声を張り上げて泣いた
気まぐれに立つ市場に、皆が穏やかに暮らしているかどうかとテダヤのために確かめるために、シャッコはひとり足を運ぶ。クエントが爆発した後で強制移転された、このクエントの双子星ヌルゲラントでは、人々は地上に街を作って住み、その暮らし方にクエント人のシャッコも次第に慣れつつあった。
谷底だろうと地上だろうと、どこに住もうと人々の暮らしぶりにそう大した違いはなく、とは言え1日中静まり返っていたクエントでの地の底での暮らしを、人々のざわめきの中を通り過ぎながら、シャッコは少しばかり懐かしいと思った。
どこの星の者か、後ろから来てシャッコの腕に軽く当たり、詫びるように軽く頭を下げて行ったその小柄な男──と、シャッコは思った──の、深々とかぶった長衣のフードの端からわずかに覗いた髪が、明るい陽射しのせいかどうか青く光って見え、シャッコは思わずその場に縫い止められたように足を止める。腕を伸ばし、先を行く男の肩に触れそうになって、我に返ったようにそれをやめた。
違う。髪の色が似ているように見えても、そうであるはずがない。違う。そんなはずはない。
肩と腿の、もうとっくに塞がっている傷跡が、疼くように痛んだ気がした。そうして、痛みの後を追い掛けて来る、ある気配。
空気の中にそれはある。シャッコのゆくところ、どこにでも、その気配は必ずあった。
気のせいに違いないのに、シャッコにはそうとは思えず、気配を感じるたび首を回し、辺りを見渡さずにはいられない。青い髪。錆びたオレンジ色の耐圧服。硝煙の匂い。キリコの気配。あるはずもないのに、探さすにはいられない。
人混みで、似たような背格好の誰かを見掛けた時、AT乗りの耐圧服姿の後ろ姿を見つけた時、どこかにちらつく青は常にキリコに結びついて、シャッコは見掛けた雑草の花にさえ、まじまじと目を凝らした。
おまえは、キリコなのか。
心の中で問う。違うと言う答えを予想しても、問いは止まらない。答えはない。あるはずもない。それでも時折、空気の中に混じる気配の中に、シャッコはキリコの囁くような声を、確かに聞いた。
ああ、おれだ、シャッコ。
その声は一体どこから来るものか、聞き入れば、恐らくそれはシャッコ自身の胸の奥底から聞こえて来るに違いなかったけれど、自分の中にいるキリコが、自分に囁き掛けて来るのだと考えて、そこから滑りこぼれるキリコの気配を、すくい取るようにシャッコはまた飽きず辺りを見回す。
キリコ。
呟かずにはいられない、その名。
シャッコ。
耳を澄まさずにはいられない、その声。
宇宙を漂うカプセルの中で眠るキリコの、地上に届く気配を、シャッコは感じ取らずにはいられない。
眠り続けるキリコの魂。フィアナに寄り添い、奪われ続けることと喪い続けることを拒んだ、あのふたりの決意。
シャッコの耳に、雑踏のざわめきが戻って来る。
人々の明るい声、笑顔の群れ、その中にあって、シャッコの胸の中だけが異質に、今重く冷え込んでいた。
キリコ。
呟くたび、胃のずっと奥の闇の底に、ことんと何かが落ちて、たまってゆく。おまえに会いたい。おまえが懐かしい。おまえが恋しい。
会いたいと思うことが、ただ再会を指しているのではないと、気づいたのはいつだったろう。ふたりを乗せたカプセルを見送り、これが恐らく最善の選択だったのだと思い、ヌルゲラントへ還り着いた後でクエント人としての暮らしに戻って、キリコの気配に最初に気づいた時に、シャッコは思い知ったのだったか。そうだ、あれは最善のことだった。ふたりのために。キリコとフィアナの、あの分かちがたく結ばれた運命のふたりのために。──だが。
そうして、シャッコは考える。自分の背中の辺りに確かに残るキリコの気配を感じて、おれはどうだと。おまえ自身はどうなのだと。
そうだ、おれはキリコに会いたい。キリコが懐かしい。キリコが恋しい。おまえに会いたい。おれは、おまえに会いたい。キリコ。
ふたりでなければならなかった。ああやって宇宙へ旅立つ、ふたりでなければならなかった。そのように運命づけられてしまっていたふたりだった。それに異論はない。あのふたりを引き裂く何もかも、ふたりは容赦なく叩き潰したろう。戦い続ける不毛を終わらせるための、あのふたりの旅だった。
キリコとフィアナ。フィアナとキリコ。別々のふたりでありながら、この上もなくひとつに溶け合った、ふたりでひとりの、あのふたりだった。
そうして同時に、シャッコは、キリコと自分もまたふたりでひとつの、何かなのだと感じ続けている。
空気に満ちる、キリコの気配。強まったり弱まったり、決して消えることはなく、シャッコのゆく先々に現れる、キリコのその気配。
おまえは今、どこにいる。宇宙のどこを漂っている。その眠りが破られるのは、百年先か千年先か、それとも悠久の後(のち)、 何もかもが滅んだ後か。シャッコも含めて、すべてが塵と化した後か。
魂だけとなった後も、シャッコは銀河をさまよい続けるだろう。キリコの気配を探り、宇宙のどこかへ漂い出て、いつか目覚めるかもしれないキリコを求めて、その時を待ち続けるだろう。
視界の端を、手足ばかりが細長い少年が駆け過ぎてゆくのが見えた。友人らしい赤毛の、同じ年頃の少年ともつれ合うように、幼い笑い声を立てて、彼らは雑踏の中を転がるように走り抜けてゆく。
彼らの輝くような瞳の色が、やや淡い緑がかった青だったことを、一瞬のうちに認めて、シャッコはまた、キリコか、と胸の中で問いを繰り返した。
胃の奥にたまってゆくのは、流せないシャッコの涙だ。会いたいと思うたび、会えない切なさに胸を刺されて、その痛みのために流す、シャッコの流れない涙だった。
いつか、この身を投げ出して揉むようにしながら、声を張り上げて泣けるだろうか。拳を振り上げ、血の出るまで地面を叩き、キリコに会いたいと、キリコが恋しいと、喚きながら泣く日が来るだろうか。
シャッコはまた市場の中を歩き出す。表情には何の感情も浮かべず、人の群れの中を黙ってすり抜けてゆく。
耳の中で、シャッコの名を呼ぶキリコの声が聞こえていた。シャッコの魂は、キリコを求めて慄え続けている。キリコの気配に答えるように、辺りの空気を、そっと震わせ続けていた。