Calling You
寝つけない夜だった。睡眠はそれほど重要でもないクエント人にとって、眠れない夜はそれほど煩わしいものではない。
さほど深刻ではない国境争いの後始末に呼ばれ、その仕事はすでに終わり、ヌルゲラントへは数日後に戻ることになっている。1週間ほど続く星間の旅に、まさか心騒がせているはずはなく、眠れない理由に何となく思い当たって、シャッコは枕に乗せた頭を小さく振った。
夕べの夢に、キリコが出て来た。記憶よりも幼げな眉の辺りの表情は、これはクメンで会ったばかりの頃だろうかと、シャッコは夢の中で考えた。
キリコは、髪の伸びて少し変わったシャッコの姿に不思議そうな様子も見せず、シャッコを抱き寄せて、記憶の中にはほとんどない穏やかな笑みを浮かべていた。
腕の中に確かにあった、キリコの体。その感触を覚えていると思っても、それがほんとうに正しい記憶かどうか確信はなく、今は確かめる術もない。
夢の中のキリコを思い浮かべ続けて、シャッコはついにベッドを出ると、兵士たちに与えられた宿舎を出て警備兵のいる表側を避けて裏へ回り、争いの最中ならそんなところを無防備に歩き回るわけにはいかない小高い丘へ、足音を消して上ってゆく。
シャツ1枚の体に夜風が少し冷たく、戦乱の治まった後の街には灯が戻って来ていて、その明るさに負けた夜空に、今夜は星が少なく見えた。
呼ばれたと、そう思ったわけではない。いまだ通じる何かがあるにせよ、今夜はそうとはっきり予兆のようなものがあったわけではなく、それでも見上げた空の星々の間を、星とは違う輝きで、瞬くようにゆっくりと漂う光があった。
あれは、カプセルだ。キリコとフィアナが眠り続ける、人工凍眠のカプセルだ。
そうと確かめられるわけもなく、それでもシャッコはこれまで幾度か同じ光に出会うたびに、あれはふたりの光だと思って、そう思う自分をひと筋も疑ったことはなかった。
ふたりは眠ったまま、今も誰にも邪魔されず、宇宙を漂い続けている。シャッコは今、それを見上げている。
ふたりの眠りの中に争いはなく、シャッコのいるこの世界では相変わらず争いの絶えることはなく、戦争に背を向けたふたりがだからここへ戻って来ることはない。少なくとも、まだ。
用意されたカプセルに入るために、ふたりは何もかもを脱ぎ捨て、そして仲間との最後の別れを惜しむためのわずかの間、フィアナの体を毛布で覆って抱きしめたのはキリコで、そのキリコの肩に毛布を乗せたのはシャッコだった。
眠るために去ってゆくふたりを、触れられる近さで、けれど決して触れはせずに最後まで見守った、シャッコは数少ない人間のひとりだった。
またなと、キリコが最後に言った。ああ、またなと、シャッコはうなずいた。
それはいつのことだろう。長命のクエント人にも、待つ時間は長い。シャッコの命の果てるその時に、キリコはどこにいるだろう。あの青い瞳に、一体何を映すだろう。
光が、その位置を伝えるように瞬いて、右から左へゆっくりと流れてゆく。
おれを呼んだのか、キリコ。
青みを帯びた黒々と深い夜空へ向かって、シャッコは声には出さずに訊いた。答えは、声でもなく気配でもなく、ただ間遠に瞬く光の中にあった。遠い、手の届かない宇宙のどこかの、互いだけが世界のすべてであるふたりの、眠りを守るカプセルの光だけが、その答えを知っている。
隔てられ、けれどいまだその繋がりは残り、シャッコはキリコにいつか会えるのだと言う予感に再び襲われて、驚きに似た表情に、唇を半ば開く。
「──キリコ。」
はっきりと、声に出して呼んだ。呼び返して来る声はないと知って、それでもその名を、呼ばずにはいられなかった。
夢の中で自分を抱きしめたキリコの、背に回した自分の腕の、今は空回るだけのそこへ、シャッコは視線を落とし、そしてまた空の光を見上げる。
ふたりは、あの光の中にいる。誰も侵さず、誰にも侵されず、ただふたりきりで、互いの腕の中に互いだけを抱いて、その閉じられた世界を自ら選んで、ふたりは宇宙を漂い続けている。
フィアナが、わたしのキリコと呼んだ。キリコが、おれのフィアナと呼んだ。そう互いを呼び合うふたりの声に、どれほど切実な響きがこめられていたか、何もかもが一度に鮮やかにシャッコの脳裏に甦る。
人はあれほど強く、誰かを求められるものなのだ。あれほど深く、誰かを想えるものなのだ。世界のすべてが無意味になるほど、誰かを愛せるものなのだ。
キリコ。
フィアナがそう呼ぶのとは違う響きで、シャッコは胸の中でキリコを呼んだ。何事にも執着を見せないはずのクエント人が、煩いを胸の中に秘めて、その名を呼んだ。
キリコ。
返事はない。返って来る声はない。それでもシャッコは、呼び続けずにはいられなかった。
「おれの──キリコ。」
自分の声でその呼び方を聞いて、初めて、それが伝える想いの強さと深さを知る。そうしなければいられないほど、胸を突き破る想いの、今は差し出すあてもない、シャッコの独り善がりではあったけれど。
血を流すように、シャッコはキリコを想った。そして、流れたのは血ではなく涙だったと気づいて、シャッコは自分の濡れた頬を拭う。おれのキリコ。涙と同じに、そう呼ぶシャッコの声は止まらなかった。
また涙が流れた。怒りも喜びも滅多と表さないクエント人の、ひどく珍しい感情の発露だった。
悲しいとも淋しいとも名付けられずに、シャッコはまた自分の涙を拭う。拭う端からまた頬が濡れる。
おれのキリコと、クエント語にはない、舌に馴染まない言い方をぎこちなく繰り返して、夢の中でキリコが見せた笑みの、穏やかさに向かってもう一度呼び掛けた声は、かすれて細まりついには途切れたままになる。やがて涙も止まった。
頭上の光は星に紛れ、もう見えなくなっていた。