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四畳半 - キャベツにソース

 開いた本を傍らに置いて、乾いた洗濯物を畳んでいると、ばたばたと騒々しい足音と共にゴダンの大きな体が玄関に入って来る。
 三和土にひっそりとあるバーコフの靴に気づいたのは、そこで一瞬気配が止まり、またばたばたと中に上がって来る。
 「よお、来てたのか。」
 「ああ。お帰り。」
 卓袱台を挟んで、向こう側とこちら側、お帰りと言われたゴダンは、ちょっとまぶしそうにバーコフを見てから、なぜか照れたようにむっと唇を突き出し、そこから台所へ姿を消した。
 「何か食ったか。」
 冷蔵庫を開け閉めする音。
 「まだだ。おまえは?」
 洗濯物をちょうど畳み終わり、バーコフはしおりを挟んで本を閉じ、すべてをまとめて部屋の隅へ置く。
 「何も考えずに帰って来ちまった。めんどくせえ、メシ食いに出るか。」
 家主の提案に否はない。バーコフはもう立ち上がって、上着はどこへ置いたかと視線の先に探し始めていた。


 10分も歩けば、駅に近い商店街へ着く。適当に定食を出す店へ入り、腹さえ満たせばいいふたりは、何を食べると選ぶのに時間も掛からず、ゴダンが相変わらず行儀悪く割り箸を口に挟んで割るのを、バーコフは味噌汁の椀を傾けながら上目でちょっと睨む。
 食事時を少し外して、店の中は混んでいると言うほどでもなく、ふたりは黙って米の飯を口に運び、小さく切った、様々な味付けの肉のかけらを口の中に放り込む。
 味噌汁の具はわかめと油揚げに青ねぎがふわふわと浮き、ゴダン向けに、味は少し濃い目だ。わかめをすくいながら、ゴダンは少しばかり、バーコフの豚汁を恋しいと思った。思いながら、ちらりとバーコフを見た。
 「帰りにな、コンビニ寄ろうぜ。」
 まだ口の中に飯を残したまま、ゴダンが言う。
 「何かいるのか。」
 「ビールがもうねえ。」
 ふーんと、興味もなさそうにバーコフが相槌を打つ。必要なのはビールだけではなかったけれど、それについては特にほのめかしもせず、バーコフの薄い反応にちょっとだけ焦れて、ゴダンはわざとテーブルの下でバーコフの靴の爪先を軽く蹴った。
 応えるように、バーコフもゴダンの靴の先を蹴り返して、けれどやはり思ったほどの反応ではなく、ゴダンは残った米を口の中にかき込みながら、らしくもねえ、と胸の中でひとりごちる。
 近頃はいつもこうだ。何と言う理由も思い当たらないまま、バーコフはどことなく気落ちしているように見えて、それをゴダンが指摘すると、日照時間が短いからなと、わけの分からないことを言う。
 にっしょうじかんが何だと?
 一瞬、まじないか何かかと思って、ゴダンは舌を噛みそうに聞き返し、太陽の照る時間が短いだろ、冬だからな、早く春になりゃいいのにな、バーコフは平たい声でそう言い継ぎ、それきりごまかすようにゴダンから顔を背ける。
 ゴダンにはよく分からないけれど、冬になると、寒いとか太陽が足りないとか、そんな理由で、何となく気が滅入るらしい。何だそりゃと問い返しても、気にすんなとバーコフは言うだけだ。
 おまえに話しても無駄だと言われたような気がして、ゴダンはひとり気を悪くしたけれど、ゴダンの不機嫌も目に入らないように、バーコフはただぼんやりと薄曇りの空を見上げるだけだった。
 付け合せのキャベツまできれいに食べて、ふたりは出された皿を空にして店を後にする。
 ゴダンが言った通り、途中でコンビニに寄り、ビールと、その他何やらカゴに入れて、後は白い息を吐きながらゴダンのアパートへ戻るだけだ。
 襟元へあごを埋めて、上着のポケットに両手を入れて、今は半歩分の隙間を空けて、それでも肩を並べてふたりは帰り道を歩く。相手の指先を取るのにポケットから手を出すのが億劫な、今は確かに冬だ。
 頬を赤く染めて、ちらりとバーコフを見て、ゴダンは半歩以上の距離を感じながら、それを自分から縮める気にはなぜかならず、代わりに強引に肩でも抱き寄せてやろうかと乱暴なことを考えるけれど、それも考えるだけで終わってしまう。
 考えている間にアパートに着き、買って来たビールは、冬の凍気に冷蔵庫の必要もないほど冷え切っていた。


 だらだらとビールを飲む間に、交代で風呂に入った後で、もう十分にあたたまった体を、ゴダンはバーコフの方へ近寄せてゆく。
 コンビニで、ビールと一緒に買って来たコンドームの箱を片手に、バーコフがそれを見て苦笑をこぼしながら、いかにもしょうがないなと言う体で、ゴダンに付き合って床に体を倒して行った。
 床で重なった体を、ずるずると滑らせながら布団の方へ近づいてゆく。進行方向に、途中で脱いで脱がせた服が置き去りにされ、奇妙な道標を残して、途中でそれを戻って、ゴダンが部屋の明かりを全部消した。
 ゴダンの長い腕がバーコフの胸の辺りへ回り、がっちりと、けれど奇妙に穏やかに抱きしめて、耳の後ろへ唇の湿りが当たる。
 何だからしくもなく、今夜はゴダンの手がいつになくゆっくりと動いて、丁寧にバーコフの膚を探ってゆく。
 途中でどうにも照れ臭くなって、バーコフは下からゴダンをからかった。
 「何だ、悪いモンでも食ったか。」
 茶化して、自分のペースに引き込もうとするのに、ゴダンは意固地に自分の位置を譲らず、バーコフを胸の下に組み敷いたまま、
 「黙ってしっかりよがってろ。」
 言い返す声が生真面目に真剣だった。
 ちょっと調子を崩して、そう言うなら、せいぜい振りでも感じている風を装うかと、礼儀のつもりでバーコフはおとなしく手足を投げ出す。
 それほど身長が違うわけではないけれど、こうやって上に乗られると、ゴダンは確かに重い。肩も首も胸もぶ厚くて、重なると自分の姿はすっかり覆われてしまうだろうとバーコフは思った。
 ゴダンの下からはみ出す足は、そうなるたびにゴダンに絡め取られて元に戻されて、ゴダンはしきりとバーコフの体を仰向けにしたりうつ伏せにしたり、そうしながら塗り潰すようにあらゆる部分に触れてゆく。膝裏に親指を押し当てられて、思わず声が漏れた。
 いつもならとっくに、バーコフに突進して来て、どうしてもタイミングを合わせられずに、さっさと諦めてバーコフに交代のバトンを手渡している頃なのに、今夜は一体どういうつもりか、先を急ぐ様子もなく、むしろバーコフを焦らすようにやけにのろのろと触れて来る。
 普段ならかすめもしない辺りへ、ゴダンの節の高い長い指が、触れてとどまって動いてそしてまた止まってから触れる。バーコフは何度も背を伸ばし、たわめてねじり、今では振りではなく声を耐えられない。
 何だ一体どこで習って来やがった。
 悔し紛れに、半分近くは必死で冗談を混ぜて、思う。それが事実だったとして、怒るような権利が自分にあるかなと考えてから、あって欲しいと思いついた。
 バーコフはゴダンの腕の中でくるりと体を返し、ゴダンを引き寄せて唇を奪う。舌先を絡め取ってやると、ゴダンが薄目にバーコフを窺い、こちらもバーコフに負けずに目が熱っぽく潤んでいる。
 それでも必死に指先でバーコフのあごひげを探って来て、その下の皮膚へ指先を滑り込ませて来る。あごの線をつたい、耳の後ろを探られて、痺れたバーコフの舌先はゴダンを取り逃がしてしまった。
 互いに、意地の張り合いのように、相手のそれには触れず、ごつごつ体に当たるのを懸命に無視していたけれど、今夜は負けたのはバーコフの方だった。
 腰を軽く持ち上げて、腿の裏辺りにわざとこするように当たるようにしながら、もういいから早く、と言ったような気がする。ゴダンがついに動いて、放ってあったコンドームの箱を取り上げた。
 いつも何となくしっくりは馴染まない躯が、今夜は自分からゴダンの方へ、ほとんど貪るように添ってゆく。知らずに下から動いて、ゴダンが奥へ繋がろうと努力する必要もなかった。
 熱いとあたたかいが両方、一緒になだれ込んで来た。湯にでもひたっているように、ゴダンに抱かれていた。痛みはなく──その痛みも、相手がゴダンなら決して嫌いではない──、どこまでもただ安らいで、何だかしみじみと、こいつとするのは気持ちいいと、バーコフはゆったりと揺すぶられながら考えている。
 胸の前から回って来た手にあごをとらえられ、押し上げられて半分顔をねじり上げると、ゴダンの唇が見えた。少し無理な距離を舌先を伸ばして補って、濡れた唇が時折触れ合って、滑る。滑りながら、重なろうと、互いに少しだけ必死になる。
 胸を反らすと背中にゴダンの胸が近くなり、鼓動が伝わって来る。何かそれは、自分の方へ一生懸命走り寄って来る、足音のようにも聞こえた。


 布団の中が、熱いほどぬくまっていた。汗の冷えるのがいやで、バーコフはぴったりとゴダンに体を寄せ、満足の後のせいかどうか睡眠薬代わりの読書欲も今は湧かない。
 もうほとんど眠りに落ちながら、半ば寝言で、
 「どこで習って来やがった・・・。」
 最中に思ったことが、今になって口をついて出る。ゴダンはバーコフの頭を撫でながら、
 「おまえの真似してみただけだ。他で習う暇なんかあるかよ。」
 突然の、最上級の褒め言葉を、憎まれ口で叩かれて、バーコフは一瞬で目覚めてしまった。
 言ってしまってから、さすがにゴダンも照れたのか、むっと黙り込んで、それでもバーコフの髪に触れる手は止めない。
 しばらく黙って抱き合っていた。ゴダンの、恐ろしく固い鎖骨にひげをこすりつけて、
 「明日の朝、メシどうする。」
 眠たい声を作って訊く。どうでもいい質問だった。ただ、ゴダンの声を聞きたいだけだった。
 「卵でも焼くか。食パンがまだ冷凍庫にあったろ。」
 「そうだな・・・。」
 それきり、また黙り込む。
 躯で交わした会話で、今夜は十分だった。
 ゴダンに抱きついたまま、あったかいなと思いながら薄く微笑んで、バーコフは眠りに落ちてゆく。
 冬の寒さが、今だけはふたりから少し遠い。

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