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四畳半 - 冷蔵庫に豚汁

 コンビニ弁当とビール片手に、鍵をがちゃがちゃ言わせて玄関のドアを開ける。真っ暗かと思えば、玄関の奥はかすかに明かりが差して、バーコフがきっと遅くに帰って来るゴダンのために台所の明かりをいちばん小さく点けたままにしておいたのだと思った。
 ってことはいねえのか。
 片手で安全靴の紐を半端に解き、かかとを蹴るようにして脱ぐと、後ろも振り向かずにごろんと玄関に放り出して、ゴダンはどすどす框に上がった。
 留守の間に洗濯に来ると言っていたから、洗濯機を回し、乾燥までして、バーコフのことだからきれいになった洗濯物はきちんとたたんで持って帰る。
 自分の洗濯のついでか、台所の布巾と風呂のタオルが取り替えられてあった。
 部屋も何となく片付いていて、小さな卓袱台の上はきれいに拭いてあったし、心なしか台所のシンクもいつもより銀色が鮮やかに見えた。
 ちっと、なぜか意味もない舌打ちが出て、ゴダンは着替えもせずに買い物のビニール袋を卓袱台の上に置くと、がさがさと中身を取り出した。
 片手で割り箸を取って、もう一方の手で上着を脱ぎながら、卓袱台の上に出しっ放しになっている醤油差しの下に、紙切れが置いてあることに気づく。
 「ああ?」
 ひとり暮らしだと、思ったことがそのまま言葉に出る。語尾を下品にひね曲げて、ゴダンは割り箸を口にくわえ、上着からは片腕だけ抜いて、その紙片を手に取った。
 "洗濯、助かった。冷蔵庫に豚汁がある。またな。"
 角がきっちりとした字だ。大きめで強い筆跡は、学生の頃散々見た教師の板書の字を思い出させる。そのまま、この男は元教師だ。
 ふん、と紙片を畳のどこかに弾き飛ばし、ゴダンはよっこらしょと腰を上げて冷蔵庫の方へ行った。
 行く途中で上着を完全に脱いでその場に放り、バーコフが見たらハンガーに掛けろと声を掛けるところだ。
 中身は大抵ほとんど空の、単身者用の小さな冷蔵庫に、確かに書き置きの通り、大ぶりの椀がふたつ、サランラップを掛けられて収まっていた。ひとつを出して、そのまま冷蔵庫の上に据えてあるレンジに入れた。
 あたたまるまで、ほのかに明るく照らされてくるくる回るその中身をただ眺めて、洗濯の間にここで作ったのだろうこの豚汁の、けれどきれいにされた台所にその痕跡はなく、作った当人のバーコフは作ったついでに夕飯をここで済ませて行ったのかどうか、ゴダンはわずかに唇の先を尖らせる。
 電子音が鳴って、ゴダンは熱い椀を用心しながら取り出し、指先に載せるようにして卓袱台まで運ぶ。途中、かかとで脱いだ上着を踏んだけれど気にもしない。
 座布団もない畳に直に坐って、ゴダンは今度こそ遅い夕食を始めた。
 湯気の立つ豚汁から、かすかに甘い味噌の香りが立ち、それに鼻先を突っ込むようにして、赤いにんじんと豚肉を一緒に口の中にかき込んだ。
 大根とこんにゃく、ゴダンが知っている豚汁には必ず里芋が入っていた。これにはそれはなく、今はごぼうも入っていない。大方買い忘れたのだろう。
 うまいと思ってから、数秒迷って、醤油を差し足した。
 味を自分の好みにちょっと変えて、改めて豚肉を口の中に放り込む。柔らかくて美味い。一緒に、弁当の飯を口の中に入れた。
 とんかつ弁当にしようかどうか迷ってから、照り焼きチキン弁当にしたのだ。豚肉がかぶるところだったと思いながら、鶏肉の大きな1片を丸ごと口に入れて、わしわし噛む。米と味噌と鶏肉のタレが口の中で一緒に甘い。
 合間に、ビールを飲む。平日は500ml1本だけと決めている。ちびちび飲みながら、時々米を避けて豚肉だけ食べる。
 大根に出汁が染みてうまい。それほど時間を掛けたわけでもないだろうに、これなら弁当を買って来なくても、飯だけ炊けば良かったなと、もうほとんど空の弁当をちらっと見て思った。
 待ってりゃよかったんだ。
 さっき放った書き置きの紙片はどこかと、畳の上に視線をさまよわせて、紙の角が触れる辺りに積まれた数冊の本に目を止める。
 バーコフの本だ。ここにいる時に読むためにと、何やらゴダンにはわけの分からない題名の、むやみに装丁の豪華そうなぶ厚い本だ。
 待ってりゃよかったんだ。またゴダンは思った。
 弁当は空になり、豚汁も、最後の1滴まで飲み干して、椀の内側についた小さな豚肉と大根のかけらを丁寧に箸の先につまみ、舐めたようにきれいにしてから、ゴダンは遠慮もなく大きなげっぷをした。
 それに咎める視線を投げるバーコフはいないし、ゴダンが片膝立てた姿勢でビールを飲んでも、小言も飛んでは来ない。
 へん、と鼻の根にしわを寄せてから、ゴダンはバーコフの本にまた目をやり、それから、自分の隣りの畳の縁(へり)へ、ぶ厚い掌を乗せた。
 バーコフがそこに坐っていたかもしれない。乾燥機の止まるのを待ちながら、ここで本を読んでいたかもしれない。
 残っているはずもないぬくもりを探って、ゴダンは畳の上へ手を滑らせた。それほど毛羽も立っていない畳が、滑らかに掌の下に滑る。
 もう一方の手の中のビールはまだ十分に冷たく、そして掌のその下は、かすかにあたたかいような気もして、もう1杯残っている豚汁は明日の昼にするか夜に食べるかと、どこか弾む気分を隠せずに考えていた。

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