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2016年7月&9月

楽しい悩み * 7/8

 少しの間、脳が泥状になるように忙しくて、それがやっと終わったタイミングで新しい本が手元に来た。小説が3冊。一度も読んだことのない本だ。
 長編を読み掛けていて、上下の上巻をほとんど読み終わっているところだった。下巻をきちんと読み終わってから、来たばかりの本に手を出すか、それともとりあえず上巻だけを読み終わってから、休憩のつもりで新しい本を読むか。何とも楽しい悩みだ。
 さっさと下巻を読み終わってしまうのが読んでいる本への礼儀だとは思いつつも、読み終わるのに少なくとも1日は掛かるだろうし、読書だけに集中できなければ数日掛かるかもしれない。その間、新しい本に触れずに、我慢できるだろうか。
 表紙を眺めて、ちらりと裏表紙や内側の折り返し部分のあらすじを読む。一体どんな話なのかと、ぎりぎりまで自分の忍耐を試すようなことをわざとする。
 今面白そうだと思うと同じくらい、面白い本ならいいなと、下巻に伸びる手を引っ込めがちに、私は考えている。
 1冊は、推理小説家の短編を集めたアンソロジー(最後に収録されている作品の作者が私は好きだ)、2冊目はある海外作家の短編集(同じ作家の別の短編集を何冊か持っている)、3冊目は殺人鬼の話だと言うので面白そうだと思った翻訳ものだ。
 下巻にブックカバーをつけながら、私は心の中で、この3冊をどの順番で読もうかと考えている。短編集は、他の短編集が面白かったので面白いに決まっている。アンソロジーはひとりの作家目当てで読む気になったものだが、他の作家の作品も楽しみだ。殺人鬼の話は、あらすじ程度しか分からず、作者についてはまったく無知だから、一体どんな文章でどんな内容でどんな結末なのか見当もつかない。
 不特定要素は多いが、1作1作は短く、そして作品の量は多い、まるでバイキングみたいなアンソロジーはちょっとならしにいいかもしれない。
 短編集は内容はまったく未知だが、同じ趣旨の短編集をすでに何冊か読んでいて、それが面白かったからこそこれを読もうと思ったのだし、期待の安定度では文句なしに一番だ。
 殺人鬼の話は、何もかもまったく分からない。面白いだろうと考えてはいるが、ほとんどすべてが謎に包まれている。
 初めて読む本と言うのは、まるでびっくり箱だ。何が飛び出して来るか分からない。予想と期待と、そんなものが自分の中でいっぱいになって、もしかするとそれは裏切られるかもしれないし、あるいは考えていた以上の結果が生まれるかもしれない。
 さて、どの本から読もうか。下巻は今3分の1を過ぎた辺りだ。読み終わるのに、後2日と言うところか。
 目の前の本(読むのはもう10回目くらいだ)へ心を半分向け、残りの半分は、机の端に積まれた3冊の本へ向け、私の目は紙面の文字を追いながら、同時に脳の中で楽しい迷いが生まれ続けている。
 登場人物が何か言っているが、それが一体何のことだったか、数ページ遡って読み返さなければならなかった。
 この本を後2日以内に読み終わるために、今はこちらに集中しよう。
 無理矢理視界を狭めて、本へ顔を近づける私の口元は、どうしようもなくゆるんでいた。

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6/19

 朝、ヨーグルトを口にしたきりだった。
 外出中の私は空腹で痛みを感じ始めている胃を撫でて、家に帰れば冷蔵庫に何かあると、腹の虫をなだめようとした。
 1時間は我慢できた。それを過ぎて、まだ家に帰ったらと自分の空っぽの腹に向かって言い続けるのに疲れて、途中でカフェに寄って、ついでに久しく外で飲んでいないカフェラテを楽しむかと思ったのだが、カフェでゆっくりするほどの時間はなく、それについて内心舌打ちをしてから、帰り道の途中で、店内に椅子とテーブルのあるセブンイレブンで、ピッツァをひと切れ買うことに決めた。
 イタリア系の、菓子類は好みでないのだが、エスプレッソ系の飲み物とピッツァは美味しいカフェからは幾段も落ちるが、空腹に負けた私にはもうセブンイレブンのピッツァも大した違いはない。
 しばらく前にアイスコーヒーを買いに立ち寄った暑い日に、視界の片隅に入れておいた、小さめのドーナッツのことも気になり始める。
 空腹と言うのは恐ろしい。店に入ると、ペパロニの載ったピッツァの前を通り過ぎて、私はまずドーナッツの陳列台の前に立った。
 記憶の通りの小さくて丸いドーナッツ(真ん中に穴の開いてないタイプだ)がある。ひとつと思っていたのに、白いアイシングにキャラメルソースの掛かったのをひとつ、それからチョコレートのアイシングに同じ色の粒々の掛かったのをひとつ、これは今夜の、夕食の後のデザートにするつもりだった。
 それからさらに店の奥へ進んで、アイスコーヒーを買う。フレンチヴァニラは売り切れだ。仕方ない、モカにしよう。Mサイズのカップとストローを取って、脳の溶ける甘さを想像しながら中をいっぱいにする。
 甘さの見本のようなそれらを手に、私はようやくピッツァの前に立って、このひと切れをと、ガラスの向こうを指差す。髪の短い、少年のような女性の店員が、これよねと確かめながら、私が指した分を取ってくれた。
 レジで会計をしながら、私の頭の中はチーズとトマトソースでいっぱいだ。ここのピッツァは台がパンのように厚く、ひと切れで満腹になるのをちゃんと知っている。
 ピッツァの店で買うと、ひと切れが大き過ぎて食べ切れない。セブンイレブンのピッツァは小さめで、ふた切れは無理だがひと切れなら私にはちょうどいい。
 味に文句を言っている場合ではない。財布を荷物の中に戻して、私は買い物を両手いっぱいに抱えて、レジの後ろにあるテーブルの方へゆく。
 むやみに脚の長い、座面の位置のやたらに高い椅子にやっと腰を下ろし、私はまずひとつため息をこぼした。
 ふっくらとぶ厚いピッツァにかぶりつく。歯を立てたところからトマトソースがあふれて来て、甘みのある酸味の後を、チーズの香りが追いかけて来る。ペパロニはちゃんとペパロニの味と歯応えだ。今の私の胃にはこれで十分だ。
 目の前のガラスの壁の向こうを、車が走ってゆく。店の表の角に当たるそこにはゴミ箱と灰皿が置いてあって、今は休憩中の店員の女性がふたり、彼女らの友人らしい他の女性がふたり、楽しげに笑い合っている。彼女らの手にした煙草を見て、食後に吸う一服の味わいを、私はピッツァの台をもぐもぐ咀嚼しながら想像する。
 台の量に圧倒されて、トマトソースもチーズも口の中の片隅に追いやられ、辛うじてペパロニの、小麦粉からは程遠い食感が今私が食べているのは確かにピッツァなのだと伝えて来る。
 最初に行こうかと思ったカフェからは程遠い眺めと口の中の祭典だが、決して悪くはない。空腹がなだめられて、私はいい気分だった。
 カフェには歩いて恐らく20分強掛かるが、このセブンイレブンまでは10分程度だ。しかも24時間空いている。夜中の3時にピッツァを食べたくなれば、ここに来ればいい。にせものだが、舌がしびれるほど甘いのを気にしなければ、冬にはパンプキン・スパイス・ラテもある。
 もっとも冬の夜には、そんなものを家まで持ち帰れば凍ってしまうのだが。
 ピッツァで口の中が乾き、私はモカのアイスコーヒーをひと口すすった。思った通りに、甘い。口と喉の奥全部に、砂糖を塗りたくったような甘さが広がり、しみつく。それでも冷たいそれは、きちんと私の喉を潤し、胃の辺りまで冷やしてくれた。
 5分で食べ終わり、もう一度アイスコーヒーを飲んで、私は荷物を手に立ち上がる。
 外の彼女たちはまだ談笑と喫煙中だ。その傍を通りながら、煙草の匂いを、私はちょっとだけ懐かしいと思った。
 暑い日に、アイスコーヒーはたちまちぬるくなる。カバンの上に載せたドーナッツをちょっと気にしながら、私は足早に家へ向かう。
 夕方近いこんな時間に満腹に近くては、夕飯を作るのが面倒になるかもしれない。罪悪感が少しだけ胸の隅をよぎって行ったが、少なくとも胃の痛みは消えている。不健全な買い食いにひとり肩をすくめて、ちょうど青になった信号を見て、横断歩道を渡る。
 ストローが、カップの底を吸い上げて、ずずずと子どもっぽい音を立てた。アパートメントが目の前だ。
 唇の端に、トマトソースの匂いがまだ残っていた。

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7/16

 たとえ小指の先ほどでもそこから動かなければ、何も起こらないままだと知っている。
 物事のうまく進まないことに焦れて、すべて放り出してしまいたくなるが、放り出して後で後悔するのが目に見えているから、何とか投げ出しはせずに、放置もすまいと必死になる。
 10字書いて3字消し、消した分を戻して5字足し、結局全部消して最初からやり直す。100字書くのに1時間も掛かって、挙句使い物にならずにまたすべて消す。
 手書きなら取り消し線と書き込みだらけで、一体何が書いてあるのか判読不能になるところだ。
 ルーズリーフに4Bくらいの芯を使っていた頃は、手も紙面も真っ黒に汚れた。その頃はまだ何とか読める字を書いていたが、今は恐らく自分ですら読めないだろう。すっかりキーボードに慣れてしまい、自分の筆跡もよく思い出せない。
 冬になるとキーボードを使う指がかじかむが、手書きだった頃もそうだったろうか。冷蔵庫よりも寒い部屋にいた頃、吐く息が白いことがあったのを覚えているが、指先の冷たさをどうしていたか覚えていない。
 そうやって現実逃避しながら、目の前の進まない作業に焦れて、今日は結局ここで手を止める。進んではいる。遅々としてだが。
 今日頼りにならなかった自分が、明日頼りになるとも思えないが、明日の自分がきっと何とかしてくれるだろうとさらに現実逃避して、今日の残りは別の作業をしよう。
 紅茶のお代わりのために、私は椅子から立ち上がる。書き掛けのそれに、まだ心を残しながら。

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9月の短文s

影の傾きに夏の終わりを悟る。(9/2)

サンダルの形の日焼けを残して夏が終わる。(9/2)

先の夏に逝った大事な子の思い出に、先々と先の冬の、大切な子たちを失った痛みの記憶が続いてゆく。(9/2)

顔も知らない貴方と、手を繋いで街を歩くことを考える。(9/3)

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