放課後の学校の長い廊下に一人、長い影が伸び
る。
朱色の西日が差し込んで、廊下を窓枠の形に区切ったまま照らしている。 承太郎は斑模様の床を踏みしめながら、誰も居ない廊下を殊更ゆっくりと歩いた。
冬の、乾いた空気は今は少しだけ湿り気を含んで、傾いた日差しを柔らかく受け止めている。
――― 午後5時10分
真冬よりは日は伸びて、暗闇に包まれるにはまだ早い空は、東の地平は藍色に、
見上げる空の赤との狭間に漂う薄紅を差した雲を、追いかけるように薄紫へと変えている。 承太郎は遥か彼方、燃えるような赤に染まる、
その肉眼でも、彼の持つスタンドですら見定めることの出来ない程遠く、 今は過去となった地へと視線を向ける。 あの、エジプトの惨事から一月。
旅は終わり、時は過ぎて、今、彼の居るのは最果ての、水に囲まれた東の地だ。
あの焼けるような日差しの、何もかもを奪うほど乾いた風に頬を殴られた、砂の大地はない。 窓から見える景色はビルが聳え、太陽を背に皆朱色に染まり、
しんと静まり返ったグラウンドには、誰も居ない。
――― 午後5時12分
承太郎は赤に染まる街並から逃げるように目を逸らすと、目深に被った帽子の影に、視線を移す。
俯いたまま角を曲がれば、連なる教室の窓から差し込む西日が、彼の頬を照らす。
廊下に響く靴音は、まるで時を刻む時計の音のように、規則正しく鳴り響いている。 彼は美術室の前までたどり着くと、伸ばした手を扉の取っ手にかけて、
その戸を開かないままに、自らの手を見詰めた。 傷だらけだった手は今は跡だけが残り、ささくれ立っていた指先も、
今は綺麗に、短く切りそろえられた爪を晒している。 扉の窓から差し込む西日は教室の中を伺わせず、ただ朱色の光だけが、彼の頬を染めている。
小さく飲み込んだ息のその意味を、 取っ手に触れた手を一度強く握ることでやり過ごして、彼は教室の扉を開けた。
――― 午後5時15分
眼前に飛び込んできた一面の光の、目も眩む赤に、思わず瞼を閉じる。
強い絵の具の匂いが彼の鼻腔を刺激し、顰めた眉の下でゆっくりと開いた瞳に映るのは、 壁一面に並ぶ石膏の、朱色に染まる様でも、
教室の隅に立てかけられた巨大な風景画の、西日に赤く燃える様でも、 机に置き忘れた画材の、種火となって乱雑に散らばる様でもなく。
窓際にキャンパスを前にして承太郎から顔を背けたまま、沈もうとする夕日を見詰める花京院の姿だった。
彼は教室の扉を開けた音にも振り向かず、一心に窓一面に映る風景を見詰めている。
傾いた太陽は教室を一つの色に染めて、彼の髪も、顔を背けて露になる首筋も、 制服も、長く伸びる影すら、朱色に変えている。
伸びた影の先が、日が傾くにつれて少しずつ伸びていく様は、 まるで赤く染まった水が静かに広がるように感じられ、
承太郎は思わず爪先に掛かる机の影から退いて、踵を床にこすり付けた。 「花京院。」
掛ける声の大きさに、自分でも戸惑いつつ承太郎が花京院の名前を呼ぶが、彼が答えることはない。
西日を浴びて承太郎に影を晒す彼の身体は、光と影の対照によって細く映り、 何時もよりも頼りなく見える姿に、承太郎は乱暴に足音を立てて近付く。
開いた窓に半分だけ掛かるカーテンが僅かにはためいて、キャンパスにゆらゆらと影を照らし、 近付くにつれ其処には何も描かれていない事に気付く。
直ぐ間近まで近付いていたにも関わらず、一向に振り返らず、 どころか身じろぎの一つすらしない花京院に、承太郎の眉は知らず顰められていく。
―――まるで、中身の無い、人形のような。 部屋に並ぶ数多の石膏像のように。壁に立てかけられた、魂の無い人物画のように。
眼前に佇む花京院までもが、この部屋の風景の一つにすぎないのだと、 西日の赤に染まり、やがて闇に紛れ消えていくのだと、
そんな錯覚を、一瞬でも思い起こしてしまったことに、承太郎は内心慄きながら、 噤んだ唇の奥を噛み締める。
「おい、花京院。」
自分の、身震いする感慨を振り払うかのようにわざとらしく粗野に名前を呼ぶ。
それでも答えずに居る花京院へ、触れる事を一瞬躊躇おうとする自分の手に殊更力を込めて、 背けたままの彼の肩を、乱暴に掴んだ。
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抵抗らしい抵抗を、微塵も見せる事無く花京院
の身体は勢いづいた承太郎の腕に従い、夕日を背負いながら振り向いた。
承太郎に走った微かな戦慄を感じ取れただろうか、見上げてくる瞳はすり硝子の様に無機質で艶がない。
承太郎の姿を認めているのかそうでないのか、こんなに近くに居るのに何も解らない。
まるでスローモーションの様なゆっくりとした瞬きをするまで花京院はまさに「人形」と化していた
「―…ああ、承太郎か」
壊れたレコードの様にたどたどしい旋律は悲しげに針を鳴らして、震えた。
「ああ、じゃねえ」
「気が付いていたよ、ごめん。無視していたわけじゃないんだ」
ギギギ、と螺子を軋ませる動きで、花京院は承太郎にまた背中を向け、もう一度小さな声で
「ごめん」
と呟いた。
何も声をかけることの出来なくなってしまった承太郎は、かといってもう一度無理矢理振り向かせる事も出来なくなっていた。
燃えるように照らされているのに彼はとても冷たい。
「この時間、太陽が真っ赤になるだろ」
聞こえてる、聞こえる。お前の話をじっと聞いている俺。夕日が目に刺さる不快感などなにも気にならない。
「僕のこの皮膚の下も、あれと同じに真っ赤なんだ」
「…ああ」
「―…こうでもしていないと、僕は、自分の温度を、実感する事が出来ない」
夕焼けに染まる空が戦慄におののいたあの日から、きっと僕の時間は止まってしまっているんだ。
「おかしいかい?僕だって、変だと、思う。あの恐怖や痛みを、忘れたいのにね。曖昧なままだとこんなに…」
それ以上の言葉は紡がれない。
承太郎の視線は、思ったよりも小さく頼りない背中で迷うように動いていた。
横顔すらろくに見せない花京院に焦れて、その花京院に、今は掛ける言葉をうまく探せない自分に焦れて、承太郎は、花京院の肩にまた手を伸ばした。こっち
を向けと、唇の形を作りながら、その肩に大きな掌を乗せるよりも一瞬早く、花京院が動く。
ゆらりと、崩れ落ちるように思った背中は、ただもっと近く窓へ寄っただけだった。
窓の下に、ぐるりと渡る、生徒たちのために小さく仕切られた棚の上に、花京院が斜めに腰掛けて、けれどまだ承太郎をまっすぐには見ない。
窓に背を向けながら、けれど夕日の方へ顔を向けて、真っ赤に染まる花京院の表情が、承太郎にはよく見えず、どこを見ているのかもわからなかった。
承太郎は、花京院へ伸ばしかけて空回った手を、ごまかすようにズボンのポケットに入れ、ぼそりとつぶやいた。
「何見てやがる。」
今視線の先にあるものを、訊いたわけではなかった。
どこか、もっと遠くを見つめている花京院の、承太郎には見えないその視線の先の風景を、承太郎は知りたかった。
夕日が禍々しいほど赤く、その赤さが、承太郎に、決して思い出したくはない、花京院が流した血の色を、無理矢理に思い出させる。
花京院は相変わらず何も言わず、ただ夕日---けれど何か、別のもの---に見入っていた。
承太郎も黙って、花京院の瞳を見つめている。
「別に。夕日―――を…。」
ぼんやりと、視線を赤く染まる日没に流しながら、囁くように答えた花京院は、承太郎の険しくなる視線に気付いていないのか、酷く穏やかな顔を浮かべる。
笑顔、とまではいかないまでも、細めた視線は遥か遠く、今は記憶の中でしか辿れない、彼の地を臨むように、懐かしささえ漂わせて沈黙する彼に、承太郎は
唇を噛み締める。
赤く染まる教室は、承太郎の身体までも深紅に染め、長く伸びる机の影が、花京院の頼りなくもたれかかる影を貫いている。
振り返れば見えるだろう、おびただしい赤に染まる教室の壁に貼り付けられた花京院の姿と、それを貫く尖塔を、けれど承太郎は意識しながらあえて振り向か
ずにいた。
―――やめろ。
誰に対してか、曖昧なままに、動くことの出来ずに居る自分に苛立つ。
何時までも承太郎に視線を合わせず、俯いたまま夕日を臨む花京院の横顔は、壁に並んだ石膏像のように白く、それゆえに夕日の赤が映えて見える。
見守る承太郎も、花京院の横顔に釘付けになりながら、声を掛けることもできずに、言いようのない焦りに胸を燻らせて、動けずにいる。
ゆるやかに上下する胸元は、花京院の呼吸を示しているのに、時折瞬きする度に長い睫の影を落とす頬は、彼の動いている証を示しているのに、彼を教室で認
めてから纏わり着く、不安に、承太郎はポケットに突っ込んだままの拳を握り締めた。
―――何時までも。
会話を紡ごうとせず、どころか承太郎を置き去りにして、夕日に視線をやったままの花京院に、胸の内で吐き捨てるように呟くが、開いた唇は乾いた息を吐き
出すだけで、何も声を発しない。
―――そんな、ものを。
取り残される、過去に味わった、形容し難い感情までもが、あの日に目に焼きついた情景と共に思い出されそうになり、承太郎は目を細めて、夕日を睨みつけ
る。
近くにいるはずなのに、温もりを感じない花京院に、わざと足音を立てて近付けば、花京院は視線だけを向けて、承太郎の爪先を認める。
その、一瞬でも、夕日から花京院の視線を逸らした事に、安堵しながら、承太郎は掠れた声で花京院の名前を呼んだ。
これが自分の声かと思うほど、それは酷く醜い反響だった。
「―…何?」
その声は耳に届いてはいない。
真っ赤な夕日に溺れそうになる花京院に引きずられ、承太郎もまた刹那、心のありどころを見失ってしまう。
この焦燥感、一体何なんだと思っても、 見上げる花京院の茶色の瞳を確認しても頭の中で遠く、耳障りな警鐘が響き渡る。
『おい花京院!!おい!聞こえるか、見えるか。俺が解るか』
『目開けろ、まだ、まだ―…!!』
『花京院!!!』
ふらふらと揺れる地面、身体に刺さる夕陽が痛いだなんて初めて感じた。
ぎり、と無意識に歯を喰いしばり眉間に皺を寄せた承太郎を、心配なのかそうでないのか花京院はただ黙って見上げるのみだ。
ああ、こんな痛みを俺は知らない。
気が付いている筈の気持ちに刺さる鋭利なナイフを抜き去るだけの勇気が今の俺にはあるのだろうか。
花京院は温度を実感できないと言う。
痛みでしかそれが解らなくなった彼を一体どうしたらいいのか。そんなおこがましい、そんな事、承太郎は握った拳を一層強く握り締めた。
「承太郎、手を、怪我してしまうよ」
一瞬だけ揺れた瞳の色は真っ赤な湖に似て。
「いつから」
「え?」
「お前は、いつから、そうやって空を見てやがる…!」
乱暴に掴みかかりそうになる衝動を、なんと呼べばいいのか、もう彼には解っているのに。
「いつからって」
語尾が細く消えた。かすかにこぼした笑いにまぎれて、今揺れ動いている承太郎の胸の内など、微塵もかぎ取ってはいない様子で、花京院の口元に、その笑み
は張りついたままだ。
焼き殺しそうな視線で、視界の中に収めた花京院の姿が、ふっと小さくなる。向こうが透けてしまったように思えて、承太郎は目を細めた。
「どうかしたのか承太郎。」
微笑んだまま、訝しげに、花京院が訊いた。
ここは日本で、承太郎たちの通う学校で、花京院がよくいる教室で、今は放課後で、そして夕方だ。
カバンを手に帰れば、そこには自分たちの家があり、そして、暖かな食事と暖かな布団がある。風呂に入れるかどうか、そんな心配はしなくてもいい、敵が
襲って来るかもと、誰かを見張りに立てることもない、そんな平凡な日々に、ふたりは揃って帰って来たはずなのに、今花京院の瞳の中に、あそこで見た砂漠の
風景が映っているような気がして、承太郎はまた、射殺しそうに花京院を見つめた。
制服の下に、まだきちんとは見たことのないひどい傷があるのだと、承太郎は知っている。花京院は、そのことには一切触れないけれど、その傷の原因になっ
たことに、まだこんなにも囚われたままでいるのだと、なぜ今承太郎に見せるのか。
そこから、花京院を連れ戻したと思ったのに。あのことはもう、すっかり過去のことになっていると思っていたのに。
承太郎は、軽く首を振って、それから床に視線を落とした。花京院を見つめ続けていたら、今にも殴ってしまいそうに思えたので。
花京院の影が、黒々と床を這っているのが見えた。その影が、夕日の赤さと同じほど禍々しく見えて、承太郎は、まるで踏みつけるように爪先を伸ばし、その
中へ、すっぽりと自分の体を収めた。
そうしてまた、ひどく力を入れてあごの位置を元に戻すと、自分を見上げる花京院に視線を戻し、掛ける言葉を探す。
「おれが見えるか、花京院。」
花京院の影の中から、承太郎が訊く。訊かれて、花京院が、突然頬でも打たれたように、あごを胸元に引きつけた。
「何を言ってるんだ承太郎。」
当たり前じゃないか。承太郎を見たままで、花京院が言う。
「どうしたんだ一体。」
ようやく、様子がおかしいと思ったのか、花京院が棚から腰を浮かせて、半歩承太郎のそばへ寄って来た。
床の影が動く。承太郎はそこから動かない。
目の前に近づいた花京院へ、承太郎は、素早く腕を伸ばした。
腕を掴んで引き寄せれば、花京院の身体がぐらりと傾く。承太郎は引き寄せた彼の身体を、夕日から遮って受け止めると、覆い被さるように抱きしめる。
初めて腕に抱いたその身体は、先ほど散々不安定に見えていたにも関わらず、意外に逞しく、承太郎は息を詰めて胸の中に閉じこもる花京院を殊更強く抱きし
めて強く目を瞑った。
温かな息遣いが、開いた学生服の中の、承太郎のシャツに掛かる。
強張った身体は夕日の赤から逃れて、本来の濃い緑の学生服の色を取り戻している。
ゆるやかに上下する胸元や、頬に掛かる、柔らかな髪に、酷く安堵しながら、深く、息を吐き出すと、それまで承太郎の腕の中で大人しく収まっていた花京院
が、もぞりと身体を動かして、くぐもった声で承太郎を呼んだ。
「承太郎…。」
心臓の鼓動の早さなど、お互い知る余裕もなく、戸惑った声の花京院に、少しだけ抱いた腕の力を緩める。
「承太郎。」
おずおずと、顔をあげる花京院の、間近で見た瞳に、酷く傷付いた顔をした自分を見つけ、承太郎は抗うように顔を顰める。
「…お前は。」
重ねた胸はそのままに、唸るように呟くと、花京院は少しだけ眉を寄せて、承太郎を見上げてくる。
僅かに揺れる瞳は潤んで、切れ長のそれを縦に刻む傷跡に、承太郎が一瞬瞼を伏せれば、花京院は続く承太郎の声を探して、小さく息を飲み込む。
「お前は、此処にいる。」
痛々しく刻まれた傷跡は、もう新たな皮膚に包まれて、やがて目立たなくなり、そして消えていくだろう。だが今は、承太郎にはその傷は生々しく目に映り、
掠れた自分の声に、眉を顰めながら、自らに言い聞かせるように『此処に』と繰り返した。
「此処に、いるんだ。」
「……其れは―――。」
戸惑いと、気遣いに揺れる花京院の瞳が、一瞬承太郎の唇に下がり、再び見上げてくる。
やっと重なった瞳の、緊張をはらんで絡まる視線に、承太郎は追い立てられるように言葉を重ねる。
「お前は、此処にいて、俺の前にいる。」
「承―――。」
「此処は日本で、教室で、お前は――――お前は、帰ってきたんだ。」
自らの声に捲くし立てられるように、短い息を次ぐ承太郎に、花京院は戸惑いの表情を隠せず、僅かに左右に瞳を揺らす。
腕に抱いているのに、その存在をはっきりと感じるのに。
それすら、次の瞬間には、すり抜けて消えてしまうのではないかと思う、今だ燻り続ける感慨に抗うように、承太郎は花京院に捲くし立てながら、抱きしめて
いた手で、花京院の両頬を包んだ。
あ、冷たいな。と思った。
しかし同時に暖かいな、とも感じた。
夕陽から庇うように身体を抱きすくめられ、身動きが取れない。戸惑う花京院の耳の奥に微かに承太郎の心臓の音が聞こえてくる。
どこから伝わるのだろう、この安堵するリズムは。
とくん
とくん
とくん
息をしている。
鼓動を刻んでいる。
夕陽からの「イタミ」も全て今この広く逞しい背中が受け止めてくれている。
あの砂埃の酷い町で知らない路地裏で、異国の空の下で、知らず目でいつもいつも追っていた彼の大きな、揺ぎ無い背中を鮮明に思い出した。
脳内にフィルムを焼き付けたように二度とは離れてくれない強烈な存在と色彩は花京院の目を駄目にしそうな程に眩しかった。
思慕から、あの感情は何に変わったのか、ずっと理解できないまま彼は苦しむ時があったなんて、誰に言えるのか。
太陽の刃物を受けた背中はきっと血を流して真っ赤になってしまっている。
『帰ってきたんだ』
リフレインする。
それ以上痛がらないで、僕の代わりに血を流すのは止めてくれ。承太郎、君はどうしてどうしてそんなに
「…優しいんだい…?」
碧の瞳は枯れる事無く揺れていて、動揺とそれ以上の苦しみをこちらに伝えてくる。
どくん
波打つ心臓の音はすでにどちらのものかわからない。
「……恐いよ」
大きすぎる想いに翻弄されるのはこんなにも恐くてたまらない、微かに背伸びをしてその口唇に近づこうとする行為はもう、止める事ができない。
堰を切った様に溢れる苦しみもその掌で受け止めてやると、聞こえた気がして。
そっと、口唇を重ねた。
やわらかなぬくもりに、一瞬目を閉じた後で、何が起こったのかを自分で悟って、花京院は弾かれたように体を離した。
承太郎の、濃い深緑の瞳が見開かれて、花京院を凝視している。
何をした。
自分に訊いて、訊きながら、さっき伸ばしていた爪先に痛みを感じて、花京院は思わず唇を歪めた。
怒りではない。承太郎から感じるのは、少なくとも怒りではない。
戸惑いか、嫌悪か、あるいはただ、怪訝そうに、どうしたと目顔で尋いているだけなのか、承太郎の表情を読みきれずに、花京院はいっそううろたえて、思わ
ず掴んでいた承太郎の上着の袖を、さらに強く握りしめる。
この場から逃げ出したい。でなければ、いっそ消えてしまいたい。
承太郎は花京院を振り払うこともせず、ただじっと、花京院を見つめたままだ。
花京院は、知らずに小さく頭を振っていた。
「違うんだ、承太郎。違うんだ。」
何を言おうとしているのか、自分でもよくわからずに、叫ぶように花京院は言う。そうしながら、承太郎を離すことはしない手が、何よりも雄弁に自分の心の
内を語っているのだと、今は気づく余裕すらない。
触れたかったのだと、そうやって、いつだって承太郎に触れたいと思っていたのだと、隠し続けようと思っていたのに。隠し続けられると、そう思っていたの
に。
命にあふれた、揺るぎない背中を見つめて、いつだってその背を抱きしめたいと、そう思っていた。それを恋だと、旅の間に名づけることができず、死にかけ
たその時に見た承太郎の、なりふりかまわない涙を浮かべた瞳に、 ようやく気がついた、花京院ひとりの想いだった。
夕日の赤さに、自分の流した血と、その血に染まった承太郎を、思い出していたせいだ。
あの、恋の自覚の瞬間に、心が引き戻されていたせいだ。
生きて、暖かい体で承太郎に触れ、その承太郎の体は、さらに温かいのだと、知れるはずもなかったのに。
なぜ、と花京院は思う。
なぜ、ひっそりと自分だけの想いに、しておけなかったのか。そんなに、自分は弱い人間だったのか。
知れて、嫌悪の表情を浮かべられるくらいなら、ひとり耐える方がましだと、何度も何度も、眠れない夜に考えたことだったのに。
違う、と、また叫ぶように言った花京院の必死の表情に、承太郎の瞳が揺れる。
そこへ浮かんでくる表情に、花京院は、遠くなる心臓の音を数えながら、目を凝らした。
強張る自らの身体を抱きしめて、できれば承太郎の前から姿を消してしまいたいと思いながら、握った承太郎の上着は皺を作って、花京院は顔を逸らせずにい
る。
彼の深緑の瞳の奥で歪に見詰め返す自身の顔が、見る間に潤んでいく。
知らず戦慄く唇に、搾り出すようにして承太郎の名前を呼んだことに気付かないまま、花京院は承太郎の顔が、驚愕から嫌悪へ、又は軽蔑へと塗り替えられる
のに
恐れつつ、それでも、初めて間近で見詰めた顔を、見届けたいという思いに抗えずにいる。
爪を立てた指先が、白く変色しても。
竦んだ爪先が、靴の奥で軋んでも。
動けずに、もう一度爪先に少しでも力を込めれば、首を伸ばせば届く、彼の顔を、瞳を見つめ続けた。
咄嗟に花京院の両腕を掴んだ承太郎の手が、ぎり、と花京院を締め付ける。
軋む新たな痛みに花京院は再び我に返り、絶望したように首を振ると、きつく目を瞑って一歩、仰け反った。
「すまな……僕―――。」
これ以上。
これ以上醜態を晒すことはできない。
まして、友人だと、仲間だと信じて疑わない相手を、裏切ったのだ。
差し込む夕日に目を凝らして、承太郎から目を逸らす振りをしたのも、彼を曖昧な笑みで退けたのも全て。
世界を包む赤に、思い出した感情を胸の奥に押さえ込もうとしたからなのだ。
近付いてきた彼に、息を顰めて気取られまいと、この想いを知られまいとしたからなのだ。
それを。
それを、一時の感傷、衝動に任せ、初めて触れた、肌の温もりに揺さぶられ、いとも容易く崩れ去ったのだと、二度と元に戻せない崩壊を
自ら招いたのだと、これ以上。
これ以上彼を裏切ることはできないと、握り締めてくる腕を振り払い、もがき逃げようとした瞬間。
「花京院。」
ひどく、ゆっくりと呼ばれ、花京院は動きを止めた。
振り上げかけた腕はそのままに、顔を逸らして俯いた視線で、承太郎の爪先を睨みつけて。
不規則に乱れる息が、肩を揺らし、何度も目を瞬かせ。
再び引き寄せられる、強さに顔を見上げる間もなく。
承太郎の胸にぶつかった身体が、疼くほどに強く抱きしめられて、息衝きをしようと開いた唇に。
彼の唇が覆い被さった。
あたたかい。
あたたかい。
初めて自分の意思で口付けた瞬間思ったことは、至極単純な事でしかなかった。
ちがうんだ、承太郎、ちがうんだ。
必死に訴える花京院の姿は腕に抱き締めた感触とはひどく遠いところにある様な感触だった。
傷ついた表情、困惑した彼の感情が濁流の様に触れ合った箇所と言う箇所から塞き止められる事無く流れ込んでくる。
それを必死で止めようとする痛々しい姿をもう、見ている事など出来なかった。
いつもいつも、見ている視線がぶつからなかったのは、花京院の一歩下がる性格に上手く隠されていただけ。
それももう言い訳かと思う。
彼の視線を背中で受けるたびに、承太郎は熱く、燃え上がるような情熱を無意識に感じていた。だから、闘えたんだ。
伝える事無く彼は一度この世界を手放してしまった。
繋ぎとめたのは俺じゃないか。
鎖で縛ったのは俺じゃないのか。
負い目を感じてないといえば嘘になる。
もしかしたら、花京院はあのまま生命を手放す事を望んでいたのかもしれないと、この世界に再び降り立つ彼の消えそうな独特の雰囲気に、猜疑心が芽生え、
対人関係に不器用な承太郎はどうしていいか解らなくなっていた。
「恋」と呼ぶには粗野で、自分勝手な想いだと封印して――きた筈だったのに。
触れてしまった、触れられてしまった内臓はいとも容易くその鍵を砕いた。
破片が散らばり、お互いの心に傷を負ってもいいと、口唇を受け止める花京院はそれだけで充分過ぎるほど承太郎の気持ちに応えている。
ただ触れ合うだけのキスは、ゆっくりと、そしておそるおそる開かれた花京院の口唇に深く、与えるものに変わる。
乱暴に抱きしめそうになるのを押さえても、押さえきれない。
カーテンの辺りまですこしずつ口付けをしながら後退してしまったふたりの身体はその厚手の生地に受け止められながらどんどん境界線を失っていく。
カーテンの金具が悲鳴を上げた所で、承太郎は儀式の様に口唇を解放した。
「―…花京院」
また、掠れた不恰好な声。
承太郎の胸元に耳を当てたままの花京院の表情はここからでは窺い知る事も出来なかったが、ひく、と震える肩に、
もしかしたら泣いているのかもと、思った。
濡れた舌先が触れ合っていたことが信じられずに、それをしたことも、許したことも、信じられないふたりだった。
抱き合う腕をゆるめずに、それが一体正しい姿勢なのかどうもわからずに、不器用に、ただ互いを離したくなくて、たった今起こったことが、ほんとうなのだ
と、確かめたくて、ふたりはしばらく無言のままでいた。
ふっと、ゆるく、花京院が承太郎の胸に額をこすりつける。その花京院のうなじに、承太郎は自分の手を添えた。
君は、と承太郎の胸の中でつぶやく。
「・・・バカだな。」
花京院のやわらかな髪の中に指を差し入れて、けれど乱暴さはなく、かきまぜる承太郎が、苦笑で応えた。
「・・・てめーもな。」
まるで、互いを絞め殺すように巻いていた腕が、わずかにゆるむ。ふふっと、花京院は声に出して笑った。
首から、背中へ承太郎の掌が滑る。両手が腰に回り、承太郎の、長い腕の輪の中で、花京院は体の力を抜いた。
首とあごを伸ばし、承太郎の肩口に、そっとこめかみの辺りを乗せる。そうしたのは、死に掛けたあの時以来だ。花京院はそこで息を吐いて、ゆっくりと目を
閉じた。
「僕は、またいつか、死ぬかもしれないんだぞ、あんな風に。」
ずっと思っていたことが、素直に口をついて出た。また、ああなることを恐れている。突然、承太郎から引き離されてしまうことを、花京院は恐れている。
さよならさえ言う時間のなかった、あの一瞬のことを、花京院は絶対に忘れないだろう。
承太郎を、悲しませたくなかった。あんな承太郎の泣き顔を、もう見たくはなかった。自分が、承太郎にあんな表情をさせることができると、知りたくもな
かった。
花京院は、承太郎を抱いた腕に、力を込めた。
応えるように、承太郎が、もっと強く花京院を抱きしめる。また髪を撫でて、耳の近くで、呼吸の音がした。
「・・・死なせねえ。おれが、てめーを死なせねえ。てめーはもう、絶対どこにも行かねえ。」
そうだろう、花京院。
ささやくような声が、ひどく甘く聞こえた。
君は、と言いかけてその後に、何を言えばいいのかわからなくて、花京院は、また目を閉じた。
承太郎の胸に顔を埋めて、額をこすりつけて、今は誰も死にかけてはいないし、泣きわめいてもいないことに、心の底から安堵する。
血はない。どこからも流れていない。
夕日はいつの間にか消えて、部屋は薄闇に包まれている。
その中でふたりが、ただ黒々としたひとつの影になって、揺れるようにただよっているだけだ。
春の前の冷えた空気も、闇に包まれた教室の静かな音も、抱きしめあった二人の温もりと鼓動が掻き消していく。
俯いたままの花京院が、喉の奥で小さく笑えば、花京院の髪に顔を埋めて、柔らかな感触を味わっていた承太郎も、僅かに笑みを浮かべる。
そのままゆっくりと顔を挙げて見詰め合えば、そこには戸惑いも不安もなく、ただ穏やかに笑う互いの顔が、薄闇の中でもはっきりと分かり、
それが二人の顔を近づけている所為なのだと、気付く前に、そっと目を閉じる。
再び重なった唇の、すこしだけかさついた感触。
頬に触れる僅かな息遣いの温もり。
柔らかな皮膚を、そっと擦り合わせる、それだけで、先ほどの互いの気持ちを結びつけるように、深く絡めあった口付けよりももっと、
お互いが近付いた気がしながら、笑みに緩む頬を鼻先で擦り合う。
そうして、長く感じた、あるいは刹那の口付けに、そっと互いを解放すると、もう闇で半分は見えなくなった互いの顔を、もっと見詰め合いたいという
衝動に駆られる寸前に。
パシン。と
部屋の軋む音が響いて、二人は弾かれたように身体を離して教室のドアに目をやった。
誰も居ない廊下からは、足音一つ、気配の僅かですら感じない。
惚けたように揃ってドアを見やりながら、身体だけは離れた癖に、去り際に重ねた手が、しっかりと指を絡めていたことに、同時に俯いて確認して。
お互い上目遣いのまま目を見合わせて、肩を震わせて笑った。
夕闇はもう、二人の身体を赤く染めるのをやめ、藍色の中に星を瞬かせている。
閉じたカーテンの、僅かにはためくのを、二人は肩を竦めて寒さの所為にして、繋いだ手で腕を絡めあう。
開いた窓を閉じる花京院が鍵をしめるのを見守って、承太郎が腕を引くと、
花京院は酷く穏やかな笑みで、引かれるままに承太郎に近付いて、指先を包んでくる手を握り返した。
誰も居なくなった教室には
何も描かれないままのキャンパスと、放り投げられた絵の具が置かれている。
ひっそりと静まり返った部屋には闇が降り注ぎ。
目を焼き尽くすほどの赤は、もうない。
2008/8/30−8/31
ログ入り口 文
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