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青の記憶

 クメンの日々はただ暑いだけではなく、湿気のせいで、時にはそれこそ湯の中を歩いているような気分になれる。足元から煮られるような熱にやられて、ATに乗るどころでなくここから去る者も決して少なくはない。
 AT乗りとしての腕以前に、頑健な体と運の良さもなければここでは生き残れず、ゴン・ヌーが訓戒を垂れた、基地に戻っては来ない数パーセントの中には、戦死以外の理由も含まれていることを、誰もここへ落ち着いてから我が身で知るのだ。
 慣れてしまえばこういうものだと、額から垂れる汗にいちいち苛立つこともなくなるけれど、元々暑さに強い性質(たち)かどうか、最初からこの暑さを問題にすらしない輩もいる。
 全身をきっちりと覆う耐圧服を、何の酔狂かこのクメンで常に着込んでいるキリコがそうだ。寝る時以外に脱ぐことなどほとんどなく、汗でびしょ濡れになりながら暑いと言う不平は滅多と口にせず、キデーラ辺りは当の本人に向かって、自分の暑さの八つ当たりで物好きなヤツだぜと揶揄するけれど、キリコはそれを聞いても眉ひとつ動かすでもない。
 真っ昼間に出撃する羽目になった時には、基地に戻った途端に、耐圧服を脱ぎ捨てもせずに倒れ込むように水をかぶっているところを何度か目撃していたから、決して暑くないわけではないにせよ、それでも本人が何か頑なにその姿にこだわるなら、何か理由があるのだろう。それを好奇心半分で聞き出したがるキデーラをキリコは相手にはせず、ポタリアは育ちの良さで他人の事情に不躾けに踏み込むことはしないし、シャッコはクエント人らしい無関心さでただそんなキリコを眺めて、おかしな奴だと思うだけだった。
 このクメンの暑さの中、集められた傭兵の扱いは上等とは言い難かったけれど、少なくともAT整備のための格納庫には空調がある。警備上の事情もあってか、壁もそこだけはぶ厚く、気密性も高かったから、整備の用はなくてもそこへたむろう連中は多かった。
 ここでもまた、キリコがいる理由はきちんとATの整備で、他の連中のようにそれを口実に、涼しい庫内でATの脚の陰で昼寝を決め込むと言うことは絶対にない。
 まれに警備兵が見回りにやって来て、昼寝の人数があまりに多ければ銃の先でつついて起こし、ここから追い出す。半分は格好だけでも整備を始める振りをし、半分は面倒くさそうに格納庫を出てゆく。
 暇さえあればここでスコープドッグの整備をしているか、武器の手入れをしているキリコは、今日はシャッコのベルゼルガの整備に手を貸し、ついさっき警備兵が見回りに来たので、今はふたり以外の人影は、格納庫内にはほとんど見えない。
 いい、駄目だ、以外はほとんど口も開かず、ふたりは黙々と作業をしながら、そうして、ターンピックの出入りを直に見るために、キリコが隣りにある自分のスコープドッグとの間に、ベルゼルガの足元へ回り込んで姿を消した。
 合図され、シャッコがコックピットからターンピックを操作し、キリコがそれを確かめ、また同じことを繰り返す。3度目に、もういいとキリコの声が聞こえると、シャッコはベルゼルガを降着ポーズにして、機体の外へ飛び降りた。
 コックピットは開いたまま、降着ポーズのベルゼルガとスコープドッグの間から、キリコがベルゼルガの下方を見回るように、上体をやや折った姿でのそりと出て来る。シャッコにはその左側の横顔が見え、垂れて寄った前髪のせいで右側へは影が落ち、キリコの左目だけが、その時強烈にシャッコの視界の中へ入って来た。
 なぜその目に吸い寄せられたのか、シャッコにもよくわからなかった。並んだベルゼルガとスコープドッグ、その間にいるキリコ、温度はともかくも、空調のおかげで湿度だけは低められた格納庫内の空気、高い天井から降り注ぐ猛烈な照明の、褪せたような白さ、何かが、どこかで音を立てて繋がり、シャッコは考える前に足を前に出していた。
 「キリコ。」
 またベルゼルガの足元へ戻ろうと体を回し掛けたキリコの、こちら側へ残った左腕を思わず掴んで、自分の方へ引き寄せた。キリコの横顔がこちらへはっきりと向き、怪訝そうな左目の、髪の青さに比べればふた色緑に寄ったその色だけがまた、シャッコの狭まった視界を真っ青に塗り潰して来る。
 「どうした。」
 唇の動きが視界の端に見えた。既視感。この左目の色、髪の青、そして動く唇。どこかで会ったことがある。この顔ではなかった。けれどこの色には、確かに見覚えがあった。
 「どうかしたのかシャッコ。」
 今は、ほとんど睨むように自分を見つめているシャッコへ正面を向いて、腕は取られたまま、キリコは目を細めた。
 「おまえ、サンサにいたことはあるか。」
 わけもなくひそめた、低い声の底が震える。シャッコは、問い詰めるような自分の声音に自覚はなく、キリコはその声の不穏さに、一瞬で視線を尖らせ、あの凍るような冷たさを答える声に含ませて、シャッコの腕を払うように肩を振った。
 「いたら何だ。サンサがどうした。」
 それは、突拍子もないことを訊かれた時の驚きではなく、明らかに触れられたくないことに触れられた時の、咄嗟に秘密を隠して身構えた声音だった。
 サンサにいたことに、触れられたくはないのだ。なぜ、と思うよりも先に、シャッコは自分がたった今感じたことの正しさの方に心が慄えて、まだキリコの左腕に軽く触れたまま、いっそう深く目を細めた。
 キリコの肩越しにスコープドッグの機体が見える。けれどその右肩は赤くはない。


 ろくでもないところへ送られるのだと言うことは、まだ命令以外の言葉はよくわからなくても理解できた。
 周りのぼやく声の調子と表情、勝手が分からずに始終を周囲を伺っている比較的若い顔ぶれは、シャッコ同様兵士になって間もない連中だ。残りは疲労と倦怠を全身にまとった、明らかに戦場で過ごした時間の方が長そうな老練の傭兵たち。
 新米たちはひたすら不安そうに、ベテランたちはただただ億劫そうに、
 「なんで救助なんぞにおれたちが送られるんだよ。」
 「まだ危ねえ連中が残ってるかも知れねえからだとさ。」
 交わされる声にさえ、高揚などひとかけらもなく、輸送機の中の空気はどんよりと淀んでいる。
 この顔ぶれには、若々しさや弾みなどと言うものが一切なく、どこか面倒でややこしい戦場へ送られるのだから当然と言えば言えたけれど、それにしても、役立たずと一目で分かる新兵と、ATの操縦以外には取り柄などなさそうな荒んだ表情の傭兵たちと、その中間がすっぽり抜けた、どこか異様な雰囲気の寄せ集めだった。
 まだうまく使えないアストラギウス語に必死で耳を傾け、シャッコが聞き取った断片によれば、これから送られるのは小さな村落をいくつか周囲に抱えた町の、その郊外に建てられた何か特殊な施設らしい。
 その辺りは、運悪くバララント軍とメルキア軍のちょうど睨み合う中間にあり、どこがどちらの陣地とも明確に線引きされないまま小競り合いが続いていたところに、兵隊崩れやごろつきどもが集まって、町の金持ちに取り入って──あるいは、脅して──自警団を作らせ、警備のための見回りと称して町中と村々へ立ち入り、暴行と略奪行為を繰り返していた。
 彼らの懐ろへ入る金は一応は武装にも使われ、軍も手を出すのを控える程度の勢力になり、確かにその点では守備と自衛の言い訳は成り立っていたけれど、彼らがつけ上がるにつれ、軍がこれを見過ごしにはしておかず、結局メルキア軍が動き、この自警団を殲滅しに掛かった。そのために送り込まれた特殊部隊との交戦で、子どもばかりが収容された施設が破壊され、シャッコたちが向かうのはその施設跡だ。
 なぜ、よりによってそんな場所が交戦の場に選ばれたのか。誰かが話していたことによれば、自警団は自分たちの兵力増強のために子どもたちを訓練して使うことを思いつき、その施設を襲って子どもたちをさらおうとした、それをいい口実とメルキア軍が即座に動き、特殊部隊は命令通り自警団を殲滅した。施設も子どもたちも、気の毒な巻き添えになった。
 バララントはまだメルキア側の隙を窺っているし、メルキアはバララントをこれ以上刺激することは恐れてさっさと部隊を引き上げ、その場では死体も負傷者もろくに回収もされず、今頃そのための救助隊として送られるのがシャッコたちだ。
 メルキア軍は、シャッコたちの到着に合わせて医療班を送って来ると言う話だけれど、どうせ全滅だから無駄足だろうよと、誰かが濁った声で言ったのを聞き取って、シャッコは思わず不愉快に眉を寄せる。仕事だと分かってはいても、割り切るにはまだ経験が足りない。被害の大半は子どもだと聞いた瞬間にこみ上げた吐き気がまた喉元へ戻って来て、シャッコは思わず口元を押さえた。
 だからこの顔ぶれだ。新米たちに現実を見せつけるために、その現実に倦み切ったベテランたちには冷静さを求めて。
 「特殊部隊ってのは一体何なんだよ。」
 「さあな、孤児院みたいな施設潰すのもへでもねえ連中なんだろ、そういうための特殊部隊だろうよ。」
 「ロクでもねえ。」
 「なんだ、自分の方がマシだって言いたいのか。」
 向こうで聞こえる会話が、そこで小さな口争いに変わる。
 長い脚を持て余すように胸の前に抱え込み、シャッコはそこへ顔を伏せる。誰の声も聞きたくなかった。輸送機のエンジンが全身を震わせて来るのに、足の下に踏みしめる地面が恋しくなる。けれどこれから踏みしめるその土には、真っ赤な血が染み込んでいる。


 何もかもが焼け焦げた土地。すべてが黒く、まだ燻りの残る薄い煙を立て、地面は、火の届いていないところすら直に立てば足裏に熱い。戦闘の跡ではなく、虐殺の痕が生々しく残り、そこには死の臭いが満ちていた。
 一方的に、徹底的に焼き尽くされた地面。何が行われたのか想像するしかなく、その想像すらすでにおぞましく、こんなことは何度も見て来たはずの連中も顔を背け、目を伏せながら、ATの脚を重々しくやっと前へ踏み出した。
 周辺には、車が走り回った乱れたタイヤの跡と、ATの大群が押し寄せたらしい走行跡が入り混じり重なって残り、その辺りには、焼けていない大人の男たち──武装したごろつきども──の死体が乾いた血をこびりつかせて倒れている。
 丁寧に扱う必要はないと言い渡され、ATの大きな鉄の掌でその死体をすくい上げ、丸太か何かのようにまとめて積み上げる。
 真っ黒に焼き尽くされた施設跡の方は、どれが瓦礫かどれが死体か、地面にかがみ込むようにATを動かさないと見分けることもできず、気密も確かではないコックピットの中に、煙と肉の焦げる臭いが容赦なく入り込んで来るのに必死で耐えながら、火の熱で割れたコンクリートの塊まりを持ち上げて、その下に潰れて死んでいる子どもたちの姿がないかと探し続ける。
 なぜか子どもたちの死体は、施設の正面らしい辺りへすでにあらかたまとまっており、そうやって集められて焼き殺されたものか、あるいは誰かがすでに死体を集めておいたのか、逃げ惑ってそこで焼かれたらしい姿も見かけると、すでに耳にしている話と様子が食い違い、ここへ着いた時にした想像がいっそう陰惨な方へ寄る。
 自警団はこの子たちをさらおうとした、特殊部隊はその自警団を襲った、子どもたちはその巻き添えになった。子どもたちを救うと言う考えがはなからなかったことはともかくも、これではまるで、この子たちを誰かがわざわざ焼き殺したみたいじゃないかと、すでに集めた、火を浴びてはいない自警団の男たちの死体の山の方へ振り返る。
 けれどシャッコはそこで考えるのをやめ、命令された通りの自分の作業へ心を戻す。考えるのはシャッコの仕事ではない。死体を集め、生存者を探し、後始末をするためにここへ送られたのだ。ここで何が起こったのか、誰がそれを命令し、誰がそれを実行したのか、それはシャッコたちには関係のないことだ。
 確かに全滅だ。救助ではない。回収だ。子どもたちの死体は、大きさで子どもと分かるだけで、髪も顔もすべて焼け溶け、男女の区別はつかない。着ていたはずの衣服の痕跡すらなく、一体どんな火器をどれだけ使ったのか、彼らは徹底的に焼き尽くされていた。
 焼け野原に動くものは、今はシャッコたち以外にはなく、気のせいかいつもよりも静かにATは脚を動かし、むごたらしく焼き殺された子どもたちへ、そうやってすでに手遅れの思いやりを示すように、無骨な手指はきしんだ音を立てて瓦礫を持ち上げては元に戻す。そこには死体のないことが、今では幸運のようにすら思える。どんな殺され方ならましだったのかと、つい考え始めそうになるのを、シャッコは必死で頭から振り払った。
 少しずつ、建物の外縁から内側へ向かい、そして、外周からふた回りほど中へ向かって入り込んだところへ、ぽつんと坐り込んだ形で取り残されたようにそこにある、場違いなスコープドッグが1機。左側がひどく焦げたそれに、皆最初から気づいていたけれど、焼け野原の中に辛うじて半焼で残るそれを言い合わせたように避け、シャッコだけは、なぜかほとんど吸い寄せられるようにその機体の傍へやって来た。
 異様さはその光景だけではなく、その機体の、真っ赤に塗られた右肩のせいでもあった。せっかく迷彩色に近く塗装されたスコープドッグを、なぜわざわざ一部だけ、しかも目立つ肩を、そんな毒々しい赤に塗ったのか。その色が誇示しているものが、明らかに何か禍々しいもので、子どもたちを襲った悪魔はこのスコープドッグ──すなわち、その特殊部隊とやら──ではなかったのかと、誰もが思わずにはいられなかった。
 考えてはならないことだと、皆無言で悟っている。だから目をそらし、近づかない。シャッコはその空気を読み取りながら、あえて機体に近づいた。そして、胸部や頭部に開いた数ヶ所の穴を見つけ、半分開きかけたバイザーの中に、血を流して死んでいるパイロットの死人の顔色を見取り、コックピットの中でひとり首を振る。
 この男はすでに死体で、そして残念ながらシャッコと同じ側──少なくとも今この時点では──の人間だ。そうでなければ、ベルゼルガのパイルバンガーの先を、胸の辺りに突き通してやるところだ。考えるだけで実行はしない。シャッコは、そんなことのためにここにいるわけではない。
 思いがけない己れの怒りの強さに戸惑いながら、シャッコはスコープドッグから視線を引き剥がした。
 赤い右肩を右目の隅に引っ掛けた辺りで、何かが動いたように見えた。日差しのせいか。この黒々と熱い焼け野原を、いっそう焦がすように降り注ぐ、白い容赦のない陽の光のせいか。シャッコはヘルメットの下で目を細め、そこへ視線を据える。そうして、コンクリートの塊まりと塊まりの間に、挟まれるように、埋もれるように横たわる、黒い何かを見る。細長い、ほとんど丸太のように見えるそれには、手足に見える形がくっついている。そして、左手らしき形のそれが、確かに動いた。
 まさかと思いながら、コックピットの中で体を前に乗り出す。真っ黒に焼け焦がされたその丸太もどきには、かすかにわずかに色も残っている。青だ。ベルゼルガの青とは違う、もっと薄い浅い青だ。陽の沈み掛けた、紫を通り越したばかりの、あの昼よりは濃さを増した空の青だ。
 焼けたばかりの地面の熱さを思い煩う余裕などなく、シャッコはコックピットを跳ね上げるように開き、ヘルメットを脱ぎ捨て、そこから地面へ飛び降りた。バランスを崩して着いた膝と掌が、じゅっと音を立てて焦げたと思うほど、そこは熱かった。
 見つけた青に向かって走り寄る。瓦礫が、踏みしめる端から崩れ、シャッコは2度倒れそうになった。
 熱さを気にはしながら、それでもそれに向かってひざまずきかがみ込み、シャッコは、おい、と喉から声を絞り出す。見えた青は、どうした具合かそこだけきれいに焼け残った前髪のひと房と、同じ側の目の周りだった。よく見れば、左腕──と呼べるなら──の前面の一部も、皮膚が見分けられる程度に焼け残っている。腕で咄嗟に顔を覆い、そのせいでここだけ焼けずに済んだのだろう。
 左目が、声を掛けたシャッコの方へ動いて来た。生きている。この子は、少なくとも今、生きている。
 「おい。」
 震えていた声が、今度はしっかりと出た。それに応えるように、髪よりはやや緑がかった瞳がみるみるうちに潤み、涙になってこぼれ落ちる。真っ黒な元は皮膚だったそこを伝い、吸い込まれるように、透明な涙は消え失せた。
 この子をどうしていいか分からず、シャッコはただその無事な瞳を覗き込んでいる。そこだけ人と見分けられる、きれいに残った目が瞬きにゆっくりと動き、シャッコを見返して何度か左右に瞳が揺れて、そして、声帯も焼けてしまっているだろうと思われたのに、小さな声が、けれどはっきりとシャッコの耳に届いた。
 「・・・フィ、アナ・・・。」
 左腕が伸びて来る。もう一度、同じ声が同じ言葉を伝える。
 「フィア、ナ・・・。」
 シャッコは、自分の首の辺りへ伸びて来るその短くて細い腕に思わずそっと手を添えて、そうして、周囲に向かって叫んだ。
 「子どもがいる! 生きてる!」
 クエント語でそう叫んでいることに自分では気づかず、がしゃがしゃと音を立てて他のATたちがこちらへ振り向くのに、視線を返して応えてから、シャッコは思い切ってその子を抱き上げた。動かせば、ほとんど炭化しているように見えるこの体が崩れてしまうのではないかと思ったのに、その小さな体は不思議なほどきちんと重く、膝が折れ腕が揺れ、あやうくではあったけれど、きちんとシャッコの腕の中に納まった。
 瓦礫の上を歩いて焼け跡の外縁へ戻り、そうして、隊長の機体が驚いたようにこちらへ向いたその後ろに、救護班の旗をなびかせたジープが近づいて来るのが見えた。
 生き延びるかどうかも分からない、この有様で、生き延びてよかったとこの子が思うかどうかも分からない、それでもシャッコは、ジープから降りてこちらへ駆け寄って来る衛生兵へ向かって、焼け焦げた小さな体を差し出しながら、クエント語で祈りの言葉をつぶやいていた。
 青い瞳は、最後までシャッコを見つめていた。そしてシャッコが見た最後の瞬きの時に、もう一度、透明な涙を流した。


 腕に乗った、小さな体。焼かれて熱いままだった、あの焦げた体。手渡した後で、まるであの体から移ったように手足に軽く負った火傷に気づき、そうしてシャッコは、あの子が生き延びたのかどうか、その後も時々思い出しては胸を痛めていた。
 完全に忘れることはない。あの光景を、生きている限り、忘れることはない。あの臭い、あの熱さ、あのむごたらしさ。
 まさかと思った。そんなはずはない。瞳の色も髪の色も確かに同じだ。顔は分からない。覚えているのは、火に焼かれた後の恐ろしい黒さと、そこだけ焼け残った皮膚の色だ。だから、あの子どもがこのキリコだったかどうか、確かめる術はない。第一、あんなひどい有様で、火傷の痕もなく治癒することがあり得るのか。
 あるいは、とシャッコは思った。だから耐圧服を滅多と脱がないのか。それでも見たことのある裸のどこにも、火傷の痕はなかった。
 「キリコ。」
 目の前にいるのだと、確かめたくてまた呼ぶ。キリコはシャッコの様子がおかしいのに、もう不審を隠そうともせず、触れられたままの左腕をそこから伸ばして来て、
 「大丈夫か。」
 言いながら、シャッコの頬に触れて来た。
 ああ、と上滑りする声のまま答えて、シャッコはキリコに向かって目を細めた。
 考えずに体を動かして、キリコの頬へ両掌を添え、シャッコは背高い体をかがめて、キリコの額と自分の額を合わせた。熱くもなく冷たくもなく、合わせた額がこつりと音を立て、キリコは一瞬体を引こうとして、けれどシャッコのする通りに、喉を伸ばしてそれに応えて来る。
 目を閉じ、開けて、時々そのままの近さで目が合う。触れ合った額から、まるで互いの思考が流れ込むように、シャッコは頭の中でキリコに訊いた。サンサにいたことがあるかと。あの子はおまえだったのかと。
 そうだと応える声はなかった。けれど否定もない。キリコの青い瞳だけが、珍しく痛々しい表情を浮かべて揺れ動き、結局はシャッコの無音の問いを肯定して来る。
 知りたかったことを知った後も、シャッコはすぐにはキリコを放さず、それ以上の問いは重ねないまま、額を合わせてふたりは見つめ合っていた。
 ずっと以前に、ふたりは出会っていた。あの場で。あのむごたらしい虐殺の場で。キリコはあれを生き延び、そして今ここにいる。シャッコはもう、死体の臭いに嘔吐する新米ではない。
 時間がふたりを違えたけれど、結局はまた、戦いの場で再会を果たした。奇妙な符合だ。
 おまえは何か、おれにとって特別なのかもしれない。胸の中でひとりごちた後で、シャッコはようやくキリコから額を離す。それよりも時間を掛けて手を外し、視線はまだそのままだった。
 あんな風に焼かれたおまえを見つけたおれを、おまえは恨んでいるか。いっそあの場で、他の子たちと一緒に死んでしまえばよかったと、そう思ったこともあったか。おれがあの時、あの青を見なければ、おまえが生きていると気づくこともなかった。おまえはおれを、恨んでいるか。どうだキリコ。
 胸の中でだけ言葉が流れてゆく。訊きたいと思っても、決して問えはしない。答えを知るのが恐ろしい。打ち明けて、感謝しているとおためごかしを言われることには耐えられない。真実を知ることには、もっと耐えられない。
 あの日あそこで、一体何があったのか。誰がそれを考え命令し、誰が実行したのか。なぜそんなことが起こったのか。今でも時折考えるそんなことを、今ここでキリコに訊いてみたい気になりながら、シャッコはとうとう口をつぐんだままだった。
 「おまえは・・・。」
 ふたりで一緒に黙り込んで、じっと見つめ合ったまま、沈黙の重さに耐え切れずに、シャッコはただ唇を動かす。その後に続く何もなく、不自然に声はそこで途切れ、交わす視線だけは強い光を奥底に隠して、そうしてまたシャッコは、キリコの瞳の青さに、あの日の焼け野原の無残な眺めを思い出している。
 あの時、自分があのキリコを看護兵の手に渡さなければ、今キリコはここにはいなかったはずだ。あれ以上戦争の虚しさを知ることもなく、兵士にもならず、こんなところに傭兵として流れ着くこともなく、そしてシャッコとこんな風に再会することもなかった。
 どちらが良かったのか分からず、それでもシャッコは、ここでキリコに会えたこと──あの子であったにせよなかったにせよ、どちらでも──を喜んでいる自分を見つけて、複雑な気分を数瞬味わった。
 キリコが目を伏せ、それからわざと大きな仕草でベルゼルガの脚の方を見やり、
 「もういいならおれは宿舎へ戻る。」
 空気を一変させて、固い、いつもの声で言う。
 ああ、とシャッコがうなずく前に、もうシャッコの傍らを通り過ぎ、今起こったことなど意にも介さない風に、背筋を伸ばして立ち去ろうとする。そのキリコの背を、体半分ねじ曲げて見送りながら、シャッコは最後にもう一度だけ声を掛けた。
 「キリコ。」
 キリコの足がそこで止まる。キリコも、肩を半分だけ回して──偶然、それはあのスコープドッグの赤い肩と同じ、右側だった──シャッコへ振り向き、まるで隠すように左側の瞳は見せない。
 シャッコはキリコの、今は見えない左の瞳を見通すように目を細めて、少しだけあごを引いた。
 「おまえはなぜ、ここに来た。」
 何かに導かれたと、そう自覚があるのかどうか、シャッコが知りたいのはそのことだったけれど、キリコは別の言い方でその問いに答える。
 「おれがここに来たのは、すべてを忘れるためだ。」
 青い瞳が動く。心の痛みが、そこへ浮く。
 痛み。傷の痛み。踏みにじられた痛み。治療の痛み。大事なものを失った痛み。自分だけ生き残ってしまったと言う痛み。生き続けなければならないのだと言う痛み。記憶を消せない痛み。いつまでも自分を追い駆け続ける、悪夢から逃れようとする痛み。シャッコにも憶えのあるそれが、一瞬のうちに、キリコの瞳の上に走って行った。
 キリコはそれきりシャッコに背を向け、すたすたと格納庫を出てゆく。その真っ直ぐに伸びた背の、もう充分に広い肩のどこにも、あの子どもの面影はない。キリコの髪の青さにまだ視線を当てたまま、シャッコは傍らのベルゼルガの胸部に、知らずに掌を当てていた。
 腸(はらわた)に染みついて来る痛みは、自分のそれと、たった今キリコからうつされたものだ。まだあの焼け野原の只中にいる自分の心をそこへ漂わせて引き戻せないまま、シャッコはもう一度向こうにあるスコープドッグへ目をやり、その肩が赤くはないことを、確かめずにはいられなかった。

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