四畳半 - シャツに染み
持ち帰った弁当にビール、食べている途中でゴダンが立ち上がり、風呂の方へ消えた。湯を出しているらしい音が聞こえて、また黙ってゴダンが戻って来る。バーコフはちらっとゴダンを見て、それからまた自分の夕食の方へ意識を戻す。次は風呂と言うことは、すぐには帰るなと言うことだ。もちろん少し落ち着いてから──ビールくらい飲み終わってから──帰るつもりだったけれど、風呂の湯の出る音にそんな気も失せて、自分のシャツの下にもぐり込んで来るゴダンの、少し荒れてざらついた指先を思い出して、思わず舌の上に乗せた米粒にむせそうになった。
「なんだ。」
鋭くゴダンが訊くのに、何でもないとビールのプルトップを開ける振りでごまかした。
帰ったら読み掛けの本を読み終わってから寝るつもりだったけれど、この様子では明日の夜と言うことになりそうだと、散らばった米粒を箸の先に集めながらバーコフは思う。
明日の朝はゆっくりだと、そう知った時からバーコフを連れて帰るつもりだったのだろう。ゴダンの思惑に乗せられて、それが嫌と言うわけでもなく、それでも自分の日常がわずかに乱される感覚にまだ慣れず、バーコフは心の片隅でだけ、ちょっと眉の間を寄せた。
弁当はさっさと空になり、もうビールを半分くらいは空にしているゴダンを置いて、バーコフは素直に風呂に向かう。
一緒に入るかと軽口を叩けるほどはまだ親密ではないくせに、このアパートの浴室が大きな男ふたりでバタバタできるほど広くないことは知っている。
それでも、無理をすればふたり一緒に収まることはできそうな浴槽だったけれど、力仕事のゴダンに風邪を引かせるわけにも行かなかった。
何だ、オレはこいつと一緒に風呂に入りたいのか。
1秒も変化のないような日々を求めるくせに、突然乱入する非日常に魅かれてもいる。どちらがどれだけ自分にとって大切なのか見極めがつかないまま、バーコフは入れたばかりの湯へ裸の体を浸けた。
髪は洗わずにさっさと出て、脱いだばかりの下着をちょっと顔をしかめながら着け直して、
「上がったぜ。」
と、向こうに向かって声を放ると、おうと意外に近い返事が来て、すぐにゴダンが入って来る。
湯気の満ちた脱衣所で、バーコフがまだいるのも気にせずに服を脱ぎ始めるのに、バーコフはちっと小さく舌打ちしてすぐにその場から立ち去った。
洗濯機の上に脱いだ服を放ったらしい、金具の当たる固い音がして、初めてゴダンと寝た時の、床に脱ぎ捨てた服を蹴って、がちゃりとベルトが音を立てた時のことを思い出す。
畳の上だったから、後で膝が少し痛かった。あんな風に突然の、騒がしいやり方にはあまり縁がなく、順序もへったくれもなく自分にむしゃぶりついて来るゴダンに、ただ合わせただけのつもりでいて、自分は案外そんなゴダンの気まぐれな、けれと確かにある熱っぽさを気に入っているのだと、やっとビールの缶を開けながら考える。
すでにぬるくなっている液体が、泡を弾けさせながら喉を通り、その刺激をまるでゴダンみたいだと思いながら、バーコフは唇の端をぐいと手の甲で拭った。
冷たい布団の中に引きずり込まれるように、卓袱台の上をざっと片付けたけれど布巾で拭いておくことは忘れたのを気にしながら、バーコフは唇に噛み付いて来たゴダンをやんわりと押し返して、次は柔らかく自分の唇を押し当てた。
下手なわけではなく、単に性急なだけだ。相手の状態を読むやら思い図るとやら言う機能はゴダンにはないらしく、それでも触れる場所が的確なのは小憎らしい。
欲情と好意がイコールで結ばれているゴダンの、その分かりやすさが逆に新鮮ではあった。欲情だけではないのは、その振る舞いで分かる。惚れているとお互いに言い合うことはなくても、ビールを差し出す時の手つきや、風呂から上がって自分を眺めて来る時の目つきや、そんな些細なことで、ああこいつは自分に惚れてるなと、自惚れではなく分かる程度に、バーコフも幾人かそれなりに親密な関係を経て来てはいた。
もっとも、最後のそれが長く続き過ぎて、去られた後に空いた胸の穴の大きさに自分で驚いてから、そこへすっぽりと、滑り込むように入り込んで来たゴダンの、思い出など軽く吹き飛ばすような存在感に、何より驚いていた。
自分と似たタイプが好きなのだと思っていたのに。大学を出て、紙と向き合うのが日常で、日焼けとは縁のない、一緒に行くと言えば本屋か美術館で、どこかに泊まる時には眼鏡の置き場所をまず決めなければ落ち着かない、そんなタイプが自分の好みだとばかり思っていたのに。
ゴダンの下で背中を反らせながら、バーコフは頭の片隅で考え続けていた。
汗の匂いが自分に覆いかぶさって来る。それは不快ではなく、むしろ欲情をそそって、後ろから繋がるゴダンを、筋肉の固まりのような腿の裏側へ手を添えて自分の方へさらに引き寄せて、バーコフはシーツに額をこすりつける。
背中と胸は触れ合わず、ゴダンの声だけがこちらに降って来る。
相性の問題かどうか、この形はそれほど長くは続かずに、錠前から鍵でも抜くようにゴダンがバーコフから躯を外し、今度はバーコフが体を起こした。
潤滑剤のゼリーだけのせいではなく、濡れて光るコンドームが奇妙に可愛らしく、バーコフはゴダンのまだ果てていないそれをちょっと照れを含んで見下ろしながら、自分のそれへコンドームを着けて、ゴダンの膝裏を軽く持ち上げた。
ゴダンよりは幾分丁寧に入り込んで、きちんとゴダンの様子を伺いながら先へ進む。どこに触れても筋肉ばかりのゴダンの、そこもまるで筋肉の集まりのように、全部押し込みながら、バーコフは正面からゴダンを抱いた。丸首のシャツの跡がくっきりと、暗い中でも分かる日焼けとの境い目に、唇と舌を押し付けた。
バーコフよりもぶ厚いゴダンの躯が、下で波打つ。それを読むのに、たまたまバーコフが長けているのかどうか、ゴダンの躯が内側と皮膚の表面で応えて来るのに、バーコフは自分の動きを巧みに合わせていた。
動かす内に、そこ、とゴダンが短く言う。口走っていると意識もないのか、そうしながらバーコフにしがみついて来て、声を殺す努力もせずに、鎖骨の辺りへ、憚らない声と息が当たり始める。
こちらの方が、ずっと長く続く。バーコフは耐えて、ゴダンは耐えずに、長い手足を時々ばたつかせて騒々しく暴れ、それでもバーコフに絡みつく躯はそのままで、声を塞ぐのに唇を重ねると、柔らかく舌を伸ばして来る。
ゴダンのかかとがバーコフのふくらはぎや腰を蹴って滑り、手指はそれほど器用でもないくせに、足指の方は、奇妙ななめらかさでバーコフの足裏を探って来た。
くすぐったいからよせと、足の位置を動かすと、それで触れる内側の強さが変わるのか、またゴダンが声を立てる。
短い髪はまだ洗った後の湿りもそのまま、汗とも見極めもつかないまま、バーコフはその生え際へ、自分のあごひげをこすりつけるようにした。
抱いたゴダンの躯が、ひどく熱い。10日振りだからだ。きっとそうだ。この男は、こんな熱い躯を、陽に晒して汗を流すだけで耐えていたのかと、ほんとうにいるとも知れないどこかの誰かへ、バーコフはちりちりと胸の焦げる嫉妬を感じる。
ゴダンが下で喉を伸ばし、バーコフのあごへ自分のあごの先を当てて来た。きちんと整えられているバーコフのひげの先へ、自分のあごの先を埋めるようにして、それから、額と鼻先が触れ合った。
ゴダンに引き寄せられて、果てるのをわずかに先延ばしにしてから、バーコフは、こうやってずっとこいつと抱き合っていられればいいと、深い瞬きの間に、脳天を貫くほど強く思った。
心臓の動きが普通の速さになり、やっと汗が引いてから、バーコフは勢いをつけて布団から抜け出した。
床に脱ぎ散らかした下着の中から、闇にすっかり慣れた目で自分のそれを取り上げて、爪先を差し込んだところで、ゴダンが腕を伸ばして来る。
「──泊まってけ。」
腕を引いて、こんな時にはバカ力を隠しもせず、ゴダンはバーコフをまた布団の中へ引き戻しに掛かる。
「オレは仕事だぞ。」
「30分早く起きりゃ、着替えに戻れるだろ。」
すぐには決められずに、引かれた腕のまま半身をねじった姿勢のバーコフは、ふたり分の体温にあたたまった布団の中にいるゴダンへ、淡く羨望の視線を送った。
とっくに深夜を過ぎた夜道をひとり帰り、冷たい布団にもぐり込んで読み掛けの本の続きを読むのが、今はそれほど魅力的にも思えず、こんな時にはゴダンよりも子どもっぽくなる表情で考え込んだバーコフの腕を、またゴダンが引いた。
「早く入れ。風邪引くぞ。」
バーコフは、ゴダンに無理強いされたからだと言う体をわざと露わにして、足に引っ掛かっていた下着をまた外して放り投げ、ゴダンが持ち上げた布団の中へ身を滑らせて行った。
胸が近づくと、ゴダンの長い腕が背中に回り、10秒ほど後で、ゴダンがあのな、と上の空みたいな声で言った。言った後で、ふた呼吸分間が空いた。
「・・・本だけじゃなくてな、着替えも持って来て、置いとけ。」
バーコフは一瞬にも満たない間に考え込んで、それから、ぐりぐりゴダンの鎖骨へ額をこすりつけて、子どものように布団の中へ顔まで全部もぐり込んでから、
「──ああ、そうだな。」
と、くぐもった声で答えた。
ひとり用の布団──ゴダン用で、少しばかり大きくはある──にふたりで体を寄せ合って、ふたりが混ぜた汗はわずかにアルコールの匂いがして、けれどお休みと言ったゴダンの声は完全に素面だったし、お休みと返したバーコフの声は、いつもより少しだけ湿っていた。