09 - Hanging out with friends / 友達と遊ぶ
今ではすっかり馴染んでしまった仕草で、ウォッカムがペールゼンのミラーグラスを取り上げる。何の隔てもなく見るこの男の酷薄な顔は、今ひどく愉快そうな笑みを浮かべて、ペールゼンをあばき出すこの最後の仕上げが、ウォッカムは楽しくて仕方がないらしい。MRCへ入れられ、拘束され、また尋問が始まる。強力な自白剤が、ペールゼンの、彼自身も知らない深層を剥き出しにする。皮膚を裏返しにされ、体の中身をさらけ出されるような目に遭いながら、全裸の素肌に触れる、陰惨な尋問機の内張りは、上質のサテンのようにペールゼンをあくまで優しく包み込んでいる。
ペールゼンと言う男の隅々を明らかにし、ウォッカムはそのひとつびとつを顕微鏡の下で眺めるようにして、そうやってペールゼンの脳細胞の中までこじ開けて、ペールゼンのあらゆる部分へ侵略してゆく。
そうやって受ける支配を、けれどペールゼンは意外なほど冷静に受け入れていた。
自分すら自覚のない、心の内の奥深くを、ウォッカムがわざわざ覗き込んで取り出して分析して、ペールゼン自身に知らせてくれると言うことは、ペールゼンにはほとんど思いやり深い行為のように思える。
皆が思っているほど、ペールゼンは秘密主義でもほのめかしの好きなだけの男ではなかったし、それでも人に易々とは打ち明けない胸中を確かに抱え込んではいて、それを、ほとんど懺悔のように自発的に吐き出す必要もなく、ウォッカムがわざわざ拷問までして暴き出してくれるとは、自分は何と幸運な男かと、そんな風に思っていることも、尋問の合間に明らかになるのだろうか。ペールゼンは、自白剤の注入されるわずか前、不敵に薄い笑みをこぼした。
自分の知らない自分を、そこに取り出して眺めることができる。ペールゼンは、繰り返される苦痛の再訪を予期して、縛りつけられている手をぎゅっと握った。それでも、自分の秘密の明かされる不思議な安らぎにも襲われて、口元の笑みは消えないままだった。
やれ、と、どこか楽しげな、けれど十分に無慈悲なウォッカムの声が、静かに聞こえた。
背の高い椅子に坐っていた。ごてごてとした装飾はないのに、肘置きの感触や腰の落ち着き具合が心地良く、腕の良い職人に作らせた物か、ともかくもむやみに誰でも坐れると言う類いの椅子ではないのだと、なぜかペールゼンは知っていた。
玉座と言う言葉が浮かんで、そう思った自分を、ペールゼンはひとりで笑った。
軍帽、ミラーグラス、ロングコートもそのまま、革手袋もきっちり着けたままだ。ギルガメス連合メルキア軍ヨラン・ペールゼン少将として隙なく装って、自分の手を包む革の柔らかな感触に、ミラーグラスの奥でこっそり目を細め、ペールゼンは肘置きの丸みを撫でるように指先で味わう。あたたかくもなく冷たくもない、つるりとした塗料を塗られた木肌の、触れるうち自分の体温にぬくまってゆくに違いないそのなめらかさから、ふと心がどこかへ流れ出してゆくような気がする。
椅子の坐り心地に、常の冷静さとは不似合いに放心し掛けたところで、斜め後ろから不意にブーツの足音が響いた。
すっと、ペールゼン自身の影のような自然さで、左側へ人影が差し、軍帽のぶ厚いつばの丸みとミラーグラスの縁の間からちらりと流した視線の先に、レッド・ショルダーの制服のキリコが立っていた。
きちんと、あの青い髪を覆って、赤いベレー帽の角度も規則通りに、埃と機械油の匂いの染みついた耐圧服の方を見慣れているペールゼンに、このキリコの姿は意外なショックを与え、ペールゼンは思わず自分の心臓の辺りを、革手袋の手で押さえそうになる。
正装とも言えるこの姿は、キリコを実際の年齢以上に大人っぽく見せ、実際には彼がまだ17、8の、青年と言うのも憚られそうな幼さなのだと言うことを、ペールゼンに一瞬忘れさせた。
この姿を見たくて、キリコをレッド・ショルダーに入れたわけではあるまいと、思わず自分自身に問いながら、いや、ほんとうのところはそうだったのかもしれないと、自分のその答えを酔狂とも思わず、ペールゼンは前方を見据えたままのキリコへ、当てた視線を外さない。
リーマンはどこにいるのだろう。近くにいれば、自分をこうしてひとりにしておくはずがない。護衛なら、せめて少尉辺りの誰かを送って来るはずだ。キリコを眺めたまま、ペールゼンは考え続けている。
こんな、触れそうな近さでキリコを眺めるのは、もしかして初めてだろうか。監視と観察をし続け、研究の対象としてのキリコを、学者の興味と好奇心の目で眺め続け、それが、別の何かに変質してしまったのは、一体いつのことだったろう。
リーマンはどこにいる、とペールゼンはまた思った。
誰かがこの場に現われてくれなければ、自分を押し止(とど)められる自信が、ペールゼンにはなかった。こんな、高く組んだ膝の先にキリコの体の触れそうな近さに、一体誰がこんな姿のキリコをペールゼンの傍へ送って来たのだろう。
キリコはひと言も発しない。ペールゼンの方を見ようともしない。素肌のひと筋も見せないレッド・ショルダーの制服の、そのストイックさが逆にキリコの全身をペールゼンの脳裏で露わにして、筋肉の形のはっきりと見える皮膚の薄いその体を、観察者として眺めたことなど無数にあったのに、今はその観察者の貌(かお)を、ペールゼンは失い掛けている。
血が、逆流してゆく。急激に上がった体温に自覚があって、ペールゼンは心臓の発作でも起こしたのだろうかと、もう若くはない自分の年齢に生まれて初めて怯えながら、助けを求めるように、またキリコを見上げた。
それでも、気づいているのかいないのか、キリコはペールゼンを見ない。ここへ行けと言われたから来ただけだと言いたげに、ここにペールゼンがいることすら視界に入らないように、相変わらず前方を見据えて、視線すら動かした様子がない。
椅子から背が浮き、この椅子は、坐った者が少々動いたところできしりとも音は立てず、それでも揺れた空気にやっと気づいたのか、キリコがじろりと青い瞳をようやくペールゼンの方へ流した。
「・・・なぜ、おまえがここにいる。」
声が震えないようにと、みぞおちに力を入れ、ペールゼンはまた椅子へ伸ばした背を戻す。少将の威厳を取り戻して、見下ろされていても、眼の力ではキリコには決して負けなかった。
「おれを呼んだのはおまえだ、ヨラン。」
呼ばれ慣れている姓ではなく、名で呼ばれて、ペールゼンは文字通り飛び上がるほど驚いた。
長い間、ペールゼンを名で呼べるような誰もおらず、それを許しもしなかったのは他でもないペールゼン自身だ。それなのに、よりによってキリコに、狎れ狎れしく名で呼ばれ、驚愕と一緒に跳ねた心臓の、けれどそれは奇妙なときめきのせいでもあった。
「おまえが、ここにおれを呼んだ。だからおれはここにいる。」
親しげに名を呼ぶ割りには、声も態度も冷たいほど素っ気なく、それでもペールゼンにとってはお馴染みのキリコのこんな素振りは、今の驚きを必死で静めようとしている彼にはむしろ好都合で、これはつまりキリコの反抗的で誰に対しても無礼な態度の表れのひとつだと解釈しながら、それでもヨランと呼んだ時のキリコの声を、ペールゼンは胸の中でずっと繰り返し続けている。
そうして、その声を頭の中で思い出す必要もなく、キリコがまた口を開いた。
「ヨラン、おれは行くが、おまえはどうする。」
「どこへ?」
咄嗟に問い返すと、キリコが今度ははっきりとペールゼンを首を折るようにして見下ろして、なぜかにっこりと微笑んだ。
監視の間には見たこともない、初めて見るキリコの笑顔だった。さっき初めてヨランと呼ばれた時よりも、さらに激しく胸が鳴る。組んでいた足を外し、そうと自覚もなく、ペールゼンは飛び上がるように椅子から立ち上がって、今まさに自分の前から立ち去ろうと動き出したキリコの、その腕を掴んでいた。
「どこへ行くキリコ。私を置いて、どこへ行く気だキリコ。」
革手袋が、ぎゅっと音を立てる。腕を掴まれたまま、キリコはペールゼンを肩越しに振り返り、そしてもう一方の手で、ひどく優しくそのペールゼンの指先をほどいてゆく。
「おまえが呼べば、おれはいつでもここに来る。」
「だが──私は、おまえを・・・。」
自分が何を言うつもりか分からないまま口を開いて、そしてそれきり舌が動かなくなる。呆然と自分を見つめるだけの、軍人としての矜持を取り去ってしまえば初老へ近づきつつあるただの男を、キリコはまた、微笑んで見つめ返して来る。
「おれをここへ呼んだのは、おまえだ、ヨラン。」
それが何もかもへの答えだとでも言うように、妙な爽やかさでそう言い捨て、キリコはペールゼンの最後の指を自分の腕から外し、名残り惜しげな横顔を見せながら、ゆっくりとそこから立ち去ってゆく。
「ほんとうに、ほんとうに、私が呼べばおまえは来るのか? それは確かなのかキリコ。」
自分から去るための単なる口実ではないかと、思いながら、空気の中に溶け込んで消えてゆくキリコの背中へ向かって、ペールゼンは震える声を投げた。
「会いたければ、おれを呼べばいい。それだけだヨラン。」
キリコの、自分を名を呼ぶ声が、恐ろしいほど甘やかに胸を満たしてゆく。血管を、あたたかく流れてゆく自分の血の色を、ペールゼンははっきりと見たように思った。
「心臓が止まりました! これ以上は無理です!」
メンケンの声が、ややヒステリックに金属の壁に響く。ウォッカムは思わず大きく舌打ちをして、機械を止める指示を出した。
さっきまで全身を反り返らせて苦痛に呻いていたペールゼンは、今は微動だにせず、それでも皮膚の色は特には変化もないまま、強心剤に死に掛けた体はすぐに反応して来る。
しぶとい男だ、とどこか喜びを感じながら、ウォッカムは歪(ひず)んだ笑みを唇の端に浮べて、徐々に正気を取り戻し始めるペールゼンをガラス越しに見下ろしていた。
まだ完全には元通りではないペールゼンの、常に固く結ばれている唇が今はわずかに微笑にほころんで、そして指先が、何かを撫でるように動いている。
弱々しく動いた唇がかすかに発した声が、私のキリコと言ったのは、その場の誰の耳にも届かなかった。