ゴルゴ承花 (1)



 音もなくドアが開き、彼は、その大きな体に似合わず、足音も立てずに中に入って来る。
 座っていたひとり掛けのソファから、彼を迎えるために立ち上がって、花京院は微笑みを浮かべる。
 「やあ、承太郎。」
 承太郎と呼ばれたその男は、一分の隙もない身なりと身のこなしで、花京院の傍へやって来る。
 花京院は、承太郎の頬に掌を伸ばし、確かめるように、まだ無表情なその唇の端の辺りを撫でる。
 にこりともせずに、承太郎は、その掌に向かって顔を傾けた。
 「脱げ。」
 平たい声だ。そこにも、表情はない。わずかに動いた唇を、特に憮然とした様子もなく見つめて、花京院は少しだけ意外そうにつぶやいた。
 「ずいぶんとせっかちだな。」
 うっすらと赤らんだ頬を下目に見て、逡巡するように引き結ばれた、横に広い唇に、今度は承太郎が手を伸ばす。
 あごに手を添え、唇の真ん中辺りに親指の腹押し当てて、促すように、表情のない瞳が、花京院をとらえていた。
 承太郎から視線をそらし、花京院は軽くうつむくと、着ていたシャツに手を掛ける。すぐに肩と胸が現れ、その次にはジーンズに手が掛かる。何もかも足元に脱ぎ捨てるのに、2分と掛からない。
 真昼間の明るい部屋の中で、何も身に着けない全裸を隠しもせず、花京院のその裸の肩を、承太郎は軽く押した。
 さっきまで座っていた椅子の中へどすんと腰を落として、軽く開いた膝を、慌てて閉じようとして、すぐに気を変える。
 椅子の中に浅く座り直し、背中を後ろへ傾け、片膝を椅子の肘置きに乗せた。
 「会いたかった・・・。」
 ひそめた声が、すでに湿っている。承太郎の視線に、もう形を現し始めたそれを見せつけて、誘うために、掌を自分の下腹へ当てる。
 「・・・おれもだ。」
 黒いスーツ、ネクタイもゆるめないまま、承太郎が花京院の足元へひざまづく。花京院が脱いだ服を脇へ押しやり、そうしながら、視線は花京院に据えたままだ。
 這い上がるように、花京院の脚の間から体を伸ばし、首筋に唇を押し当てる。その間に片手が、胸の辺りに乗った。
 まだ、革手袋を外さないままだ。
 いつもなら、花京院に会った途端、最初にそれをする。それから、生身の手でネクタイをゆるめ、シャツを脱ぎ、花京院を抱き寄せる。その後は数時間、呼吸の合間に数少なく言葉を交わし合って、生きている人間の体温を確かめ合う。
 承太郎は、無事な姿で花京院を訪れ、花京院は、生きて承太郎を迎える。
 じゃあまたと、別れる時の言葉はいつもそれだけれど、それを、心のどこかでは信じ切れてはいないふたりだ。
 本名を持たないこの殺し屋を、承太郎と呼ぶのは花京院だけだ。仕事を片付けた後で、承太郎は必ず花京院を訪れ、誰をどんな風に殺したかを懺悔する。
 罪悪感にとらわれないために、殺人の快楽にとらわれないために、何もかもをありのまま、包み隠さずに花京院に告白する必要があった。
 小さな、銀色の十字架を手の中に握り、承太郎の話を聞く。大抵は、何も問わず、ただ先を促し、承太郎が話したすべてを、絶対に他の誰にも告げたりはせずに、自分の胸の中にだけ収めて、そうやって、花京院は承太郎の浄化を助けている。
 血にまみれた全身を、承太郎はそうやって洗い流すのだ。
 血と硝煙の匂いを落とし、次の仕事に取り掛かるまで、承太郎はごく普通の人間として暮らすことができる。
 花京院は、承太郎だけの告解神父として、ひとりの日々を、神に祈ることに費やしている。どうか、憎み合い殺し合う人間たちを許されるようにと、そこへ巻き込まれてしまった承太郎を、どうか守って下さるようにと、そして、その承太郎の救いとして、承太郎が生き続ける限り、自分の命も尽きませんようにと。
 承太郎の革手袋のままの掌が、肩から首筋を撫で上げてゆく。
 「血の匂いがするか。」
 あごを包んで、指先は唇へ伸びる。赤い膚に触れて、革が、そこできゅっと音を立てた。
 唇を開き、舌を差し出し、その革の指先を、自分の口の中へ引き入れる。爪のつけ根に歯列を食い込ませ、指先に、まるでねじ込むように舌先を押しつけた。
 血の匂いはない。革の匂いだけだ。硝煙の匂いもない。今日は、どうやって殺したのだろうかと、承太郎の告白を想像しながら、花京院は承太郎に向かって、もっと大きく脚を開いた。
 椅子の背を、肩越しにつかんで、耐えるために握りしめる。そう誘った通りに、承太郎の唇が、みぞおちから下腹へ滑り落ちた。
 革の手が、花京院のそれを握る。生身の掌よりもぶ厚い、なめらかではない感触が、張りつめた皮膚を軽く引っ張り、開いた内腿の皮膚が、何度も慄えた。
 爪先が、伸びて、曲がる。開き、きゅっと縮み、声や手よりもこらえ性なく、動く承太郎の革の手に合わせて、素直に快感を貪っている。
 そう言えば、さっき口の中へ入れたのは、右手だった。承太郎が、他人には絶対に触れさせない右手だ。外では、剥き出しにすることすらない右手---左手も---だ。その手を花京院に預け、花京院に触れさせる。
 人を殺すその手は、決して花京院を傷つけることはせず、仕事をするその時以外には、虫を殺すことすら滅多とない。
 優しいという言い方とは少し違う、承太郎は、思慮深い男だった。
 少なくとも、花京院にとっては。
 触れる激しさとは裏腹に、穏やかに指先が入り込んで来る。生身の膚に比べれば、ずいぶんと滑りの悪い革が、入り口の柔らかな皮膚と粘膜を引き吊れさせて、それに、花京院は思わず声を立てた。
 つかんでいる椅子に爪を食い込ませ、自分を貪る承太郎を貪って、少しでも躯が楽になるようにと、知らずにもっと両脚が開く。腰を前に突き出して、革の抵抗にも関わらず、もっと深くくれと、内側が誘っている。
 承太郎が直に欲しい。けれど、革1枚隔てて遠い承太郎も、それが、花京院が直には知らない承太郎だから、これでもっと深く承太郎を知ることができるのだと、先を焦らずに、花京院は、深くなる承太郎の指に、何度か息を止めた。
 指先を束ね、うまく滑らないはずの革が、今ではなめらかに花京院の中を出入(はい)りする。爪の隠れた指先が、わずかに曲がって内側をこすった。
 腰が跳ねる。肩を揺すって、今触れられたそこに、早く承太郎がそのまま欲しいと、全身に言わせて、そうと自覚もなく開いた唇が、承太郎の名を呼んでいた。
 まだ、首元さえゆるめずに、承太郎は花京院に触れて、全裸の花京院を抱く手前に、自分を引き止めている。
 素手で折った、今日の標的の首の骨の感触が、まだ掌の中にあった。
 口にもしたくない、おぞましい音と感触だ。それを、もう少し後で、事細かに花京院に告げる。その苦痛を経て、承太郎は、花京院に許される。許されてまた、今度は、何もかもを脱ぎ捨てて花京院に触れたいと、承太郎はそう思う。
 革の表面が、花京院の粘膜に濡れ、体液に濡れる。放っておけば、乾いて硬張り、使いものにならなくなる。
 それでいい。この手袋を汚して捨てて、そうして、承太郎の肩は軽くなる。
 ここまで運んで来てしまった死の気配を、花京院の膚にこすりつけて消し、体の中を空っぽにしたその後で、直に花京院と触れ合うのだ。そうすれば、承太郎は普通の誰かに戻れる。
 殺し屋であることを忘れることを、一瞬だけ許される。
 死の匂いを落とす。花京院は、承太郎をきれいにする。洗い流され、生まれたままの姿に戻り、無垢さを取り戻す。
 「僕の、どこかの皮膚を使えばいい。」
 やっと革手袋を外し始めた承太郎を見て、花京院が荒い息で言う。
 「それで、新しい手袋を作ればいい。」
 赤くまだらに染まった胸を上下させながら、そんな冗談---ほんとうは、違う---を言う。
 汚れた手袋をどこかへ放りながら、やっと生身になったその手で、まずネクタイを外す。
 「ちっと、量が足りねえ。」
 承太郎の大きな手用なら、花京院の背中も腹も腿の皮膚も、全部必要かもしれない、だから無理だ、そう、伸ばした手に言わせる。その手は、花京院の首の回りに重なる。
 「だったら、右手分だけでも。」
 喉に添えられた承太郎の手に、怯えを見せることもなく、花京院が微笑んだ。
 そうやって、首を折ったのだ。その同じ形に、花京院に触れて、けれど承太郎に殺気はない。
 その手は、そのまま花京院の頬を包み込んだ。
 「なら、左手の分は、おれが自分のを使おう。」
 鼻先が触れるほど近く、顔を寄せて、動く唇の先が、わずかに触れ合っていた。
 花京院から剥いだ皮をなめして、承太郎の手の形を作る。それに覆われた手で、人を殺す。その時承太郎は、もうひとりではない。もう、孤独ではない。
 自分の右手と左手を、重ね合わせればいい。そこにはふたりが一緒にいる。
 とてもいい考えだ。
 夢のように考えながら、花京院に口づけた。
 慌ただしく服を脱ぎ捨てながら、承太郎は、花京院の胸に、やっと裸になった自分の胸を、荒々しく重ねて行った。


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