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四畳半 - 夜空に桜

 春の夜気に誘われて、つい深夜の散歩としゃれ込んでしまった。冷蔵庫に酒がないと、ゴダンが言ったせいもある。
 だらだら、サンダルのかかとを引きずるように歩いて、コンビニでワンカップを6つ買い込み、ひとり3つずつなとまずは1つ目を、コンビニの駐車場ですでに開け、歩きながらビニール袋の中で、ガラスのかしゃかしゃ当たる音がする。
 朧月夜を見上げてふらふら歩くうち、駅とは反対の方向へ向かうと小さな川へぶつかる。橋は渡らずに、曲がって川沿いを歩いて、途中から並木が見事な桜に変わった。
 「満開じゃねえか。」
 ゴダンが、似合わず弾んだ声を上げる。バーコフもつられて見上げて、目を見開いた。
 途中に、猫の額ほどの小さな公園があり、遊ぶためと言うよりも、並木と川を眺めるためのようなその場所に、大柄な男がふたり酒を手に入り込み、ふたりはいたずらをする中学生のように肩をすくめて笑い合った。
 ブランコと滑り台、動物の形をした遊具、入り口の真っ直ぐ先にあるベンチへ、ふたりは並んで腰を下ろす。
 「いい夜だなぁ。」
 ゴダンが珍しくほのぼのと言い、にいっと歯を全部剥き出しにして笑った。
 寒くもない、暑くもない、シャツ1枚にサンダルの格好に空気はちょうどよくなまあたたかく、酒の酔いも頭をちょうどぬくめてくれる。バーコフはもう2つ目のワンカップを手にしていた。
 ゴダンのマンションも、バーコフのアパートも、どちらからも方角違いのこの川沿いの桜の眺めは、人気のない夜の小さな公園から、この世ならざるもののように見え、バーコフは憑かれたように桜に見入る。
 花びらが散れば、川面はきっと薄紅色に染まるだろう。満開の桜が散るのはあっと言う間だ。気まぐれの夜の散歩で、たまたま行き合った花見の偶然に、バーコフは面映いような気持ちになって、それに見入る自分の胸の中に、同じように偶然出会って今一緒に桜を見ているゴダンが、この桜の樹よりもしっかりと根付いているのを感じた。
 墨を流し込んだような、奥行きの深い闇色の夜空。端の白っぽく滲んだ、桜の花びら。これを写真に撮っても、きっと今バーコフがその目で見ている通りには写らないだろう。
 現実との差異。それでも、今見ているのが、バーコフにとっては真実だ。
 おまえもそうだな。胸の中で、ちらりと横目にゴダンを見て、バーコフはひとりごちる。顔を赤くして、2本目をちびりちびり飲んでいるゴダンの、だらしなく緩み切った表情を見て、まったくと思いながら、それが自分の胸を春の空気よりもあたたかくしてくれるのに、自分でも気づかない苦笑をこぼす。
 他に誰も見ていない、夜の桜をふたりだけでひとり占めして、そうして、自分はゴダンにひとり占めされ、自分はゴダンをひとり占めしているのだと考える。
 悪くない話だ。素直にそう思って、バーコフは2本目をぐいとあおって空にした。
 帰り道を歩けるように、量を考えた方がいいと思うのに、平気だろうと3本目を開け、バーコフはふらりとベンチから立ち上がる。桜に目を凝らしたまま、不意にその花びらに触れたくなって、バーコフはひとり爪先を前へ滑り出す。
 桜が呼んでいた。夜空にぼうっとおぼろに、その妖しい美しい姿を現して、桜でなければないその妖気を辺りに漂わせて、バーコフは酒よりもそちらに酔っているように、ふらふらと桜の樹へ近づいてゆく。
 「おい。」
 ゴダンが、ベンチにだらしなく体を伸ばしたまま、バーコフへ声を掛けた。その声が聞こえないように、バーコフは前へ進み続け、ふと、目の前から川が消え、夜空が消え、桜だけが白く、ただほの白くバーコフの視界を埋め尽くす。
 おいで、と声を聞いた。手招くように、あるはずもない風に吹かれて枝が揺れ、はらはらとこぼれる桜の花弁が冷たさのない雪のように、バーコフの頬へ触れ、誘うようになぶってゆく。
 「おい!」
 ゴダンの声が高くなる。バーコフはそれでも足を止めず、ついには柵などない川岸の縁まで進んで、そのまま足を前へ出す。
 ゴダンは手にしていた酒を放り出すと、肉食獣のような俊敏さで走り出し、片足が川へ向かって宙に浮いたバーコフの腕を、すんでのところで引っ掴む。
 「おい!何してやがる!」
 耳元で怒鳴られて、バーコフはぽかんと口を開けて、引き倒された地面からゴダンの形相を見上げた。
 「泳ぐにはまだ早えぞ!」
 言われて、まだ坐り込んだまま辺りを見回し、明かりもなく真っ黒な川面を見て、バーコフはぞっと膚に粟を立てた。
 酒は手から落ち、地面に染みを作っていた。
 「あーあーもったいねえ。」
 言いながらゴダンが空になった容器を拾い上げ、ついでのようにバーコフの腕を引く。
 「そろそろ帰ろうぜ。」
 何か、尋常ではないバーコフの様子を心配してか、そのまま肩を抱き寄せた。
 人目があるところでは絶対にしないはずのゴダンの仕草に、バーコフはやっと正気に戻った目の色で、今はおとなしくゴダンの肩へ頭を寄せて来る。
 桜が呼んだのだと、そう言ってもゴダンは笑うだけだろうと、バーコフは口をつぐんで、ベンチへ戻りながら、肩に回ったゴダンの腕へ自分の掌を触れさせた。
 「勝手にひとりでどこかに行っちまうんじゃねえぜ。」
 たった今起こったことを言っているようで、決してそうではないのだと伝えて来る声音で、ゴダンが低く言う。
 ああ、と気の抜けたように返事をして、バーコフはゴダンを足並みを揃えて歩きながら、行かねえよ、どこにも。声には出さずに、胸の中でだけ付け加えた。
 向かい風が吹き、ざわざわと、次第に遠くなる背後の桜の枝を揺らす。バーコフのあごひげについていた花びらが、ふっとその風に吹かれて、夜空のどこかへ消えて行った。
 もう桜の方へは振り向かず、影をひとつにしたふたりは、春の夜道の家路を急ぐ。



* * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * *



 心ここにあらずで物思いにでも耽っているのか、バーコフは何となく寡黙になって、ゴダンはそのバーコフの首筋へ唇を当てて、ぶ厚い大きな掌はシャツの下へすぐもぐり込んだ。
 別に拒みもせず、だからと言って積極的に応える風でもなく、ゴダンに引きずられるまま体を伸ばし、けれど酔いのせいかバーコフの反応は少し鈍い。
 ゴダンは、珍しい辛抱強さで、手指と口でバーコフをあやしていた。
 何度も喉を伸ばして、声だけは漏れるのに、皮膚の張り詰め方が少し足りずに、バーコフは何度もゴダンの頭を押しこくる。
 「やめとけ、今日は無理だ。」
 「うるせえ、黙って頑張りやがれ。」
 低く凄むのに、濡れた唇の間で唾液──だけではない──が糸を引いて、薄闇のどこかから忍び込んで来るわずかな光を集めて光る。
 ゴダンの硬い頬の線が、さっき見た桜と同じにほの赤く染まっているのに、それでも次第にそそられてか、バーコフのそれがやっとゴダンの喉奥へ届き始めた。
 そうなると、今度は焦らすように、ゴダンはバーコフの腰をまたいで上から導く姿勢になると、ただ躯を近寄せてそこでこすり上げる動きをする。
 先端がぬるぬると、ゴダンの筋肉に触れて滑り、繋がる形にしながら、繋げないままただ触れて、去る。ゴダンは、バーコフがひどく切なそうに眉を寄せているのに、にいっと上から笑って見せた。
 「やりゃ出来るじゃねえか。」
 下品な声音で言うのが、今は妙に可愛らしく、バーコフの、まだ少し酔い──酒にかゴダンにか、あるいはあの桜にか──の残る目には映る。
 そうして、自分とバーコフを一緒に焦らした後で、やっと繋がった躯を馴染ませるのに、ゴダンは唇を噛んで耐える。バーコフをさっさと奥へ導いて、狭く動く。バーコフはゴダンの厚い腰へ両手を添えて、ゴダンが上から動くのを支えながら、追い詰められるのに何度も何度も天井へ向かって喉を反らした。
 冬でも消え切らない日焼けの跡と、服の下の白いままの膚のコントラストに目を奪われ、そしてそのゴダンの皮膚の白い部分へ血の色が上がり、まだらに染まるのがまるで満開の花のように見えた。
 自分の上へそびえる、大きな体。樹齢の見当もつかない太い幹と、艶やかな朱の花びら。夜桜とは違う美しさと思って、明媚と言う言葉を思い浮かべ、こんな花見も悪くはないなとバーコフは思う。
 この花には、あの妖気がない。バーコフはふと安堵の息を吐いて、そうして、連れ去られそうになった何度目か、そのままゴダンがバーコフに耐えさせようとするのへ逆らって、ゴダンの腹へ触れながらそこで果てた。
 いつの間にか雨が降り始めていて、ほどいた躯をまだ手足は絡めたまま、ふたりは窓の外の音へ一緒に耳を澄ませていた。
 「桜、散っちまうな。」
 ゴダンが、うつ伏せになったバーコフの背中へ頭を乗せて言う。
 「今夜見れて、良かったかもな。」
 つい棒読み気味に相槌を打って、川面を、まるで1枚の布のように流れてゆく桜の花びらを思い浮かべて、散ってしまう桜の美しさを惜しいと思わない自分を、バーコフは不思議に思った。
 美しいものは消えるから美しいのだと、とってつけたように胸の中でひとりごちてから、不意に体を起こして、自分からゴダンへのし掛かってゆく。
 汗の引いた、もう冷めた躯へ再び触れると、バーコフよりもずっと早く、ゴダンは再び反応を返して来る。手の中ですぐに熱さと質量を取り戻したそれへ、バーコフはさっきゴダンがしたと同じ姿勢で、上から繋がろうとした。
 この形は、時折ゴダンが誘っても気乗りしない風にやんわり断ることが多いくせに、今夜はゴダンに先に仕掛けられたせいか、それとも、雨に花を散らした桜に、もうあの恐れのような気持ちを抱かずにすむと考えたせいか、バーコフはゆっくりとゴダンの上で躯を揺すりながら、ゴダンが隙間もなく自分を満たして来るのに、少しばかり無理をしながら自分の躯を添わせてゆく。
 ゴダンが、確かにバーコフの中に根付いてゆく。花が咲き、満開かどうかは分からないけれど、散るのはずっと先だろうと、何の根拠もなく思った。
 桜を散らした今夜の雨は、きっとふたりが一緒に流した汗だ。その汗に、決して散らないゴダンの膚の上に咲いた花は、バーコフが咲かせた花だったし、今きっとバーコフの上に花びらをゆっくりとほどいてゆくその花は、ゴダンのために咲く花だった。
 下から、いたわるようにゴダンの大きな掌が背中へ回って来て、気を使いながら体を起こしたゴダンが、坐って向き合った形に、バーコフを抱きしめて来る。
 ゴダンのあごの先が、バーコフのひげを撫でそよがせてゆき、そして開いた唇から、肉厚の舌がひらりと踊り出て来て、バーコフの乾いた唇を舐めてから割り開いた。
 受粉だの光合成だの、そんな言葉を思い浮かべながら、ゴダンが自分の中で果てようと動き続けているのに、バーコフは、春でなくてもできる花見の、互いの赤くまだらに染まった躯をこれ以上ないほど近寄せて、ゴダンの耳元で何かささやき、そのままゴダンの波に、全身でさらわれて行った。

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