それを指先で何度か拭う、そんな泣き方をした。
窓の外では、とっくに夏休みの子どもたちが、自転車を乗り回して甲高い声を上げて遊んでいる。彼らを見て、私はもう一度涙を流した。
帰国の準備で忙しいはずの彼は、その合間にか何度か私に電話をくれ、別れの挨拶など何もせずに、私たちはいつもと同じような会話を繰り返す。
そして月曜日、午後いちばんで遊びにおいでと言われ、早目の昼食をひとり先に済ませ、私は彼の家へ行った。
「荷物はもう片付けたの。」
「部屋はもう空だよ。一緒に帰るヤツがいるから、ルームメイトが空港まで送ってくれるんだ。」
「そう、よかった。」
明日の今頃は、彼はもう飛行機の中だ。そして私は、二度と彼に会うことはない。そのことには触れず、私たちはまたセサミ・ストリートの話をし、彼の国の話を聞き、それから学校の話をした。
「アイスクリームは好き?」
彼が突然訊く。
「嫌いじゃない。」
「じゃあ、後で食べに行こう。」
彼の説明によれば、今までいちばん先まで行った、河の向こう岸をさらに北西に進むと、ぽつんとアイスクリーム屋があるそうだ。箱入りなら街中のコンビニエンスストアでも買えるが、ソフトクリームや普通のアイスクリームは、そこへ直接行かないと食べられないと説明して、
「一緒に行こう。」
私を誘うその言葉が、それだけではない響きを確かに帯びていたから、私はできるだけ軽くうなずいて、普段と変わらない態度を続けた。
彼の家を出て、いつものように河沿いの遊歩道へたどり着き、それから橋を見つけて向こう岸へ渡った。天気の良い日だった。
畑の間の道を、彼が先に歩き、私がその後を追う。私は彼の靴のかかとへ視線を落として、それが上げる小さな砂煙に時々目を細めて、何も言わずにそうして歩き続ける。
時折車が通り過ぎてゆく。そしてもっとまれに、自転車が数台連なって、浅黒い肌の男たちが、私たちのやって来た方向へ走り去ってゆく。振り返って彼らを見送って、彼らも容貌からすると外国人だろうかと、そんなことを思った。
彼は時々、私がちゃんと後ろにいるかどうかを確かめるように振り返り、そのたびにこりと笑ってからまた顔を元に戻す。彼も私も、砂埃で眼鏡のレンズがひどく汚れ始めていた。
一体どれほど歩いただろうか。彼の言ったアイスクリーム屋は、ほんとうにぽつんと、畑の真ん中にあった。広々とした駐車場は、どこか別の場所から移されて来たように車があふれ、ひたすらに土色と空色と緑色しか見えないこの辺りの風景の中で、車の色は毒々しく見え、そしてアイスクリーム屋の目立つピンクは、そろそろ疲れ始めていた私の目には、むしろ懐かしく映る。
「こんなに遠いって思わなかった。」
私が思わず抗議するように言うと、
「君はだっていつも文句言わないから。」
歩くのは確かに気にはならないが、心構えのために一言あって然るべきだろうと考えついてから、彼の、
「君らはクソ真面目だからなぁ。」
と言う、以前の茶化した台詞を思い出して、私はそのまま言葉を飲み込んだ。
これもまた、彼と私の間の大きな違いのひとつだ。彼から見れば、私と私の同国人の学生たちは融通の利かない石頭で、私たちから見た彼と彼の同国人の学生たちは、あらゆることになあなあの、きちんと物事を決めることなどまったくしない人たちだった。
彼らに笑われても、私たちはそれに対して言い返すことなどなかった──言葉の問題だけではなく──し、私たちは自分たちがいい加減と感じる彼らの自由奔放さを、実のところは羨ましさ一杯で眺めていて、違いが大き過ぎると、案外と喧嘩になどならないものだ。もっとも私たちは、売られた喧嘩には気づかない振りをし、喧嘩を売るくらいなら負ける方を選ぶと言う処世術を遺伝子レベルで刷り込まれているから、喧嘩の仕方を知らないと言う方がより正確なのかもしれない。
彼はストロベリーのアイスクリームをひとすくい、私はオレオのアイスクリームをふたすくい、抱えて隅のテーブルへ行った。
いつから、丸いテーブルの時には肩を寄せ合うようにして坐る習慣がついたのだろう。彼が始めたことだったが、今では私も、自分が後で坐る時には彼のすぐ傍へ腰を下ろすようになっていた。
アイスクリームは甘かったが、確かに彼の言う通りに美味しかった。
喉が渇いていた私は、彼よりも時間を掛けて、だがぺろりとそれをすべてたいらげ、ナプキンで口元を拭いた後も、私たちはすぐには席を立たず、しばらくの間、言葉も交わさずにただ見つめ合っていた。
彼が、時計をちらりと見る。私も、自分の時計をちらりと見る。外はまだ明るい。時計を見て外を見てまた互いを見ることを、4、5回繰り返して、そろそろ行こうかと腰を浮かせたのは、私の方が先だった。
店を出て、来たとまったく同じ道を、私たちは再びたどり始める。彼が前を歩き、私がその後へ続く。歩幅も歩調もまったく同じだ。太陽の向きと傾きは違い、風の吹く方向も違う。行きには見掛けた自転車は1台も見掛けず、時間のせいかどうか、車もまったく通らない。道の上には、私たちだけが歩き続けていた。
見て来た風景を逆戻りしながら、今はどの辺りだろうと、私はふと周囲を見回す。彼の背中と足元ばかり見ていたから、景色に記憶がなく、河を渡るまでどのくらいか、結局見当もつかない。考えるのをやめて、私はまた彼の背中と足元へ視線を据え直した。
何度目か、彼が振り返る。私がちゃんと迷わずに──どうやってこの1本道を迷うと言うのだろう──後ろにいることを確かめて、そして、彼は突然足を止めた。
ぶつかりそうになりながら、私は前につんのめるように足を止める。どうしたのと見上げる私の目の前に、彼が自分の手を差し出して来た。
彼の向こうに見える空は、もうただの空色ではなく、かすかに赤みを帯びて、薄く淡く、紫色の影を揺らし始めている。その色を見ながら、私は、自分が彼の瞳の色をよく知らないことに気づいた。同じ色の髪と瞳の人間ばかりが暮らす国から来た私たちには、他人の髪や瞳の色をいちいち気にする習慣がないのだ。
私は、彼のことを何も知らないままだ。彼の誕生日も尋ねたことがない。彼の瞳は遠く、汚れた眼鏡越しには、どうやってもはっきりとは見極められない。これは何色なのだろう、目を細め、私は彼の瞳を眺め続けた。
動かない私の手を、彼が取った。その手を引かれ、今度は左右に並んで、私たちはまた歩き出す。彼は、私の足の長さに合わせて、歩幅を半分近く狭めたように思えた。
「明日は、朝早くここを出るんだ。」
彼が言う。私は声を出さずにただうなずいた。
「次はいつ国を出れるかわからないけど。」
ぶつりと、言葉はそこで切れた。彼は私が何か言うのをまっていたようだが、私はもう、彼に対する言葉など何も持たず、ただ繋いだ手にばかり意識が集中して、これは一体どういう意味だろうかと、それだけを考えていた。
彼の手が、私の手をぎゅっと握る。言葉よりは簡単なその動作を、私も真似る。彼の大きな手を握っているのは、意外と大変だ。こんなに、背が高いだけでなくあちこち大きな人だったのだと、私は今になって驚いている。
もう、日差しはやわらかくなり、ゆっくりと赤みを増す空を時々見上げて、私は今は自分の足元を見ていた。私と足並みを揃えている、彼の大きな爪先。彼の手は歩くうちにずれ、私のためかそれともその方が彼も楽なのか、掌を真っ直ぐに合わせて、指の間に指を差し入れる繋ぎ方に変わっていた。
気がつくと、目を凝らした先に、橋が見え始めていた。
私は足を止めた。半歩先へ行った彼は、腕を引かれた形に私の方へ振り返り、何も言わずただ微笑みを浮かべる。今は橋に背を向けた彼が、何だか引き止めて欲しそうに見えて、きっとどうしようもない自惚れだろうが、この街から去りたがってはいないように私には見えた。
行かないで。
やはり言葉は出なかった。唇は動いたような気がするが、私はそれを、彼に伝わるように発することはできなかった。
私は彼を見上げ、彼は私を見下ろしている。私たちの間で、手は繋がれていたが、それはいつでも簡単にほどけてしまう、心許ない繋がり方だった。
私たちはきっと、同じように互いのことが好きなのだろう。だが私は彼から遠過ぎ、彼は私から遠過ぎる。それを乗り越えるほどの情熱は、私にも彼にもない。
気がつくと、私は泣いていた。あの日バスの中で泣いたと同じ泣き方で、彼を見上げて、私は泣いていた。
彼は、少しだけ困ったようにまた微笑み、私を止めようとはせず、ここから先に立ち去ろうともしない。
彼の後ろに、夕空と橋が見えた。私たちが今帰るべき街の空と、そこへ私たちを繋げる橋だ。すぐそこにある。だが、私は今、そこからできるだけ遠ざかっていたかった。
行かないで。また私は、胸の中でだけ彼に向かって言った。
道の上に、私たちはふたりきりだった。私たちは足を止め、繋いだ手はそのまま、この道の上にいる。戻りもせず進みもせず、私たちは、道の途中で、そうして長い間見つめ合ったままでいた。
容赦なく進んでゆく時間の中で、私たちのいる道の上でだけ、何もかもが止まっていた。夏の陽射しも暑さも、私たちの周りだけには届かずに、涙の乾き始めた私の頬に、もう夕方の風が触れてゆく。
行こう、とどちらからも言い出せず、私たちはそこにただ突っ立っている。橋を越えれば夏が終わると知っている私たちは、この夏の最後の名残りを、一緒に惜しんでいる。
この夏の日、道の上にいたのは、私たちだけだった。私たちだけが、夏の最後の瞬間を抱えて、道の上にいた。
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