"アイスを買って帰りたくなる季節ほど、帰り道でそのアイスが融ける。" -
zig5z7 | 2016/06/17
"暑くなればアイスが溶ける(直球)" -
x6a7u9 | 2016/06/17
「メシどうする?」
友人が訊く。ゲームがひと段落したのか、指先でまだぱちぱちコントローラーのつまみを弾きながら、僕の腕の下の原稿用紙へちらりと視線を走らせた。
「何か買って来るか。カップラーメンでもいいだろ。」
「何だよ、何にもねえのかよ。」
「おまえが昼に全部食べちゃったんだろ。夕飯のつもりだったんだぞアレ。」
汗に湿って肘にすぐくっつきに掛かる原稿用紙をテーブルにしっかりと押さえつけて、僕は傍らのタオルで腕を拭く。鉛筆の下書きだからまだいいが、ペンが入り始めたら汗でインクがにじまないようにするのにひと苦労だ。
「冷やし中華売ってるかなもう。」
「多分。」
歩いて10分のスーパーへ、肩を並べて出掛ける。夕方は過ぎてまだ明るいが、人通りは少ない。
僕が住んでいるアパートに、寮暮らしの友人(クラスは違うが学年は一緒だ)はたびたびやって来て、週末はゲームで徹夜をして泊まり込んでゆく。僕はどうせマンガの原稿(僕は漫研と文芸部のメンバーなのだ)の締め切りでいつも夜更かしだから、友人が傍でひと晩中ピキピキやっていても邪魔にはならない。
わざわざ僕の部屋にゲーム機を持ち込んで、滅多と見ることのないテレビに繋いで、ゲームに飽きると原稿中の僕にコーヒーを淹れてくれたり、僕の原稿を見てあれこれ言ったり、僕の本棚の本や漫画を読んでけらけら笑っていたり、僕の勝手気ままなひとり暮らしの部屋が気に入っているだけだろうが、僕らはそれを除いても何となく気が合った。
ゲームに夢中になると他のことが目に入らなくなる友人は、原稿の締め切りが近くなると目に血の走る僕とよく似ていたし、そんな友人のゲームを中断させてカップラーメンを一緒にすするのは僕で、僕の原稿を休憩させてコーヒーを差し出してくれるのは友人だった。
スーパーにはもう冷房が入っている。ひんやりとした空気に、僕らはまるで生き返ったように背を伸ばし、友人がカゴを取って、店の中へ進んでゆく。
冷たい麺の類いは見つからない。いなり寿司をふたり分取って、いつものようにインスタントラーメンの棚へ行き、明日の夜までの分をふたり分、自分の分を勝手に好きに選んでカゴに放り込む。
払いは友人だ。でも僕はだからと言ってむやみに高いのを手に取ることはしない。
「菓子パンでも買ってくか?」
カゴの中を眺めて、友人が言う。頭をパンのコーナーへもう巡らせている。
「パンか・・・。」
僕は気の進まない表情を浮かべた。
「どうせ夜に腹減るだろ。」
「そうだけど・・・」
友人はパンのコーナーではない方へとりあえず進み出し、僕はじゃあ何が欲しいかと考えながら後へ続く。
ラーメンといなり寿司の後なら、もうちょっと違う感じの──
「なあ、アイス食うか?」
友人が突然訊く。
「アイス?」
僕が訊き返す。
「アイス。」
「アイス?」
「アイス。」
扇風機しかない僕の部屋で、原稿用紙が汗に湿り、友人のゲームのコントローラーが汗に濡れて、ふたりで代わりばんこに風呂場に水を浴びに行く。その後で食べる、かちんかちんのアイス。
「いいな。」
僕が言った途端、友人は小走りにアイスクリームの入った巨大冷凍庫に駆けて行って、僕のことは振り向きもしないでアイスクリームを選びに掛かる。
「冷凍庫、空いてたよな?」
取り上げて見せたのは、顔の大きさくらいあるアイスクリームの箱だ。バニラにチョコチップの入ってるヤツだ。
「ふたりで食べたらすぐなくなるよ。」
「そうだよな。」
友人は何だかうきうきとそれをカゴに入れ、それから、ふと気づいたように冷凍庫の別の場所へ移り、そこからさらに何か取り出した。
水色の氷菓子。見ただけですっと背筋が涼しくなりそうな、しゃくしゃく口の中が冷たくなる、棒つきのシャーベット。
「帰り道で溶けるよ。」
「食いながら帰ればいいだろ。」
行儀が悪いなあと、僕は苦笑する。でも友人には逆らわない。ひとりでそんなことはしないが、ふたりでなら別にいい。
レジで金を払い(友人が大半を出し、僕が端数を出した)、買い物袋を持って外へ出る。夕飯の袋は僕が持ち、アイスの袋は友人が持った。
ぱりぱりとシャーベッドの包装を取って、友人はそれをきれいにふたつに割る。どちらが大きいと検分もせずに、無造作にひとつを僕に差し出し、僕らは同時にそれに噛みついた。
熱気が足元から這い上がって来る。それは僕らの、今シャーベットの降りて行った腹の辺りで熱を阻まれて、それでもまだじりじりと熱せられたままの空気がシャーベットを溶かし、僕らの手を汚す。
唇の端と舌を真っ青にして、僕らはシャーベットをしゃくしゃくかじる。
もう、アイスの溶けてしまう季節だ。急いで食べないと、それは手首を伝って肘まで垂れて来る。
友人はシャーベットを食べながら忙しく手指も一緒に舐めて、汗の塩辛さにちょっと眉の間を寄せる。
もう夏だ。
駅の向こう側のラーメン屋が冷やし中華を始めるのはいつだろう。あの店は、一緒にソフトクリームも出してくれる。
原稿が無事上がったら、友人と一緒に冷やし中華を食べに行こうと思った。割り勘か僕持ちか、どちらかは原稿の仕上がり次第だ。
僕らの歩く方向に、影がひと月前よりずっと短く伸びて、食べ終わった後の棒を、爪楊枝みたいにくわえている友人の影が、時々僕の影にくっついて、混じってひとつになり掛ける。
最後のひと口を落とし掛けて、僕は慌ててそれを舌の先に受け止めた。溶け垂れた青い雫が肘まで滴って、僕のジーンズにぽつんと染みになった。
しゃくしゃくの最後の舌触りをごくんと飲み込んで、友人の真似をして僕も残った棒をくわえる。
セミはまだ鳴かない。でももう、帰り道にアイスの溶ける夏が始まっていた。
top ▲
"買い物へ出るよう水を向けたのは僕で、アイスに名前を書かずに友人の部屋の冷凍庫に入れておきたくなったのも僕だ。そしておまけのように見つけたシャーベットに、小さく願を掛けて割ると、きれいにふたつになった。
うまく割れても割れなくても、友人の利き手に近い側の手にあるほうを渡すことは買う前から決めていたし、実際そうした。友人は僕がアイスをうまく割れるかどうか気にしていただろうか。どちらを渡すか気にしていただろうか。"
アイスが割れた日 * 6/18
ハンカチでぱたぱたと顔を仰ぎながら、通りすがりの喫茶店へ入る。このまま歩き続けるには暑過ぎる。少し休んで行こうと、素早く交わした目配せでそう言い合った。
彼女はアイスコーヒー、私はコーヒーフロート、メニューを斜めに見て互いに10秒も掛からずに注文は決まり、窓際の席で涼しい風を堪能して、私たちは路上を行き交う人たちを眺める。
路面からかげろうの立ち上る、夏の午後、汗を拭うのにハンカチ1枚では足りず、私はすでに使っていたハンカチをカバンの奥へ押し込んで、新しいのを財布の上辺りへ置いた。
「暑いね。」
「暑いね。」
ちょっと違う調子で言い合って、すぐに出て来た冷たい飲み物に、私たちはさっそく口をつける。
店内にぎっちりと満ちた冷たい空気で、汗まみれの皮膚は冷やされ、氷の浮いたコーヒーで喉の奥と胃が冷やされてゆく。
ようやく人心地ついて、私たちは同時につるつるしたテーブルへ肘をついた。
「飲む?」
彼女が、自分のアイスコーヒーを私の方へ差し出して来る。私は首と背中を伸ばして向こう側へ近寄り、ストローを唇の間に挟んだ。
すでに彼女が触れているそのストローから、私はひと口、ゆっくりと苦いコーヒーを飲む。
「飲む?」
お返しと言う素振りで、私は自分のコーヒーフロートを彼女の方へ滑らし、私がすでにそこに唇を寄せたストローの先に、今度は彼女の唇が触れる。白いストローに薄く茶色が走り上がってゆく先の、彼女の口紅がなくても十分に赤い唇に、私はじっと目を凝らしている。
「あまーい。」
「ブラックは飲めないもん。」
彼女が大袈裟に言うのに肩をそびやかして、彼女の唇の感触が消えないうちにと、私は急いでストローへ指先を伸ばす。
冷たいはずのコーヒーが、そのひと口は何だか熱く感じられて、唇を離した後で私はむやみにストローで氷をつついた。
彼女が、この間見た映画の話を始める。貧しい若者たちが何となく集まって、楽しく苦しく騒がしくバンドをやる話だ。きっと好きだと思うよと、彼女が私に言う。そうだろうねと私が相槌を打つ。
すでに見ていることは言わない。だったら一緒に行こうよと、彼女に言うためだ。私と一緒に、彼女はすでに見ているその映画を、もう一度見てくれるだろうか。
映画の前にお茶をして、映画の後に食事をして、そうして互いの乗り換えの駅で分かれて、私たちが友人同士でないなら立派なデートだけれど、私たちはただの友人で、今も彼女の買い物の付き合いに街に出て来て、私は内心とても浮かれている。
彼女はもう半分以上アイスコーヒーを飲み終わり、私はまだコーヒーに浮いたバニラアイスには手をつけず、良く効いた冷房のせいで、アイスは最後まで形を保っていそうだった。
外から見える私たちは、窓枠で切り取られてふたりきり、小さな水槽に入れられた魚のように見えるだろうか。区切られた世界にふたりだけで、誰も私たちを指差さず、私たちの存在を知りもしない、そんな世界。
溶けないこのアイスと同じように、一途な私の想いは、溶けてもコーヒーにはきちんと混ざらないのと同じに、どこにも行けず、何にもなれず、私の胸の中でただふくらみ続けている。
ずずっとちょっと品のない音を立てて、彼女がアイスコーヒーを飲み終わった。私も慌てて自分のストローへ視線を落とし、まだぼってりと丸い形を崩さないアイスの、わずかに黄みがかった白い輪郭を、なぞってそれが彼女のとても柔らかそうな頬の線に似ていると思う。
「ひと口ちょうだい。」
彼女が言う。柄の長いスプーンをもう取り上げて、アイスのてっぺんを少し削り取る。軽く開いた唇の中に、冷たくて甘い優しい白さが取り込まれて行って、紅い舌がそれを舐めるのが見えた。
アイスになりたいと、私は思った。
彼女の体温で溶けてしまう、冷たいアイス。
彼女が最初のひと口を取ったアイスを、やっと私が食べ始める。
すっかり冷えた体の中を、さらに冷たいアイスが、とろとろに溶けて流れ落ちてゆく。胃の中の闇の中で、跡形もなくなってゆく。
私は、私の恋を食べている。わずかに溶けて、コーヒーの漆黒に近い黒さを穏やかな土の色に変えて、最後のひと口は小さくなった氷と一緒に口の中に放り込んで、がりがりとかじって、飲み込んだ。
空になったグラスをふたつ、テーブルに残して私たちは店を出る。夏の陽射しの中に再び足を踏み出して、並ぶ影も肩も決して触れ合わない近さで、一緒に歩いてゆく。
信号待ちに立ち止まった間、彼女の手の影に、私は自分の指先の影を触れさせた。彼女は知らない。夏の路上で起きた、私だけの秘密。
top ▲
"じゃあ、もらってくださいよ、とはまだ言えない。言った方がいいのかどうかもまだわからない。
私は黙ったまま夏の午後の窓枠を横目に、澄んだ闇と憂いを静かに混ぜ、不透明に明るい幕で覆う。バーだったら振ってしまうのだろうか。それともこれ以上触れないままの方がいいのだろうか。"
土を食み、たゆたう者 * 6/19
"でも、彼女も彼女も、そして多分彼女も、フレームの中だけの存在でないことが俺にはわかるし、少なくとも彼女は自分の恋を食べて生きていることもわかった。今はそれでいいと思えるようになったのも、きっと彼女のおかげなんだろう。"
俺と彼女と彼女の恋。
ただいまと言いながら、かかとをすり合わせて靴を脱ぎ、私は部屋の中へ入りながら大きくため息をついた。
人混みを肩を縮めて歩いて来て、自分の部屋にたどり着いて、薄暗いちょっと淀んだ空気の中の静けさに、私は全身の力を抜く。
「ただいま。」
今度はもうちょっと声を張る。ネクタイをゆるめて、荷物を適当に置いて、着替える前に床に坐り、そこだけ薄青く発光する小さな水槽の中で、私を正面から見ている小さな金魚へ向かって精一杯の笑みを浮かべる。
疲れが一挙に全身に押し寄せ、それでもひらひらと薄いひれをなびかせて私を見つめる金魚の、鮮やかな緋色から少しずつ金色に寄ってゆく鱗の連なりを見つめているうち、この部屋の外で今日も起きたことすべて、私の背中から次第に遠ざかってゆく。
「やあ。」
金魚に向かって、私はひらひらと手を振った。
顔の両側に飛び出した目、丸く開いた、ぱくぱく水中の空気を求める口、私たちの思う表情と言うものは特になく、それでも泳ぎ方や口の開き方やひれのなびき方で、金魚は確かな喜怒哀楽を伝えて来る。
触れるためには水の中に手を入れる必要があり、水の中以外で金魚は存在することはできず、この、せいぜいひと抱えほどのガラスの水槽の中で、わずかに置かれた水草の間をくぐるようにして1日過ごし、仕事に疲れて帰って来る私のどす黒い顔を眺めて、それが金魚のすべてだった。
そして金魚が、私のすべてだった。
水槽のガラスへ掌を軽く押しつける。指の付け根の、かすかに盛り上がった辺りへ、金魚が口を近づけて来る。水とガラスと空気に隔てられた、金魚と私の関係。金魚とふたりきりでいられたらいいのにと、私はもう長い間考え続けていることをまた考えている。
丸い張り切った腹、輝く鱗、どこまでも繊細に華麗なひれ、黒々と濡れた瞳、私だけが見ることのできる、金魚の姿。
私が与える餌と、私が与えるきれいな水と、私が与えたこのガラスの壁に区切られた小さな世界と、金魚はそれしか知らない。見つめる私の視線を受け止め、それを拒みはせず、この世界はこういうものなのだと、あるとも知れない脳みそで考えて、金魚は見つめる私を見つめ返して来る。
私は金魚を、たまらなくいとおしいと思った。
遅くなった昼休みに、何を食べようかと考えながら歩いていて、ふと視線に入った喫茶店の窓の中に、カウンターに向かい合う人たちの姿が見えた。半分だけ見える顔(男だった)とこちらに向いたちょっと丸い背中(女と知れた)。
一瞬顔の位置をずらし損ねて、ふたりの間の距離をうっかり測ってから、ようやく私は視線を外してまた歩き出す。
通り過ぎる交差点で、止まっていた車の中にいたふたり。腕の位置で、助手席の女が運転席の男に触れているのが分かった。
どちらのふたりも、窓の枠に切り取られて、水槽で仲良く一緒に泳ぐ魚のように見えた。
あれらのふたりは何にも隔てられてはいず、同じ世界に一緒にいる。同じ空気を吸い、互いの吐いた二酸化炭素を取り込み、吐き出しては吸い、一緒にいる。
金魚と私は、そのようなふたりにはなれない。ひとりと1匹。ふたりにはなれない。
この水の中に頭を突っ込んで、溺死することはできるだろうか。私の吐いた二酸化炭素を、金魚が吸う。そして吐く。金魚の吐いたそれを、死ぬ寸前の私が吸う。吸い込んだまま、死ぬ。そうして私たちは、かすかでも何かひとつのものを互いの肺の中に共有する。
けれど私が死んでしまっては、金魚は餌と水をもらえず、丸い腹を水面に浮かべて、まもなく死んでしまうだろう。私が求めているのはそんなことではない。
こうして隔てられていても、生きて行くしかない。私が金魚を生かすために。金魚が私を生かすために。
「腹が減ったろう。」
立ち上がるために、私は自分の膝を軽く押した。
指先につまむ、土くれのような金魚の餌。水の中に落とし込むと、金魚は舞うように水の中をくるくる泳ぎ始める。
すぐに終わる簡素な晩餐の後で、金魚がそれを眺めている私を見上げて、ぱくぱく口を閉じたり開いたりした。
ありがとう。そう言っているように思えて、私は思わず笑みを浮かべる。
こちらにいる私と、そちらにいる金魚。ひとりと1匹。ふたりにも2匹にもなれない、ひとりと1匹。
せめて、魚になる夢でも見たいと思いながら、私はようやく天井の照明へ向かって腕を伸ばす。
top ▲
戻る