シリアス恋愛にひとつのお題
呼ぶ声
あてもなくただ足の動くままに先へ進みながら、雨の日も風の日も、キリコは後ろを振り返ることはしなかった。前を見つめるその瞳に、だからと言って希望の輝きがあるわけではなく、良く晴れた日の空をふた色翠に寄せたようなその青さは、空洞めいた虚ろさに覆われて、見つめれば、底なしの井戸でも覗き込んでいるような気分にさせられる。
こちらを見返したところで、それはただ眺めていると言うだけの、力も光もないキリコの瞳だった。
進む先に一体何があるのか、キリコはよくは知らない。ただ糸に引かれるように足を動かし、日が暮れれば火を焚いて眠り、夜が明ければまた歩き出す。
どこへ向かっているのか、キリコは知らない。けれどキリコは、自分が導かれる場所を知っていた。
そこへゆけば、何かがあるのだろう。何かが何かは知らない。ただそこへ行けば、"逢える"のだと言うことだけは知っている。
キリコは歩き続けている。ひとりきりで。連れはない。これから見つかるあてもない。そんな予感もない。
キリコは途方に暮れている。歩き続けるのは、ただ他にすることがないからだ。何かに引き寄せられて歩き続ける、それ以外に、思いつけるすべきことが何もないからだ。
あの長い長い眠りは、一体何だったのか。ヴァニラに戦いのない世界があると思うのかと問われて、ああとうなずいた、あの旅立ちは何だったのか。
抱きしめた体の次第に冷たくなる、それでも重さと確かな手応えは、その在り様を変わらず伝え続けて、失いたくないと思ったからこそ、自らが失われることを選んだのではなかったか。
誰にも触れさせない、今までも。これからも。それだけがキリコの望みだった。望んだことはそれだけだった。そのちっぽけな希望すら、この世界は完全にはかなえてはくれなかった。
だから──。
すべてに背を向けて、支配せず支配されず、おれが欲しいのはただひとつのものだけだと、それ以外には一切合切何の意味もない、そんな無意味にもう付き合う気はないと、そう言ったつもりだった何もかも、ただ空しいだけだったのか。
何もしない、何もされない、すべてを拒んだキリコが抱きしめた、たったひとつのもの。それだけがキリコの求めたものだった。他には何もいらない。必要ない。興味も関心もない。この世界が明日滅びようと、知ったことではない。
大声で叫ぶことはせず、キリコはただ背を向けた。何も持たず、生まれたままの姿で、守り守られることすら拒んで、そうして目覚めを期待せずに旅立ったはずだったのに、キリコは今ひとりきり、途方に暮れている。すべてを捨て去った後で、ひとつきり自分の手の中に残すことを選んだそれを失って、キリコはもう何も残ってはいない自分の空っぽの内側を眺めて、ひとり途方に暮れている。
呼吸は続き、心臓は動き続ける。手足を動かし、前へ進み続ける。夜の眠りは朝陽に妨げられ、じりじりと照りつける陽射しに皮膚はきちんと焼け焦げる。息の白く凍る日にはかじかむ手指をこすり合わせて、あたたかく血の巡る、体の中の音を聞く。
生きている、とキリコは何の感慨もなく思う。生きている。自分の体はあたたかい。皮膚を切れば血が流れ、倒れて膝を打てば痛む。眠らないわけには行かず、目覚めれば頭上に空が見える。
けれど生きていると言うことは、ただ命が続いていると言うことではない。ひとりになって、キリコはそれを知る。発した言葉が拾われて、戻って来る声。伸ばした指先の触れる、あたたかさ。自分の瞳の色を読み取ろうと、じっと見つめて来る、別の色の瞳。
誰か、とキリコは思った。そう思って思い浮かぶ顔の数は少なく、彼らが一体今もどこかにいるものかどうか、今のキリコには分からない。
長い長い間、すべてを捨て去った──ただひとつを除いて──キリコは、あらゆることを忘れ去っていた。キリコの忘れ去ったそのひとつびとつは、キリコを憶えているだろうか。キリコがそう覚えている通りに、彼らはキリコを憶えているだろうか。
彼らに会うために歩き続けているわけではない。キリコが導かれているのは、今は別のものだ。それでも、導きに従った後で、彼らに会うことはできるだろうかと、キリコはふと考える。
会いたいと、キリコは思った。誰と確かな顔を思い浮かべたわけではなく、ただ会いたいと、キリコは思った。
そうして、声がした。キリコ、とその声が確かに呼んだ。覚えているまま、変わらない声だった。
不思議とも思わず、キリコは足を止めて、初めて後ろを振り返る。
何もない。誰の気配もない。あるはずがないと知っていて、キリコは目を凝らした。自分の足跡の、次第に消え去る方向を見やって、声の主の名を、小さな声で呼んだ。
「・・・シャッコ・・・。」
キリコ、と応える声が、確かにあった。声が、見えた。
あの男は、歩き続けるキリコのことを知っている。どこかで、ここにいるキリコのことを感じている。
来てはくれないのか。思わず、請うように呟いていた。その声を、風がさらって行った。
返事はない。キリコは何もないところへ向かって目を細め、静かに肩を回した。
ブーツの下で砂利が鳴る。その音に紛れて、もう一度、キリコは自分の名を呼ぶシャッコの声を聞いた。声だけのその気配に、キリコは間遠な瞬きをする。
ひとり歩き続ける孤独に、今はひとり耐えるのだと、風が背中を追いかけて来る。
いつか、このキリコの背を、シャッコが追うだろう。いつか、キリコがそう求めれば会えるだろう。
ゴウト、ヴァニラ、ココナ、踏み出す足と一緒に、キリコは懐かしい仲間の名を、ひとつびとつ呼んだ。その声が届くかどうかは分からないまま、キリコは空を振り仰ぎ、最後に、何よりも大切なその名を呼んだ。
フィアナ。
空のどこかへ、声は届いたのかどうか、風に吹かれてただ消える。
キリコと、そこから呼び返す声はない。それでも、背中へ触れて来るシャッコの声の気配は消えないまま、自分の孤独には少なくとも果てがあるらしいと、キリコはもう一度足を止め、自分の手を見下ろした。
空の手の、けれど水に溺れながら決してこの手を放さなかったあの男の、大きな掌のぬくもりを思い出している。
思い出は、今のキリコに許された唯一のものだ。
シャッコ。自分の掌へ向かって、キリコはまた呼んだ。キリコ、と背中を追いかけて来る声が、確かにある。
またおまえに、会えるのか。
──いつかな。
キリコの問い掛けに答える声。発した声のゆく先は分からず、キリコはぎゅっと指を丸めて手を握り、そこにまるで誰かの手があるかのように、指の間を軽く開いた。
この手をこぼれ落ちて行ったもの、そして見えはしない、けれどこの手の中にまだあるだろうもの、キリコの瞳に何かが映り、そして消えて行った。
歩き出す先に待つのが、ただ光ひとつだとしても、それでも求めずにはいられずにキリコは歩き続ける。
キリコはひとりだった。ひとりきりだった。ひとりきりのその背を見守るように、シャッコの声がキリコを呼ぶ。今は応えずに、キリコはただ爪先を前に出す。
声はいつしか、風に吹かれて消えた。