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四畳半 - 薄味に塩

 レジを〆て、また明日と、既に半ばまで下げられている表のシャッターをこれから全部下ろすのだろう店主へ声を掛けて、バーコフは裏から書店の外へ出た。
 8時に閉店の店の後始末をして、8時半を少し過ぎたところだった。肩をこすりそうな路地をぐるりと抜け出て表側の通りに出ると、車道との仕切りのガードレールに作業服のゴダンが寄り掛かっていた。
 「よォ。」
 「よお。」
 ゴダンのいつもの仏頂面に、バーコフは思わず薄く笑みを返して、入り口には背を向ける形になる店内のレジから、人待ち顔を隠していたのかどうか、中からは見えにくい位置にいるのを、まったくと内心でだけ苦笑する。
 「明日、早いんじゃないのか。」
 ゴダンの仕事を気にして、目の前へ寄りながら言うと、
 「明日は現場がねえ。何かやらなきゃいけねえ書類があるってんで、会社の方に昼すぎに来いとさ。」
 やっとガードレールから立ち上がって、バーコフに当てた視線が下目になる。ゴダンはすっとそれを外して、
 「──帰ろうぜ。」
 と、路面のどこかへ落とすように言った。
 「オレん家に。」
 バーコフの鼻先でもう肩を半分回して、ゴダンは先に歩き出す。バーコフは、もう1回やれやれと言う表情を浮かべて、ゴダンの後を追った。
 「メシはどうした。」
 「まだ食ってねえ。おまえのこと、待ってたからな。」
 「何か食って行くか?」
 「・・・早く帰りてェ。」
 ゴダンは広い肩を揺すって言い、
 「あそこのラーメン屋で弁当買って行きゃいいだろ。」
 右前方、車道側をあごでしゃくり、肩を並べてもバーコフの方は見ない。
 バーコフはそんなゴダンを軽く見上げて、代わりのように据えた視線を外さない。
 ここからゴダンのアパートへは、少しだけ遠回りになる小さな中華料理の大衆食堂のことだ。ひとり暮らしの男が周囲に多いのかどうか、言えば料理を持ち帰りにしてくれる。弁当にできると書いてもいないし店の人間も言わないけれど、常連たちは知っている。そんな店だった。
 八宝菜にするか酢豚にするかと、バーコフが歩きながら考えていると、ゴダンがわずかに体を寄せて来て、バーコフの肩に自分の肩を当てた。それでも前方からは目をそらさずに、
 「豚汁、うまかったぜ。」
 「あ?」
 こちらも見ずに突然言われて、バーコフがちょっと頓狂な声で答える。
 それからやっと、冷蔵庫に残して来たあれかと思い出して、そうして、バーコフは頭の中でだけ、たった今ゴダンがぶたじると言ったのを、とんじると言い直していた。
 「そうか、なら良かった。」
 バーコフが微笑むと、ゴダンがやっとちらりと瞳だけ横目に動かして来て、
 「・・・ちぃっと、味が薄かったがな。」
 鼻の根にわざとしわを寄せて言う。嫌味に見せ掛けているだけだと知っていても、バーコフは思わず言い返さずにはいられない。
 「おまえが濃い味過ぎるんだ。少しは健康に気を使え。」
 「体使うと塩がいるんだよ。」
 「だったら塩でも食ってろ。」
 いつものじゃれ合いだ。バーコフの料理が薄味過ぎるとゴダンが言い、醤油やら塩やらを足すゴダンに向かってバーコフが、塩でも食ってろと悪態を返す。お互い悪意も害意もない。その証拠に、バーコフがいる時にゴダンが作る料理は、バーコフの好みよりはわずかに濃いにせよ、味を変えるほどでもない。
 ちゃんと気ぃ使ってんのか。驚いたけれど表情には出さず、意外とうまいなとだけ、その時バーコフは言った。
 信号のない横断歩道を渡って、もう暗い商店街を外れ、酒を飲ませる店ばかり並んだ通りを背にして、ふたりは人の通らない道を歩いてゆく。
 バーコフはさり気なく上着のポケットから右手を出し、軽く曲げた肘でゴダンをつついた。ゴダンはちょっと肩をすくめ、左手をポケットから出し、ふたりでそっと小指の先だけ触れさせる。
 影も見えない路面はただ黒々とふたりの目の前に伸びて、スニーカーと厚底ブーツがじゃりじゃりこすれる音が響くだけだ。
 「ビールあるか。」
 「おう。」
 右手の小指と左手の小指の先が、言葉と歩くリズムとは違う間隔で、触れ合ったり離れたりしていた。

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