夕闇の迫る放課後、クラスメイトの少年が手渡してくれたものは「ローマの休日」と明記された1本のビデオテープだった。
「花が最後」
「はぁ」
あの戦いから奇跡的に生還した花京院はそのまま承太郎と同じ学校に通うことになり、転校初日から学校一の不良と仲良く下校する姿をクラスメイトに見られ、それ以降は同級生どころか上級生にも一目置かれる存在へとなり得た。
顔立ちが良かったためか、そんな姿を目撃されずとも、すぐに興味津々の女の子たちに囲まれもしたのだがやはり承太郎の存在は大きかったようで、女子ならず事あるごとに男子までも花京院を構ってくる。
花京院といえば親友と呼べる人間が一人でもいれば良いほうだから、あだ名をつけられて親しげに呼ばれても、今ひとつぴんとこない。
それは過去、友人を作ろうとしなかった一種のポリシーに似て、頑固な部分もあるのだが、人付き合いについては大分良くなったかと思う。
少なくとも親が担任に呼び出されることも無くなった。親の心配が減ったのは有難い。
友人を作ろうとしない程度の事で親を呼び出す教師もナンセンスだと思うのだが。
花京院にとって、承太郎一人がいれば学校生活は困らないのだが、ふと思うのは彼を親友と言って良いものか、否か。
友人として尊敬するし、好きだ。
旅の仲間として、彼ほど頼りになる存在も無かったと思うし、彼の力と、精神力を信じていた。
心から許し合える仲間と旅が出来たのは、運が良かったのだと思う。
特に承太郎は年も近かったし、以外にも趣味が合い、国際色豊かなメンバーの中で、互いが日本人であった事が、二人の距離を縮めていた。
母国語というものは安心感があるし、些細な独り言でも(つかれた、とか眠い、といった呟きだが)承太郎は良くそれを拾って気遣いをしてくれた。
大丈夫か、と声を掛けてくれるのが意外だった。
身なりからは想像できないけれど、彼は酷く優しい男だった。
それは後に花京院に対してだけ、と解るのだが。
彼を友人だと思いながらも、旅をして、心を許し、やがて同じように体も許した。
初めての行為はホテルのバスルームだったか。
今思い出しても頬が赤らむ。出しっぱなしのシャワーでびしょ濡れになったことや、備え付けの洗面台に座らされて激しく口付けをしたこと、後ろから抱かれたこと、
すべてが恥ずかしいし、刺客に襲われ続ける非日常的な状況下だからこそ、二人の関係が成り立ったのだと思った。
なのに今、ごくありふれた筈の日常でも二人の関係は続いていた。
この奇妙な関係は、親友という言葉で片付けることは出来ないだろう。
オレンジ色に染まる教室に残っているのはほんの数名だけだった。
ここにいない生徒はさっさと帰ってしまったか、グラウンドや体育館で部活に勤しんでいる時間だ。
日直の隣の席の女子が「今日は何したんだっけ」と、ブツブツ言いながらも書き上げた日誌を持って教室を出たところで話し相手もいなくなると、花京院は先ほど渡されたビデオテープを手に取り、再びラベルを見る。
金曜の夜なんかに放送される映画を録画でもしたのだろうか、黒いVHSはやや懐かしい。
この映画は世界的にも有名だし、モノクロの中のオードリーは可憐で美しい。
立場上、行動を制限された王女の、新聞記者との微かな恋。
承太郎は一緒に見てくれるだろうか。甘ったるくて、嫌がるかな。
オードリー・ヘップバーンがすごく可愛いから、彼女に見とれちゃったら嫌だな。
プラスティックでできた冷ややかな黒を撫でた時に、おしゃべりに興じていたクラスメイトから歓声が沸き起こった。理由はすぐわかる。
「花京院、帰るぞ」
響く低い声に
「はい」
嬉しいのを抑え、そっけない返事を返すと鞄を小脇に抱え、クラスメイト達に別れの挨拶をしつつ、教室を出た。
特に用事がなくとも花京院はなんとなく毎日のように承太郎の家に寄っていた。
事実上、承太郎の母親ホリィの命の恩人でもある花京院は、けれどそのような理由などなくとも、息子の友人というだけで歓迎されただろう。
武家屋敷のような家は誰が訪れても窮屈になることはなかったし、実に懐が広い。
いつものように神社の境内で帰路をショートカットし、玄関の引き戸が開かないことに承太郎は気がついて、ポケットから鍵を取り出す。
「お留守?」
「・・・・・・今日は華の稽古だったかもな」
実用性は高くない華道や茶道をアメリカ出身の彼女は酷く愛していた。
日本の文化がたまらないの、と月に何度かいそいそと出かけていく。
今日だったとは承太郎も失念していたらしい。
「あー、そうなんだ」
ホリィの作る菓子にすっかり魅せられていた花京院は至極残念そうに呟いた。
料理上手で有名なイタリア人女性(しかも若かりしころ住み込みのメイドをしていた)を母に持ち、生まれも育ちもアメリカのホリィの作るお菓子は実にバラエティに飛んでいて素晴らしい。
焼きっぱなしのケーキやクッキーは、さすがに売り物と比べたら見劣りはするものの、素朴で暖かく、家庭的な優しい味で、ひとつ口に運んでは心躍らされていたのだ。
承太郎は、今日はホリィさんのお菓子が食べられないのかと肩を落としてしょんぼりする花京院に気がつくと、やや腰を沈めてその耳元で
「お袋もいねーしよ・・・・・・」
急にくすぐられるような感覚にゾクリと体を震わすと
「・・・・・・良い事してやろうか?」
低く、問いかけられる。
外見もそうだけれど、声すら十分に大人びた彼は、花京院が慌てた風情で仰ぎ見るのを確認すると、口元だけでにやりと笑っていた。
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「き、君は何言ってるんだ…!まだ明るいだろう、それに…」
緑の瞳は確実に花京院の瞳を撃ち抜こうとしている。
相手のペースに飲み込まれたら最後、あの艶っぽい言葉を吐く口から発せられる甘過ぎる砂糖菓子の様な言葉に魅せられて、そのまま羽根を広げて飛んでいってしまうに違いない。
そこに透明な蜘蛛の巣が待ち構えていることを、勿論、承知の上で。
意地悪なハングリースパイダーは甘い蜜で蝶々を誘う。
「それに?」
「それに、僕は別にそういう目的で来た訳じゃあ…!」
「へえ?」
近寄ってくる顔に、抵抗なんて出来やしないのは、何よりも花京院自身が一番身に沁みて解っている。
ここが未だ空条家の玄関で、いくら敷地が広いとはいえ、玄関は往来に面しているという事実を差っ引いたとしても、こんなところでキスする訳にはいかない。
承太郎より幾分か(随分と、とも言えるけれども)体格は頼りないかもしれない、そんな彼にも年相応の男としてのプライドってものがある。
ごちゃごちゃと考えている内に、枝にかけられたままだった糸は次第にこちらへと伸び、綺麗な羽根に触れようとしていた。
あと、10センチ。
こつりと靴の先が触れ、じれったい距離を行儀の悪い足癖で縮められようとしたその時、承太郎の視界は真っ黒になった。
いや、実際には真っ黒な学生鞄で視界を覆われていたのだが。
「ビデオ!!可憐なオードリー嬢が僕を待っている!先に入る、お邪魔します!」
まるで過ぎ行く一陣の風。
オードリーの可憐さに見とれてしまったら嫌だな、だなんて殊勝にも打ちひしがれていた事は遠い昔の出来事になってしまった。
それでも律儀に<お邪魔します>と言って入る辺り、花京院らしい。
詰めの甘さを玄関に脱ぎ散らされた革靴が代弁してはいるからこそ、承太郎は笑いを堪える事は出来ず、まあ、まだチャンスはあると、蜘蛛の糸をこそりと震わせ、後ろ手に戸を閉める。
廊下の先には、先んじて入ったものの、何となく居心地が悪そうな花京院が、こっちを見ていた。
ホリィがいないこのお屋敷は、彼にとっては広く、どことなく、ひとりでは歩けない雰囲気を漂わせている。 後から追いついてきた承太郎は、解ってると言わんばかりに自分の鞄を持たせ先に部屋行ってろと伝える。
ようやくほころんだ表情を見せた恋人は、足の先に糸が絡み付いてしまった事にどうやら気がついてはいないようだった。
承太郎の部屋に先に入った花京院は、居心地悪く、落ち着くこともできずに畳の目をずっと見つめている。
今日来たのは、一緒に映画を観て、話をして過ごすためだ』と自分に言い聞かせつつ、ホリィの不在をしった瞬間、過ぎってしまった二人きりという状況と、不謹慎な予感を、承太郎に言い当てられた気がしたのだ。
決して、そういったことは嫌い、ではないのだけれど。
それでも、たまには、学生は学生らしく、健全な『お付き合い』などしてみたいではないか。
今まで両手で数えてもいいくらい、承太郎と抱き合ってきたけれど、だからこそ、仕切り直しではないけれど、高校生らしい、他愛も無いやり取りや、同じ男友達でもある付き合いをしてみたいと思うのは、別に悪いことではないだろう。
じ、と俯いたまま、自分に言い訳がましく考えをめぐらしていると、それまでしんと静まり返っていた部屋に、乱暴にドアを空く音が響いて、
「おい、お前何やってんだ。」
振り向く間もなく、呆れた声で承太郎に声を掛けられた。
「え、あ、いや。」
びくりと竦んだ体を仰け反らして言いつくろえば、承太郎は片眉を挙げて訝しげに花京院を見やる。
「ほれ。ビデオ見るんだろ?貸してみろ。」
手に持った盆を片手で持ち替えて手を差し出す承太郎は、指を揺らして催促すると、慌てて鞄の中を掻き分ける花京院からビデオを引っ掴んだ。
「準備してる間にこれ、開けてろ。」
花京院の胸にどん、と盆を押し当てると、承太郎は先ほどの狡猾な笑みとは裏腹に、淡々とした口調で花京院を押しやる。
正直、先ほどの続きではないけれど、キスの一つくらい降りてくるのではないかと思っていた花京院は表紙抜けして、ぼんやりとしたまま押し付けられた盆を覗き込めば、そこには銀のトレーとグラスが二つ、そして何本かの見慣れない瓶が乗っていた。
「なぁ…これって。」
「あぁ?親父のところから持ってきた。あと箱は、ホリィのやつの土産だ。」
テレビの前に蹲ったまま肩越しに振り返る承太郎は、呆れる花京院を残して、ビデオにテープを放り込む。
「これさ…お酒……じゃない?」
「今更、初めて飲むわけでもねぇだろうが。」
「………。」
顰め面をしながらも、酒の味を知っている花京院は、『仕方ないな』と技とらしく説教をして、いそいそとテーブルに盆を置く。
銀色の箱のラッピングを解いていると、ビデオの再生が始まったらしく、チリチリとトラッキングの音が洩れる。
「クラスの人に、廻されたんだ。」
「ほう。」
嬉々として箱を開けると、そこには、赤い包装の一口大の菓子が並べられている。
「ローマの休日、君見たことあるだろ?」
「……ローマの休日はな。」
指に摘んでみると、甘い芳香が漂い、思わず笑みが浮かぶのを隠しきれず、花京院は中を開こうと爪を立てると。
「おい、ローマの休日ってな、日本人がやるのか?」
「…そんなわけないだろ?オードリーも、グレゴリー・ペックも黒髪だった…と思うけど。」
「映像がカラーなんだがな。」
「デジタルリマスター版なんじゃない?」
「……日本でロケしたのか?」
「…………え。」
承太郎の不自然な言葉にやっと顔を挙げると、テレビ画面を振り向き様に指差す承太郎の背後には、見慣れない日本人の男女が、顔を寄せ合って会話をしていた。
「………あ……あれぇ…?」
映画とも思えない、どうも粗い画面に、奇妙に馴れ馴れしく女に触る男、どぎつい進行を売りにしたドラマか何かだろうかと思っていたら、男の手は素早く女の服に掛かり、女は形ばかりの抵抗を示して、そのくせ、自分から床に背中を倒してゆく。
「ええ?」
花京院は、また素っ頓狂な声を出した。
画面から流れる、痛々しいほど棒読みの台詞は、ふたりの高校の演劇部だってもっとましな演技をするだろうと思えるくらいにひどかった。
何か違う。何だか違う。予想していたのと違うというレベルでなく、何かが、駅前へ行こうとしてうっかりM87星雲へ飛び立ってしまったと同じくらいに、間違っている。
「承太郎、これは、その、もしかして…」
男の手は、すでに女の、長いふわふわとしたスカートをまくり上げていて、裸の腿がほとんどあわらになっている。花京院が見慣れた、同級生の女子たちの体操服姿で時折見るそれとは、何だかまったく違うものに見える。
「今度はもちっとマシなのよこせと言ってやれ。日本モンはまどろっこしいだけじゃねえか。」
承太郎の平たい声は照れ隠しかと思ったら、ほんとうに唇の端がひくりと上がっていて、あからさまにつまらないという表情を浮かべていた。
「な、何を言ってるんだ君はッ!」
「洋モンは楽だぞ、出て来た時には裸だしな、めんどくせえ台詞もへったくれもねえ、やるだけやって終わりだ。」
なぜそんなによく知ってるんだと、聞きたくても聞けなかった。承太郎の返事が、恐ろしかった。
流れる画面に対するふたりの対照的な反応など、もちろん棒読みの俳優たちの知ったことではなく、それなりの脚本はあるらしい物語は、ひとまず進行し続けていた。
いつの間にか男は半裸になっていて、女はもうほとんど全裸だ。ブラウスを脱がされて、下着が適当にまくり上げられて、胸が露出している。大きさも形も、女のそれだというだけで、確かに物珍しくはあった。
「おれが持ってる洋モンにするか? そっちの方がうぜー設定もねーし、見るには気楽だぜ。」
承太郎が、ほんとうに親切心からそう言っているらしい声音を聞き取って、花京院は、視線の端を画面に流したまま、慌てて首を振った。
「いい! いらない! このままでいい!」
そう言ってしまってから、ようするにこれが見たいと意思表示してしまったと同じことだと気づく。気づいて、初めて顔を赤くする。
いや別に見たいというわけではない、と言おうとして、わざとらしく高い、女のあえぎ声に、花京院はうっかりそちらへ顔を向ける。
視線が向かったそこに、女が脚を開いていた。
腿の内側に添えられた男の掌で、かろうじて隠れてはいるけれど、もっと近づけたあらわになるだろう、見たことも想像したこともない、秘められた場所。そこはきっときちんと隠されているはずだと思い込んでいたのに、何もない。
何度か見たフランス映画で、よく無粋に画面に現れる、いわゆるモザイクだのぼかしだのと言われるその効果が、そこにはなかった。
もう一度、花京院は視線をそこに据えたまま、うっかり硬直した。
「ちょっと待てちょっと待てちょっと待て。」
つぶやきながら、これもうっかり、隣りの承太郎に助けを求めるように、上着の袖を掴んでしまった。承太郎は手元に煙草を引き寄せ、つまらなそうに煙を吐き出しながら、
「無修正じゃねえか。やるな。」
とりあえずお世辞で言っておいた、という風に、つぶやき返して来る。
男の手が動く。女の膝が閉じようとするたびに、男が指を動かして、それを引き止める。見せるための演技なのだとわかっていて、滑稽としか言えないふたりの動作を見ていて、けれど花京院は、いつの間にかそこから目を離せなくなっていた。
「……ッ……」
思わずこぼれそうなため息を勘付かれないようにそっと飲み込む。
相変わらず視線は画面に釘付けで、そんな自分を承太郎がニヤニヤと見ている…気がする。
ここで顔を背けたり、テレビを消したりしたら、きっとこの男は「まだまだガキだな」とか何とか言いながら笑うのだろう。
表情が見られないならそれはいい。平気なふりをして画面に顔を向けたまま花京院はそっと、ホリィが買ったという菓子に手を伸ばし、包み紙を解いて、女性の秘所が目に入ったところで
「・・・う・・・ッ・・・」
赤々とした茂みを、見てはいけないものだと認識し、肩が揺れ、けれど見てはいけないものを見たのだという罪悪感から目を硬く閉じたまま、まん丸のチョコレート菓子を口に放り込んだ。
耳から入ってくる床ずれの音、女性の抵抗する・・・しつつも、触れられ、体が反応してしまう時の独特の鼻に掛かったあえぎ声が、空想力を高めそうで、中身など気にする余裕もなくチョコレートをがぶり、と齧った。
すぱー、と煙草の煙を吐き出しながら、隣からは憎たらしいほど平然とした表情の承太郎が
「あ、それ中身酒だろ」
口の中を独特の辛味で一杯にした花京院に睨まれながらニヤリと笑った。
「チェリーボンボンってやつだから良いかと思ったんだが」
言い訳は言い訳にしか聞こえず
「先に言ってくれよ・・・ッ」
慌てて包み紙にそれを吐き出そうとするその手首を承太郎は掴んで、自分に引き寄せると
「吐くなよ、もったいねー」
唇を奪い、舌を捻じ込んでいた。
瞬間、女性の甲高い声が部屋に響き渡る。
口の中に広がるリキュールのしっとりと粘りつく甘さと、承太郎自身の甘さとが絡み合って、血が逆流しそうで、頭の中の奥がぐらりと揺れる。
抵抗しようにも、思い通りに腕の力が入らずに、くぐもった声を漏らせば、気を良くした承太郎がより深遠へと、生き物の様に這う舌を伸ばしてくる。
じたばたもがいてももう時既に遅く、透明な糸は蝶々の身体に張り巡らされ、絡み、二度とは解けない呪縛を施し始めていた。
彼女と同じ反応を、花京院も示しているらしい。
画面の中の彼女は、男に良い様にされながら、快楽の高みへと昇っている。卑猥で安っぽい台詞が時折花京院の耳を刺激するけれども、それ以上に耳を犯すのは、承太郎が立てる、甘い水音。
「ああ、イっちゃうよぅ」
彼女がなけなしの芝居で表す、しどけない声はどうやらふたりの雰囲気を盛り上げる手助けをしてくれているらしい。
徐々に力が抜け、抵抗が少なくなる身体を、今度はこちらに摺り寄せてくる。花京院の揺れる瞳は微かな甘さと辛さを滲ませつつある。
長い口付けの後、ようやくお互いを開放した時には、ふたりとも肩で息をする程に、呼吸と、それ以上に理性が乱れていた。
「甘ぇ」
「息ができないよ、ぼくを、殺す気だったのかい?承太郎」
「もったいねえ、そんな事」
果実のリキュールは奥底に眠るものを呼び覚ますには十分だったようで、承太郎は花京院の紅く染まった頬に触れながら、器用に片手で酒瓶を持ち上げる。
やや焦点の定まってない亜麻色の瞳の前にそれをちらつかせると、まるでゆらゆらと、ねこの様に追跡をする。
かわいらしい様を見せても、わかっててやっていない辺りに、彼の隠された魅力というものを思い知らされ、承太郎は小さく息をのんだ。
「飲むか?花京院」
「それは、ワイン?」
「ああ、そうらしいぜ」
「いいよ、飲んでも」
試す音階の言葉で歌われて、にやりと口角を持ち上げて笑う蜘蛛。
これからこの蝶々を、酒に浸して捕食してやろう。
獲物も、それを望んでいるのだ。
「承太郎が、飲ませてくれるんだろう?」
とろりと、僅かな酔いを含ませた瞳が、猫のするように細められて笑うのを、承太郎はにやりと口角を吊り上げて見つめ返す。
互いに顔を逸らさないまま、承太郎は手にした瓶を直接含んだ。画面では男に跨って揺さぶられる女が、甲高い声を挙げている。
チラチラと画面の光が、瓶に映るのを、花京院は視界の端に留めながら、彼を睨みつけたままワインを煽る承太郎を見守っていると、承太郎は口に含んだワインを、ぐいと花京院の顎を引き寄せて唇を重ねることで、注ぎ込んだ。
「ん・・・。」
素直に喉を開けば、承太郎の舌と一緒に、ワインが注ぎ込んでくる。
甘い、鼻につく匂いがぐらりと花京院の頭を揺らし、ついで苦味の混じったアルコールの、独特の感触が、ぴりりと舌と喉を焼いた。
重なった唇をすり寄せて、なれない痛みに顔を顰めると、承太郎の舌は労わるように花京院の舌にこすり付けてくる。
器用に舌の先を丸めて、残ったワインを転がしながら、互いの舌で味わっていると、洩れたワインが、つ、と花京院の頬を汚した。
瓶をその場で置いた承太郎が、手探りでテーブルの上のチョコレートを探ると、爪を立てて乱暴に包みを剥ぎ取る。
その間も重ねた唇も、絡めた舌もせわしなく動かして、唾液の混じったワインを、花京院の頬の内側や上顎にこすり付けてくる。
そのたびにじりじりと湧き上がる、覚えのある感覚に、花京院はだらりと降ろしていた手を挙げて、承太郎の肩に縋りついた。
爪を立てて息苦しいと抗議すれば、やっと唇が離れて、伸ばした舌からとろりと赤紫の糸が零れる。
それは空気に触れて鈍く変色した血のように、どす黒い色を帯びていて、承太郎は僅かに眉を顰めたまま、ワインで濡れた花京院の唇を、親指で擦り取った。
ゆっくりとした瞬きをした花京院のまぶたが、ゆるゆると擡げる。
そこには先ほど、テレビの画面に狼狽していた幼い彼の姿とは程遠い、アルコールと承太郎に酔った、挑発的な視線が睨み返していた。
潤んだ瞳を細めるのも、見せ付けるように濡れた唇で舌を拭うのも、これが女の裸に赤面して、うろたえていた男の姿なのかと疑う程に慣れた仕草で、首を伸ばして長い舌を差し出してくるのと、頬の上気や目尻の赤みはアンバランスで、一層に淫猥な雰囲気をかもし出す。
「―――酔ってんのか?」
「・・・・・・・・・さぁ?」
く、と喉の奥で笑えば、花京院の笑み一つでじん、と芯が疼くのが憎らしく、承太郎は指に挟んだチョコレートを花京院の舌に乗せて、自分はまたワインを煽った。
『どうせ、酔うなら、徹底的がいい。』
アルコールがさせたとはいえ、今の花京院は、普段からは想像しがたい艶かしさだ。
もっとそんなところが見たいと、それをさせるのはきっかけがアルコールなのだとしても、それ以上は自分がさせたいのだと、躍起になって承太郎は舌先でチョコレートを転がす花京院に覆い被さる。
重ねた唇から、ワインを注ぎ込んで、砕けたチョコレートから洩れるリキュールと混ぜると、鼻に抜ける声を漏らした花京院の項を掴んで、喉の奥に舌を擦りつけた。
ちょうど、放課後で胃も空になっている頃だし、ワインはともかくも、チョコレートの中のリキュールは、甘さと同じくらい、相当アルコール度数も高いはずだった。
酔わせようと思って用意したものではなかったけれど、結果的にこうなってしまえば、それに乗らない手はない。ただでさえ、普段は明るいところでシャツの前すらはだけるのを嫌う花京院だ。
承太郎は、またひと口あおったワインを口移しに飲ませて、花京院がそれをためらいもせずに飲み下す喉の奥の動きを舌先に確かめて、それから、強い香りの残るその中を、ゆっくりと探り始めた。酒と溶けたチョコレートのせいで、ふたりとも口の中がべたべたする。熱いのは、アルコールのせいだけれど、それだけでもない。ふたり──特に承太郎──は、あちら側からいっそう声高く流れてくる、女のあえぐ声には視線も流さずに、ただ互いだけを見ていた。
「承太郎…。」
唇が外れたすきに、花京院がつぶやく。呼んでいると言うよりも、まるでひとり言めいて聞こえて、承太郎は今さらどきりと、心臓が跳ねるのを必死で耐えた。
あごを、花京院の両手が包む。そこを滑り落ちて、いつだって開いたままの襟元に触れ、いつもに似ない大胆な手つきで、シャツの肩辺りから素肌に触れて来る。
酔ってやがる。
思って、このままコトを進行させるのに、少しだけ罪悪感が湧いた。
合意の上でないわけではないと思うけれど、酔っ払いにつけ込むというのは、それはひととしてどうだと、珍しく殊勝なことを思う。思うのは、花京院が、承太郎がためらうほど素早く、両手を下へ滑らせたからだった。
「花京院。」
返事はない。承太郎の脚の間へ躯を割り込ませ、肩で膝の間に滑り込み、ひどくとろけた表情で、承太郎のベルトに手を掛ける。それを外す手つきにためらいはなく、音がしたと思った瞬間に、両手の指先が、その中へ入り込んでいた。
「おい花京院。」
慌てるのは、今度は承太郎の番だ。
ビデオの方は、とっくに本番真っ最中だけれど、そんなものには一向にそそられるはずもなく、まだ襟元さえ乱していない、けれど明らかに酔っ払いの花京院の手指の表情の方に、承太郎はまた心臓が跳ねるのを感じた。
軽く開いた唇の間で、あふれた唾液が糸を引いているのが見える。舌が伸びて来て、ほんとうに、躊躇もへったくれもなく、花京院が承太郎のそれを舐めた。
唇の奥が熱い。酒のせいだ。火照った頬の裏に、承太郎が当たる。片手を添えて、傷つけないようにと思う理性は残っているのか、大きく開いた唇と喉の奥に、承太郎が 全部入ってゆく。
唇も頬も、いつもよりも赤い。かすかに見える首筋には、まだらに赤が散っている。
床に坐って足を投げ出した承太郎のそこへ、花京院が床に這いつくばって、顔を埋めている。時々、承太郎の様子を確かめるように、上目にこちらを見る。その目元も、真っ赤だ。
自覚があるのかないのか、濡れた唇と舌を、見せつけるように、承太郎のそれに添えて、輪郭を、舌先でなぞる。口の中に収めるだけではなくて、唇の先だけで線をたどって、まるでそれが自分のものだと言うように、承太郎の大きさを見せびらかす。
花京院のその動きに耐えながら、承太郎は何度も息を止めた。
酔ってやがる。また、承太郎は思った。
承太郎が思うように、花京院は酔っていた。
吐き出す息も、承太郎のペニスを咥えるくぐもった声も、大きいそれを扱うための手淫の動きも全て酔ったことを言い訳にしたような、いや、酔ったからこそ出来る大胆さで稚拙ながらもこなしていく。
太い芯に這わせては唾液をびちゃびちゃに滑らすと、そこからだって甘くチェリーの香りがして夢中で舐めた。
「ん、ふ……っ」
鼻から漏らす息だって熱情に濡れている。
ひたむきに頭を動かし、時々えずき、それでも承太郎のペニスを舐めるのは辞めなかった。
「どうしてだ」と聞けば、「いつもしてくれるから」と、答えが返ってきそうなのに、承太郎はあえて聞かない。
初めての口淫に不安なのだろうか、気持ち良いのかと心配そうに時々見上げる表情が愛しい。
「下手で、ごめんね」
首を傾け、唇で齧るようにして先を刺激し、鈴口からにじみ出た体液も舌を使って上手に舐める。
初めてなのだから、その粘度にも味にも違和感があるはずなのに、花京院は、決して顔を背けたりせず、一心に承太郎自信を愛撫し続けた。
落ちてくる前髪が邪魔なのか、それを耳に掛け、けれど頭を激しく上下させるため、再び糸の束のようにハラハラと落ちては、承太郎の腹をくすぐった。
なかなか達しないのは、花京院が慣れないせいもあるだろう。
口の中で、彼は十分な存在感があるのに、未だカウパーの味しか知らないし、それが悔しい。
「花京院」
承太郎の静止の声が、耳に響く。
「・・・いい・・・。服を脱げ」
高慢とも思える言葉に、口角はこれから起こることの期待で吊り上り、花京院は承太郎の体に跨がりながらそれに従っていた。
素直に自らの身体によじ登ってくる様は、どうしてこんなにも不思議に映るのだろう。
同時に興奮と支配欲が承太郎の中にたちのぼってくる。
くたりと力をなくした肢体は這う様に、身体を撫でる様に通り過ぎ、ぬめった感触を残しながらシャツのボタンを外すその仕草は、見ていて飽きるものでは無かった。
いつの間にか獲物が、牙をむいた気がした。
うまくいかない指先を何度も何度も操り、ようやく制服を脱ぎ去った花京院の身体はこの明るい光の中で、ほんのりあかく、色づいている。
そっと、自らの秘所に承太郎の欲望を宛てがい、腰を沈めようと、蝶々は羽根を震わせる。
薄い唇の端からは甘くてとろける蜜を吐き出し、承太郎の筋肉質で締まった腹を、シャツごしに汚した。
「…汚れちゃったね」
「構やしねえよ」
意地悪と慈しみの中間点で笑い、箱からまたもうひとつ、チョコレートを取り出し、誘っているかの如く開いた花京院の口に、承太郎は優しくそれを押し込んだ。
「ん…」
「甘いだろ、それ、舐めてろよ、いいな?」
「うん」
素直に頷く彼は、一層愛しく、可愛らしい。
反面、無意識に求めて蠢く腰に、承太郎は理性を抑えきれなくなってきている。
余裕が無いのは、お互い様だ。ゆっくりと、でも力強く承太郎が熱を打ち始めれば、応える様に、うねる曲線。
いつしかビデオは終わっていて、画面には砂嵐が映っていた。
気がつく余裕など、ふたりには無く、チェリーの香りに満たされたこの部屋で、彼らは繋がったまま、そっとキスをした。
卑猥な音、肌と肌がぶつかり、畳と制服を汚しながら、決して汚れることの無い花京院の身体は、部屋に満ちる果実よりも甘く魅惑的だった。
「あっ…あっ…承太郎…承太郎…」
「っ…なんだ…」
「くっ…」
「いい子だから、言ってみな」
あやすように髪を撫で、頬を撫で、
そして、捕食は最後の段階を迎えた。
「もう…イきそう……っ」
「……いいぜ」
一層跳ねる肢体を眺めながら、承太郎も、自らの愛欲で、恋人の身体を犯した。
ふうふうと、荒い息を継いで、虚ろに天井を見上げた花京院の身体がぐらりと揺れる。
倒れこむ彼の身体を、見上げていた承太郎が咄嗟に手を伸ばして支えれば、汗で濡れた身体が滑って、どん、と音を立てて承太郎の胸に叩きつけられた。
「…おい。」
肩を小さく揺さぶって花京院に声を駆けるが、相手は『うう』とくぐもった声を挙げるだけで、なかなか顔を上げようとせず、承太郎はそっと、顎に手を掛けて上向かせれば、花京院は達した後にしては、随分と不機嫌な顔で承太郎を睨みつけていた。
「大丈夫、か?」
「ん。まだ…。」
肩を抱く承太郎の手を払って、花京院は承太郎の首に撒きつき、身体を揺らし始める。
体内に放った承太郎の体液が、じとりと二人の重なり合う処から滲み出て、ぐちゅり、と音を立てる。
「まだ、終わってない。」
「おいって。」
跨った膝を折って、前後に揺れながら、花京院は真赤に染まった顔のまま、唇の端に付いたチョコレートを舐め取る。
濡れた舌は淫靡だけれど、顰め面で承太郎の声を聞き入れず、尚も腰を揺らめかせる姿は、まだ燻っている熱に疼いているというよりも、不満げに駄々をこねる子供のように、ゆらゆらと頭を揺らしている。
「僕、が、承太郎をイかす。いつも、承太郎がしてるから、僕が。」
「おい、無理すんな。」
「や、だ。」
躍起になって揺れる花京院は、けれど顔どころか、全身を赤くそめ、目はうつろに、舌は呂律が廻らないのか、何度も承太郎の名前を呼ぶ度に、顔を顰める。
「お前、酔ってんじゃねぇか。そんなんで、後でどうなっても知らんぞ。」
「やだぁ。僕が最後までッ。」
何とか花京院を宥めようと、承太郎が頬を撫で肩を撫でて、花京院を諌めようとするが、彼は一層意固地になって、腕に廻していた手を、今度は承太郎の背に廻し、しがみ付いてきた。
「お前がそんなことせんでも、充分に。」
『俺はお前に振り回されているのだ』としがみ付いてくる花京院の背を撫でてやれば、そこでやっと、花京院はぎこちなく揺れるのをやめて、間近で承太郎を見つめた。
額を突き合わせてみれば、潤んだ花京院の瞳は、酷く赤くそまっている。
『…焦点、合ってねぇじゃねぇか。』
これは、このまま落ちるのも早いと、掬い上げるように口付けを施すと、花京院はまた、『ン』と喉の奥で頷いたような、文句を返したような、曖昧な返事をして、承太郎に従った。
「…いい子だ。」
「うん。」
コクリと大きく頷いて、花京院が顔を上げれば、とろりと溶けた顔に、満足そうな笑みを浮かべている。
『まったく酔っ払いは、質が悪い。』
そのままぐらりと身体を傾かせて、承太郎に跨ったまま眠ってしまった花京院の背中を撫でながら、承太郎はなれない酒を、しかも混ぜて飲ませるんじゃなかったと大きなため息を吐いて反省した。
弛緩して動かなくなった花京院を、乱暴に敷いた布団に突っ込んで、申し訳程度に羽織った布団に一緒にもぐりこんだ承太郎が、テレビの音に目を醒ませば、其処には灰色の画面と耳障りな雑音が映し出されていて、デッキからビデオが飛び出ている。
そういえば、ビデオなんて見る暇もなかったと、承太郎が何気なく乱れた髪を掻き揚げながらむき出しになったビデオのタイトルを見やると。
『ローマン(浪漫)の休日』
「……………。」
随分とチンケなもじりだと思いつつ、それに気付かずに見事に騙された花京院をみやれば、彼は随分と幸せそうな顔で眠っていて、承太郎のため息を一層深くさせた。
2009/3/14−3/15
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