掴んだ首
まだしっかりと形を残す耐圧服の中で、皮膚の内側は溶けて嵩を失くしてしまった、元は誰かだった死体。傍らを歩くペールゼンには、その死臭が届いたことはなかった。伸ばした手の先に砕けたミラーグラスと銃、そして別の方向には杖の横たわる、白い髪をまとわりつかせた死体。ペールゼンはそれをまるで路傍の石のように眺めて、ゆっくりと歩き過ぎる。
キリコはどこだ。もう何千回考えたか分からない同じことを、ペールゼンはまた考えた。
重装備のスコープドッグの残骸。同じように破壊されたブラッドサッカー。破片は混じり合い、塗装でどちらがどちらのものと辛うじて分かる。死体は耐圧服の違いで、もっと判別は容易かった。
レッド・ショルダーの生き残り同士の争い、基地で行われていた共食いとは少し違う、模擬ではない戦闘。彼らは殺し合い、そして皆死んだ。たったひとりのレッド・ショルダーを残して、ペールゼンの理想の軍隊は完全に滅んだ。
キリコ。
ペールゼンの乾いた唇が動く。もう口にするのはその名だけで、他の誰の名を呼んだところでここでは反応などなく、動く者はペールゼン以外誰もいない。
PSのふたりも姿を消し、彼らは恐らく死んではいまいと、極限まで強化された身体(しんたい)の持ち主の彼らの、その能力は自分の研究の賜物だと、その唇の端に自負の笑みが淡く浮かぶ。
そうしてまた、ペールゼンはキリコのことを考える。
キリコ。
銃を構えたペールゼンをヘルメットの中から見つめていた、ペールゼンの理想の兵士。この銀河に唯一の、ペールゼンのすべてをいまだ捉えて離さない、あの男。
背中からの衝撃。自分の体が反り返り、前へ弾き飛ばされたことは覚えている。床に叩きつけられ、横顔はそこに縫い付けられたようにもう動かず、目を閉じた覚えもないのに、視界は急激に狭まっていった。その後のことは記憶が朧ろだ。再び目覚めた時には辺りは静寂に包まれ、キリコの姿はそこにはなく、倒れたスコープドッグがあるだけで、一体何があったと奇妙にふわふわと頼りない頭を軽く振り、ペールゼンは起き上がってから驚いた。
青黒い皮膚の自分が、そこに横たわっていた。血溜まりに倒れ、見開いた目には何か信じがたいものを見たとでも言いたげに驚きに満ちて、自分の死に顔を見下ろすと言う不思議に、その死に顔同様の驚愕に襲われはしたものの、杖を手にした自分は軽々と歩くことができたから、キリコの存在の発見同様、異様なことなどこの世にはいくらでもあるものだと納得して、ペールゼンはくるりと肩を回してどこへともなく歩き出した。
基地の中はしんとして、行くどこも、すでに打ち捨てられて始まった荒廃が見え、その時々に破壊されたATと死体に出会い、残ったのは自分だけだとペールゼンは、埃の積もった薄暗い廊下の片隅で小さくため息をこぼす。
キリコ。
あの男も死んではいまい。死ぬはずがない。私のキリコが死ぬはずはない。
ペールゼンは当てもなく、ただ時間を潰すためだけに、基地の中を歩き回る。固い金属の床に飽きて、まだ美しいままの森へゆき、空気の甘さも繁る葉の青臭さも、自分の鼻先に一向に届いて来ないことにはずっと気づかない振りをしている。
キリコ。
ペールゼンの思うことは、もうたったひとつだ。
殺そうとした。殺せないと知っていて、殺そうとした。キリコを撃つのは──せめて、傷つけるだけでも──自分でなければならなかった。もしかしたら何かの偶然で、キリコを殺せるかもしれない。それは自分でなければならなかった。
そして同時に、キリコを殺そうとする自分を、キリコは殺し返すべきだった。ペールゼンはキリコに殺されるべきだった。キリコだけが、ペールゼンが自分の命を断つことを許す、たったひとりの者であるはずだった。
凄まじい形相で、自分へのし掛かり、押し倒し、この首へ両手を掛け、ためらいもなく締め上げたキリコ。ぎりぎりじりじりと狭まる気管。通る空気の量は確実に減り、それがゼロへ近づいたと思った時、ペールゼンはキリコの心臓を撃ち抜いていた。実はわずかに心臓をそれていたのだと後で知らされたけれど、あの時確かに、キリコはペールゼンをその手で直に殺そうとし、ペールゼンもまたキリコをその手で殺したのだ。
間近に迫る瞳、そこに映る自分の苦悶の表情、キリコは凄艶に、ただペールゼンの破滅──死──を望んでいた。
──なのに。
”おまえになぞ興味はない。復讐など考えたこともない。おれにとって、おまえはただの思い出でしかないんだ。”
キリコ自身は気づいていたのだろうか。徹底的に無関心を示すこと、復讐など意識の端にも上らないこと、そしてペールゼンの死を、他の者の手に託すこと、そのすべてがペールゼンへの最上の復讐だったと言うことを。
ペールゼンは、繰り返し繰り返し、キリコの声を思い出す。自分を手酷く拒絶する言葉の数々を、なぜかほとんど恍惚としながら、耳の中で反復する。
思い出。キリコはペールゼンのことをそう言った。思い出。あの男には似合わない、どこか切なげな、苦痛すら感じさせるその表現に、ペールゼンは笑みすら浮かべていた。
そうか、私はおまえの思い出なのか。
あれほど手酷い拒否をしなければならなかった、キリコにとってペールゼンはそのような存在だったのだ。その関わりの深さゆえに、キリコは無関心を貫くしかなかった。そうしなければ、キリコは心の奥底を引き裂かれていた。
血を流すのは、皮膚の下からだけで十分だ。死なないがゆえに、傷つき続けたキリコは、そうやって己れを守ろうとした。ペールゼンをただの思い出と言い切り、言い切りながらも、記憶と言う素っ気ない語彙を選び損ねて、ふたりの間に確かにあった希望のようなものの存在を、迂闊にも露わにしてしまった。
そうだ、だから私はまだ死に切れずに、こんな風にさまよい続けている。
キリコの手によって死ぬことは叶わず、キリコを殺すこともできず、そしておまえに興味はないと視線をそらしたキリコの、微かに慄えていた声の根の底に横たわる、確実に存在した──少なくとも、ペールゼンの側には──愛と呼ぶしかない想いに囚われて、ペールゼンは今日も基地の中をひとりさまよい続けている。
死に損ない。肉体の朽ち果てた後も、魂だけがこの世に在り続けている、忌まわしい存在。
キリコと同じだ。キリコはまだ現世の肉体を持ち、けれどそれはただ、皮膚と肉と骨の集合体と言うだけに過ぎない。キリコの魂もまた、ゆく先もなく漂い続けているに違いない。
私のキリコ。
唇が動き、喉が震えたけれど、そこを通る空気はない。声を出したような気がしただけだ。
ペールゼンはキリコを呼び続けている。その声はいずれキリコの魂に届き、いつかキリコはここへ戻って来るだろう。ペールゼンに再び逢うために。ペールゼンをこの世からあの世へ送るために。ペールゼンの魂を完全に滅するために。
ペールゼンはのろのろと掌を自分の首に当てた。そこを絞め上げたキリコの掌の感触を思い出しながら、数瞬、懐かしげに、殺されかけた記憶を引き寄せ愉しむ。
私は、おまえによって殺されなければならない。私を滅せるのは、キリコ、おまえだけだ。おまえだけが、私を葬ることができる。
おまえを殺したい私を殺せ。私の魂を、おまえのその手で滅するがいい。
ペールゼンは微笑んでいる。生きている時には浮かべた覚えもない穏やかな微笑みに、自分の首を撫でながら、ペールゼンはひとりの散歩を続けている。