腕の中で、フィアナの体が、人形のように崩れ落ちた。
抱きしめても、抱き返してくる腕の力はなく、人形のように扱われ続けていた彼女は、今はほんとうに、ただの人形のように、力なくキリコの腕の中にいる。
なぜこんなものを生み出したのかと、ひとの愚かさに、静かな、だからこそ凄まじい怒りを感じながら、けれど今は何よりも、胸の中を吹き抜けてゆく冷たい 風に、背骨ががちがちと音を立てている。
あまりにも長く続いた戦争は、ひとの心を様々に狂わせ、そして、その狂気の証しのひとつであるフィアナを連れて、争いのない世界へ行こうと、ふたりで旅 立ったのは、あれは夢だったのだろうか。
自分も、争いだらけの宇宙の中で生み出された、醜悪で下らない存在なのだと、キリコは、なぜか今とても穏やかに見えるフィアナの、もう二度と開くことの ない、下りたままの瞼の辺りに視線を落として、今度こそ、ほんとうにひとりきりになった自分の、まだ生き延びなければならない運命を、心底呪った。
なぜと、問い始めればきりのないことばかりだ。なぜだなぜだなぜだなぜだなぜだと、頭の中で自分の声が聞こえる。とうとう狂ったのかと、自分の正気を 疑ってから、そして、いっそほんとうに狂えれば、その方がましに違いないと、腕の中のフィアナを、キリコはまた強く抱いた。
おれを置いてゆくのか。フィアナが望んだことではないはずだったけれど、それでも、そうつぶやかずにはいられない。
真空になってゆく自分の体の中から、何もかもが消え失せ、空っぽになったついでに死んでしまえればいいのだと、そんな望みすらかなわない自分の運命は、 今はもう不幸しか手招かない。
頼むから、おれたちを放っておいてくれ。頼むから。
何を責めればいいのか、今は見当もつかないまま、キリコは、この宇宙のどこかにいるだろう、誰か、あるいは何かに向かって叫んでいた。
ふと気づけば、フィアナの瞼が濡れていて、それが頬にまで流れているのに驚いて、この水は一体どこから来たのだろうかと、フィアナの目元や頬を、指先で 撫でる。少しずつ柔らかさを失いつつあるその肌の上に、その間にも、ぽたぽたと水が滴っているのに、キリコは初めて気がついた。
それが、自分の頬から流れているのだと気づいて、自分の顔に触れる。目から溢れているのは、涙だ。
自分が泣いているのだと思っても、それには何の感慨もなく、キリコは、濡れ続けるフィアナの顔を、黙ってただ見下ろしていた。
フィアナに触れて濡れた指を、ふと思いついて、舐めた。何の味もなく、涙は、こんなただの水だったろうかと、キリコはもう、そんなことすら思い出せなく なっている。
ただの水のキリコの涙は、フィアナの肌を濡らし続けて、そして、乾いて、何も後には残さなかった。
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「キリコ、ほんとうに、いいの。」
どれほど長い時間をかけても、説得されないというような、ひどく悲しげな表情で、フィアナがまた訊いた。
キリコは、フィアナを両腕で抱き寄せて、手に触れる長い髪の冷たさに、ゆっくりとまばたきをする。
「もう、決めたことだ。」
でも、とまだ言い継ごうとして、フィアナは、どうせ同じ答えしかキリコからは引き出せないとわかっているから、そこで黙り込む。それももう、何度も何度 も繰り返したことだ。
コールドスリープに入るまで、もう数分ある。漂う宇宙の中で、今ふたりには互いしかいない。それは、ふたりが求めたことだった。
凄まじい孤独が、目の前に横たわっている。けれど、ふたりにとって怖ろしいのは、そんなことではない。
戦争のために、利用されること、引き裂かれること、あるいは、殺されるかもしれないこと。もうたくさんだと、キリコは心の中でつぶやいて、フィアナをま た抱きしめる。
「あなたが、わたしのために、一緒に来ることはなかったのよ、キリコ。」
フィアナの声は、どんな時も穏やかで、尖りきったキリコの心を慰撫するように、ひどく優しく響く。
同じ声で、フィアナが泣くのも、叫ぶのも、もう聞きたくはなかった。
「おまえのいない世界に、意味はない。」
キリコの腕を、フィアナが撫でた。
無期限のコールドスリープのために、何も身に着けてはいないふたりは、今はまだあたたかい肌を重ねて、小さなカプセルの中の、小さな閉じられた世界の中 で、ようやく訪れる安息に、けれど不安を振り払えはせずに、視界の利かないふたりの未来へ、心を馳せている。
今やっと、ふたりは、ふたりだけのものだった。
世界から忘れ去られるために、世界を捨てることを選択するしかなかった悲しさを、フィアナは嘆いている。何より、キリコを道連れにすることを、涙も出な いほど悔やんでいる。それでも、今ある世界よりも、迷いもなく自分を選んでくれたキリコを、心の底から愛していると、今までのどの時よりも今、強く感じて いた。
自分たちはいつか、流れ星になるのだろうかと、目の前にばらまかれた星を眺めて、フィアナは思う。そうやって燃え尽きてしまえれば、何よりいい。それで も、いつか、目覚めて、キリコと再びあたたかな肌を重ね合わせられる時が来てくれればと、願わずにはいられない。
フィアナは、キリコの肩に頭を乗せて、一度、大きく深呼吸をした。
「・・・キリコ、あなたを、愛しているわ。誰よりも。何よりも。」
まるで、誰かに聞かせるように、そうすれば、キリコの剥き出しの膚に、じかにそれが刻み込まれるとでも言うように、フィアナはゆっくりと言葉を紡ぐ。
フィアナの髪を撫でていた手を止めて、もう絶対に離さないと、キリコはまたフィアナを抱きしめた。
「・・・おれもだ、フィアナ。」
星々を遠くに眺めて、キリコははっきりと応えた。
時間が来る。あたたかな肌から、ぬくもりの失くなる時がやって来る。
それに逆らうように、フィアナが、じっと宇宙を見つめている。流れ星を探しているのだと、キリコは知らない。
「もう、眠れ。」
永い永い時の流れを、そこで縫い止めてしまうために、何よりも愛しい女をその腕に抱いて、キリコは目を閉じる。フィアナは、キリコの声を、忘れないでい たいと思いながら、最後にもう一度だけ、星に目を凝らして、それから、あきらめたように、目を閉じた。
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あてがあるとも、ないとも、どちらとも自分でもわからないまま、キリコは歩き続けている。
相変わらず、銃を肩に、くすんだオレンジ色の気密服を脱ぐつもりも、一向にない。
世界は変わってしまっているようでいて、何も変わっているようでもなく、相変わらず人と人は戦い、殺し合うことにしか興味がないように見える。理由は何 であれ、戦争というものを好む輩は、決して絶えることがないようだ。
キリコは、ひとりだった。
初めてではない。むしろ、ひとりではない方が、キリコにとっては尋常ではない時間の方が長かった。
あの騒がしい3人組、ゴウトとバニラとココナは、今はどうしているのだろうか。どこかで、相変わらず騒々しく、けれど仲良くやり合っているのだろうかと 思って、知らずにかすかに口元がゆるんでいた。
立ち止まって、たった今歩いて来た方を振り返る。通り抜けて来た小さな街の姿が、かすかに見える。そこからここまでは、何もない、剥き出しの岩と地面 だ。
一体、どこへ行くのだろうかと、また正面に向き直って、足はまだ動かない。
どれほど行けば、何かが見えるのだろう。求めているものすら定かではなく、求めているのかどうかすら、確かではなく、正直なところを吐き出せば、何かか ら逃げようとしているのだと、キリコは、ぼんやりと考える。
フィアナはいない。永遠に失われてしまった彼女は、追いかけることもできず、探すこともできない。
戦争にまつわるあれこれに目を奪われた連中の追及の手は、目覚めることのない眠りの中にいたふたりすら放っておいてはくれなかった。
闘いたくはない、戦争なんぞ真っ平だと、兵器に反抗する権利などないというわけだ。
近づく先に、小高い丘が見えた。暗くなる前に、あれを越えられるだろうかと、銃を抱え直しながら、目で距離を測る。
どんなことも、フィアナがいるから耐えられると思ったのだ。
キリコは無表情に、また丘を目指して歩き出した。
爪先を前に出すたびに、足元に砂埃が舞い上がる。真っ白に汚れたブーツを見下ろして、どこかで、死体も血も流れて来ないきれいな川でもあれば、水を浴び たいと思った。
シャッコは、あれからずっと、ゴウトたちと一緒にいたのだろうか。それとも、結局は戦いの中でしか生きられずに、傭兵稼業に戻ったのだろうか。
向かう先で、彼らの誰も見つかるとは思ってはいない。たとえ見つかっても---彼らは一体、今生きているのか---、声を掛けることはすまいと、キリコ は考えている。
自分に関わると、ろくなことにはならないと、自嘲を込めて思いながら、それでもフィアナなら、わたしは、あなたに出逢うために生まれたのよと、あのひど く穏やかな笑顔で言うだろう。
宇宙が滅びても、フィアナさえいれば、他のことはどうでもいいと思えた。今では、何もかもが手遅れなのだとしても。
何を憎めばいいのか、もう摩滅してしまった感情の中には、そんな激しいものはどこにも見当たらず、キリコはただ、ひとり歩き続けるだけだ。
いつか、足を止めて振り返って、こんなに遠くまで来てしまったと、はるか彼方を見て思うなら、それこそが、キリコが求めているものなのかもしれない。
何かに背を向けて、ただ、ひたすらに歩き続けた先で、何を求めているわけでもなく、どこかとあてもないまま、足を動かし続けることだけが目的のように、 フィアナのいないこの世界で、もうキリコが求めるものなど、あるはずもない。
丘を越えて、どこかの岩陰で今夜も休むことになるだろう。固い地面に敷いた、1枚きりの薄い毛布に体を横たえて、眠りに落ちるまで考えるのは、またフィ アナのことだけだ。
夢を見ることすらない眠りは、体を休めるためだけのものだけれど、それでも、せめて夢の中でだけでも会うことはできないかと、キリコは、フィアナの面影 を手元にたぐり寄せる。
歩き続け、疲れて眠ったそのまま、目覚めることのない朝を待っている。その朝には、きっとフィアナが、訪れてくれることだろう。
キリコは、どこか遠くを目指して---そしてあてもなく---歩き続けながら、目の前に、フィアナの幻を見ている。
はるか彼方、フィアナが先に去ったどこかへたどり着くために、キリコは、微笑みを忘れ去って、歩き続けている。
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シャッコが、砂モグラを焼くために起こした炎を、他に何も見るものもない砂漠で、キリコはじっと見つめていた。
暖を取るため、腹を満たすため、凶暴な獣を追い払うため、ひとは、炎を使う。そして、焼き払い、焼き尽くし、焼き殺すためにも、炎を使う。
燃え上がる炎の中で、断末魔の悲鳴を上げながら、焼け死んだあれは誰だったろうか。ひとりやふたりではない、何百人も、あるいは何千人も、そんなひとた ちを見てきた。
それを見つめるキリコの幼い瞳は、炎に真っ赤に染まって、ほんものの炎と、そして怒りの炎に、もう絶えることさえなく、燃え上がった。
髪や皮膚や指先を、ちりちりと焦がす炎。その中で死に至ることがどれほどの苦痛か、自分の身に思い知ることは、幸いにもなかったけれど、それがよかった のかどうか、今はもう定かですらない。
己れが一体何なのか、それを知るためにここまでやって来て、それを知りたいと思いながら、同時に、そんなことはどうでもいいと、どこかでする声もある。
何かが、自分をここへ引き寄せたのだと、それを強く感じていた。
くせのある、肉の焦げる匂いに、キリコは意識はせずに眉を寄せた。
ここはほんとうに、来たこともない場所だ。ここに、今シャッコとふたりでいる不思議を思いながら、肉からしたたる脂で、時折高く立ち上がる炎にまた視線 を据えて、それから、こんなところで、こんなことを考えていられるのも、こいつがいるせいだと、炎を挟んで向かいにいるシャッコを、ちらりと見る。
これはつまり、信頼というものなのだろう。
互いに、自分のことは自分で守れる、けれど危険な時には、おそらく助けてくれるだろうと、そう口にはせずに、互いに知っている、関係。
戦場ででしか築き上げることのできない、その信頼とやらを、けれどいちばん求めていたのは、キリコかもしれなかった。
今キリコの身内にあるのは、焦りと疲れだ。どれほど先へ進もうと、その影すら見せようとはしない何か---それが存在するのかどうかさえも、キリコは知 らない---に導かれて、けれど、自分がどこへ向かっているのか、それすら定かではない。
ひどく、戸惑っている。珍しく、弱音めいたものを、胸の中に吐き出しながら、それでも、前へ進まなければならないのだと、自分に向かってつぶやいてい た。
何のためにと、その問いは、胸の奥の闇の中に消えた。
シャッコが、焼けた肉を、微笑みながらキリコに手渡す。
大きな肉の塊まりに、少しばかり辟易しながら、まるでそうなることをずっと以前から定められていたように、自分の傍にいるこのクエント人に、キリコは言 葉にはせずに感謝した。
こんな気分に、わずかの間とは言えひたっていられるのも、つまりは、ひとりではないからだ。
仲間か、と肉の陰に隠れて、小さく唇を動かした。
目の前の炎が、その激しい紅の色を、少し和らげたように思った。
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汗が完全に冷えてしまう前に、服を身に着けるつもりで、ベッドから抜け出して、けれど完全には起き上がらずに、粗末なベッドの端に腰を掛ける。
じっと動かないキリコの背中に、どうしたと、シャッコが腕を伸ばしてきた。
横顔だけを見せて、自分と同じように裸のシャッコに、いつもと同じ視線を投げると、キリコはまた正面に顔の位置を戻す。
「・・・別に、何かが変わるというわけでもないな。」
感情だけ洗い晒してしまったような声も、いつもと変わらず、そんな自分をひどく醒めた目で見つめている自分に気がついて、キリコは思わず背中を丸めた。
シャッコが大きな体を起こし、ベッドがきしむ。振り返れば、薄闇の中に、膚の白さが浮く。さっきまで、重ねていた膚だ。
淋しいとか、好奇心だとか、うまく説明はできなかったけれど、そうしてもいいと思って、そうしたいと思って、それはきっと、シャッコだからなのだとわ かっていて、だからキリコは、抱き合えば何かが変わるかと、心のどこかで期待をしていた。
人らしさというものを、自分の中に見つけたかったのかもしれない。人工的に作られたものだと、自分のことを知るのが、恐ろしかったのかもしれない。
拒まなかったシャッコを利用したことになるのかと、それを自嘲して、キリコは知らずに唇の端を上げていた。
「こんなことで変わるほど、単純なおまえではないだろう。」
それが、この男の自分への評価かと、キリコは思わず照れくささに肩をすくめるという、珍しく歳相応の仕草を見せた。
「そんなことはない、おれは単純な男だ。寝て、食べて、戦う、それだけだ。」
シャッコが薄く笑う。大きな体に似合わず、思いやりばかりで触れてきたシャッコの手の動きを、キリコは思い出す。
触れ合うことに心地良さを見出してしまっては、振り向かずに戦いの中に飛び込んでゆくことができない。だから、思い煩うのはやめようと、また振り向い て、シャッコを見つめた。
これはただ、信頼のあかしというだけのことだ。一緒に戦って、これほど言葉のいらない仲間もいなかった。
「おれは、そういうおまえが好きだ。」
まっすぐにキリコを見返して、シャッコが言う。言葉通りの意味だと受け取って、キリコは表情も変えない。
「おまえの言う好きは、こういうことじゃあないだろう。」
うなずきもせず、否定もせず、シャッコはただ肩をすくめて見せた。
こうなってしまえば、崩れる何かがあると思った。自分の中で、壊れて、崩れ落ちるものがあるのだと、かすかな恐怖とともに信じていた。
けれど、何も変わらない。キリコは、自分の掌を見下ろした。
寒いと、肩を震わせてから、床に脱ぎ散らかした服を拾おうと、体をかがめて腕を伸ばす。
キリコの肩を、シャッコが止めた。
「行くな。」
手にしたのは、銃のホルスターだったけれど、それを持ったまま、いつもの無表情でシャッコに振り返ると、シャッコがまた同じことを言った。
「まだ、行くな。」
まだ、と言ったのは、キリコへ与えた逃げ道だ。
数拍、考えているふりでシャッコを見つめた後で、キリコは、素直に銃のホルスターを床へ戻すと、シャッコの腕に引かれて、またベッドの中へ戻る。あたた かなシャッコの隣りに、すでに冷えてしまっている足先を滑り込ませて、そうして、自分を抱き寄せる腕に、もう逆らわない。
なにも崩れることがないのは、自分の中がすっかり固まってしまっているからではない、そこに、何もないからだ。キリコは、考えるのをやめて目を閉じた。
戦い以外で人と関る術を持たないなら、こんなことは今だけだと、そう思いながらシャッコの背中に腕を回す。
崩れる何も持たない自分は、ほんとうに人なのだろうか。かすかな恐怖に負けて、シャッコにしがみつくと、キリコはもれる声を殺した。熱さに溺れる頭の中 で、冴えかえる一点で、耳障りな笑い声が聞こえたような気がしたけれど、耳をふさぐ代わりに、シャッコの息に耳を澄ます。
地の底で、夜も昼もない闇の中で、触れ合うものだけが確かだった。
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