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絵チャにてネタ拾い。キリコ×キリコ。

鬼子

 眠れない夜が続いていた。
 歩き続けて、体は確かに疲れているのに、夜の暗さに目を閉じても、浅い眠りすらやっては来ず、微睡んだと思ったらもう朝だ。
 起き出して歩き出せば、前日の疲れが足元から体中を縛りに来る。そうして数日、疲れで足がもつれるようになった。眠ってしまうのではなく、歩きながら気を失うだろうと、そんな予感がある。
 この不眠が始まる前に、血まみれの悪夢ばかりを見て、何度も何度も引きちぎられて殺されるのに、夢の中で目覚めれば体は元通りだ。けれど痛みはそのまま、また体を引きちぎられて殺される。早く目が覚めろ、もう眠りたくない、何度も何度も死ぬ合間に、そう思った。そう思った通り、次にやって来たのはこの不眠の続く夜だ。
 昼間の陽射しに目を焼かれ、今夜こそ眠らなければとキリコは思う。夢も見ない、深い眠り。ほとんど死と同義のような、自分の指先さえ見えない眠り。
 睡魔の尻尾が、頬をかすめて行ったと思ったのは、ぼそぼそと簡易に夕食を終え、食事のために起こした火に、チエコブの木の枝をさらに放り込んだ時だ。ぼっと、青白い炎が大きく上がり、顔に近づいた火の熱さに、キリコは思わず目を見開いた。
 火の熱に焼かれる自分の青い目を、いっそう青く照らす炎。揺れる炎の、ゆらゆらとした輪郭を、吸い込まれるように見つめているうちに、睡魔は消え失せ、そして奇妙に澄んだ意識の片隅で、今夜眠る方法を思いつく。
 眠れさえするなら、何でもいい。今では死なないと分かっているキリコにとっては、夜の眠りは仮の死だった。その仮の死さえ奪われたら、後は気が狂ったまま生き続けるしかない。
 ああ、それも案外悪くはないな。気の狂った自分は、どれほどのことを憶えていられるだろう。ウドの街。ゴウトやヴァニラやココナ。クメン。消えてゆく国。仲間。吸えない空気。失われた星。砂だらけのサンサ。クエントと同じだ。谷底の方が安心できたのは、あの狭められた視界が、多分ATのコックピットを思わせるからだ。壊れたAT。開いたままのコックピットにもぐり込む。眠る。あの眠りは、恐ろしいほど安らかだった。今キリコに、とても必要なもの。眠り。
 フィアナ。
 今では夢の中でだけ会える彼女に、キリコは心の中で話し掛ける。
 今夜、会えるだろうか。
 残っていたチエコブの木枝の束から、いちばん上の1本を取り上げる。青白い火を見つめながら、キリコはその枝のいちばん細い先を、指先に強く挟み込んだ。
 鋭い痛みが走り、それでもすぐには枝を離さず、皮膚に食い込んだその棘が、きちんと血管に達するのを確かめる。静かに、棘の刺さった指先が疼き出した。
 火にかざしてよく見れば、ぽつりと小さく血の玉がにじみ、それを口の中へ入れてしまいたいと思いながら、そうはせずに我慢する。チエコブの、幻覚を見せてくれる毒が、ゆっくりと体の中をめぐって、最後には脳へ達するのを待った。
 無理矢理に陥ってゆくその幻覚の中に、会いたい誰か、或いは見知った誰かが現れることを祈りながら、キリコは眠りに似た、揺らめく濃い霧の中へ落ち込んでゆく。


 素肌の上に寄り添って来る、ぬめぬめと生温かい、不思議な柔らかさ。人の皮膚の感触とは明らかに違い、獣のようでもない、これは一体何だろうと、キリコはその感触へ腕を伸ばした。
 眠りたいと、そう望んだからなのかどうか、目がまだ開かない。手探りでそれに両手で触れ、自分の腹の辺りへよじ上(のぼ)って来ようとするそれの、ひと抱えほどの大きさに、なぜか優しい気分が湧く。
 キリコが触れると、それは少し気持ちの悪い声で鳴いた。温かな血のめぐる獣の声ではなく、血の色すら想像のできない類いの、薄く粘膜の透けて見える、外見も正直可愛らしいとは口が裂けても言えない辺りの生き物だ。
 胴体が真ん中で軽く膨らみ、尻尾らしい部分はそれらしく細く、うねうねと動く体をたどってゆくと、何と表現すればいいのか、粘膜でできた花弁の重なりとしか言いようのない、口らしき開口部へ触れそうになる。そこをぐるりと囲む、存外凶暴そうな突っ立った牙。
 見た目の気持ち悪さの割りに、胴体が触れる感触はそう悪くはない。意外な柔らかさに驚いたまま、キリコはその生き物から手を離さない。
 これは砂モグラだ。思い出すのと同時に、目が開いた。視界にまず飛び込んで来たのは、今はきちんと閉じている口らしき部分だった。体よりもふた色赤みの強い、成長すれば、キリコなど頭からひと飲みだろうと思えるけれど、今目の前にいるのは、どう見ても幼体の、体長はキリコの腕の半分ほどだ。
 案外と可愛らしい大きさだ。牙はきちんと凶暴に見えるけれど、長さが小振りのせいか、きょとんとキリコを見つめているような表情すら窺える。
 親はどうした。
 声に出したかどうかわからなかったけれど、そう訊いたつもりだった。砂モグラの仔は、戸惑ったように、キリコの手の中でうねうねと体を揺すった。口がかすかに開いたり閉じたりして、物言いたげに見える。
 おまえもひとりなのか。
 ああ、シャッコが砂漠で捕まえて、一緒に食べたあれが、この砂モグラの仔の親だったのだと、そう思いついたのが真実のような気がしたのは、恐らくチエコブの棘の毒の作用だったのだろう。
 きちんと食べずに悪かった。目の前の、小さな砂モグラの、頭らしき辺りを撫でながら、キリコは心の中で詫びる。
 おまえがひとりぼっちなのは、おれのせいだな。
 すべてを分かっていてそうしているのかどうか、砂モグラの仔はキリコの脇腹へ体をこすりつけて、懐く仕草を見せる。キリコはそのまま、砂モグラの小さな頭を撫で続けた。


 そうだ、おまえのせいだ。
 次には声がした。知らない声だった。目を開けると、目の前に自分がいた。どこか険しい顔つきの、自分だと分かるのに、自分だと思うと違う顔に見える、不思議な自分だった。
 おまえのせいだ。
 その自分がまた言う。唇は動くのに、表情は動かない。恐ろしいほど静かな、冷たい瞳。
 おれは、こんな風に人を見ているのか。
 自分が嫌われる理由のひとつをそこに見て取って、キリコは自分に向かって目を細める。自分をよく見ようと、体を起こそうとするのに動けない。軽くもがく間に、息の掛かる近さに、突然自分が近づいていた。
 おまえのせいだ。
 自分が、また言った。自分で聞いている声とは違う、自分の声だ。思っているよりも酷薄に聞こえる声だ。抑揚がなく、冷淡に響き、これもまた、人に嫌われる理由のひとつに違いない。
 全部おれのせいなのか。
 言い返すつもりはなく、喉が動いた通りに唇が形を作る。目の前の自分が、表情を変えずに、けれどいっそう険しく瞳の色を濃くした。
 そうだ、全部おまえのせいだ。
 そういうおまえも、おれじゃないか。
 黙れ。
 ぴしりとはねつけるような声が、厳しく唇に掛かって来る。
 目の前に見る、自分の青い目。緑にふた色寄った、軍の自分の記録には、これは何色と記してあったか。関係のないことを考えながら、自分の瞳の中に映る、自分の小さな顔──そちらはきちんと見覚えがあった──を見つめている。
 おまえは鬼子だ。
 自分が言った。どこか憎々しげな、吐き捨てるような口調。言葉の響きに憶えがなく、アストラギウス語ではないと思っても、響きの禍々しさが言葉の意味を端的に表わしていたから、疑問に思ったのを訊き返すことはしない。
 吸血部隊と罵られたし、人殺しとも言われた。悪魔のようだとつぶやいた誰かもいたし、普通の人間ではないと言い切った誰かもいた。最後には神の後継者とも呼ばれ、今は、触れ得ざる者と、いっそ塵芥(ちりあくた)の方がましだろうと言う呼び方をされている。
 自分が今言った、鬼子と言う言葉は、そのどれとも響きが似ていない。禍々しい響きだと言うのに、音節が奇妙に可愛らしいのは、それがキリコ自身の言葉ではないからだろうか。何となく舌っ足らずのように聞こえるのは、それとも言葉それ自体のどこか物悲しい感じのせいだろうか。
 誰が言った言葉だ。アストラギウス語ではないその言葉で、キリコを呼んだのは誰だったか。
 おれは神の子だそうだ。
 目の前の、自分の瞳に向かって上の空で言う。それにかぶせるように、自分が応える。
 おまえは神の子になることを拒んだ。だから神の子ではない。
 神の子でないなら、そして普通の人間でもないなら、おれは悪魔なのか。
 目の前の自分が、不意に悲しげに黙り込んだ。自分の選んだ言葉が正しかったのかと、キリコは自分を見つめようと、顎を軽く引いた。自分は、悲しげな表情のまま、キリコを見つめていた。
 悪魔ではない。おまえは鬼子だ。人間でもない。神でもない。悪魔でもない。人とは違う何かだ。鬼子だ。化け物のようで、けれど人の姿はしている。人のように見えて、けれど人ではない。おまえは鬼子だ。おれも鬼子だ。
 ほら、と自分がキリコの手を取り、自分の頭へ引き寄せる。側頭部から、左耳の近くへやや曲がりながら伸びている、驚くほど長い角。何かの獣の持ち物のようなそれは、どこかの星の、悪魔の像に描かれていたのとよく似ていた。
 触れて、そして見れば、右側にも同じ角がある。そこから手を離し、キリコは自分自身の頭へ触れた。同じような角がいつの間にか生えていると信じて、確かめるために触れた。そして、そこには髪の毛の感触しかなく、キリコには鬼の角がない。
 おまえはおれだ。おまえも鬼子だ。だが、こんな姿なのはおれだけだ。
 淡々と自分が言う。悲しげと言えば、そう聞こえる声だったけれど、単に事実を告げているだけだと、そんな風にも聞こえた。
 そうして、その声音に、鬼子が誰の言葉だったかを突然思い出す。
 クエント語だ。PSだと言われたと、まるで抱え込んだ秘密の重さに耐えられないように吐き出した後で、シャッコが静かにその言葉を口にした。目の前の自分が言ったとまったく同じに、人でもない、悪魔でもない、ただ何か違うもの。違うから化け物と言えるけれど、人に近い姿をしていて、必ず悪いものと言うわけでもない、何か、そんなもの。その言葉には、ひとりぼっちとか孤独であるとか外れものとか、そういう意味も含まれると、静かに言ったのはあれはシャッコだった。
 おまえもおれも、ひとりぼっちだ。
 異様な姿をした自分に向かって、キリコはそう言った。角の生えた辺りへ掌を乗せたまま、まるでそうすれば悲しげな自分を慰められるとでも言うように、キリコは、そうして自分に触れた。
 外には現さない、これは自分の内側の姿だ。人に近いけれど人ではない姿の、シャッコが鬼子と言った自分。
 ただ静かに、それがごく当たり前のように、気がつけば腕が互いに伸びている。自分を、ほとんどすがりつくように抱きしめて来る自分を、キリコは抱き返した。首筋に触れ、背中に触れ、胸や腹に触れて来る自分の手。文字通り、自分をひと時慰めるために、キリコは目を閉じた。
 腕の長さも、肩の厚みも、何もかも同じ体がふたつ、重なって、こすれ合う。汗に滑り出す皮膚の、かすかに立てる音さえそっくりだ。
 喘いだ声が、どちらのものか、声を上げながらわからなくなる。触れる熱、胸や肩をぶつけるようにすると、ごつごつと当たる、互いのそれ。どう触れればいいのか、いちばんよく知っている。それでも、ためらいながら触れる。
 チエコブの棘の毒が見せる幻覚。なぜこんな幻覚を見るのかと、自分と抱き合いながら、キリコは考えている。
 ひとりに耐えられなくなっている。淋しいと言う感情に、負けそうになっている。抱き合えるなら誰でもいいと、心の底で思い始めている。今なら、神にさえなると、言ってしまいそうだった。
 そうだ、この孤独こそ、あのワイズマンが仕掛けたものに違いない。孤独に乾いて、干乾びた心。ひび割れて、壊れて、それでも死にはしない心。ただ苦しみ続けるだけだ。
 たとえひと時でも、その苦しみをやわらげるために、こうして誰かの体温が必要なら、こんな幻覚すら受け入れてしまう。
 幻覚なら、いつかは終わる。毒の効き目は、いずれ消える。そのことに安堵しながら、同時に、この幻覚が終わってしまうことを、心の片隅で残念に思った。
 目が覚めたらまたひとりだ。鬼子のおれは、ひとりぼっちだ。
 キリコは、自分に重なる自分を抱きしめた。唇をさまよわせて、耳朶の近くへ触れながら、そこへ何かささやき掛けようとするのに、何も言葉が浮かばない。
 ひとりにしないでくれ。
 やっと口をついて出たのは、いつか燃え上がる破壊された街で、ひとり取り残されたように感じていた時に思わずつぶやいた、同じ言葉だった。
 ひとりにしないでくれ。おれを。もう。
 そう繰り返したキリコに、上から自分が額をこすりつけて来る。子どもにするような、稚ない慰めの仕草が、この目の前の自分にさえ、完全に孤独ではない今の状態を引き止めることはできないのだと告げている。
 それならせめて、ぬくもりくらいは最後まで味あわせてくれと、キリコは、抱きしめた自分を、もっと近く引き寄せた。
 幻覚の終わる気配に、心のどこかが怯えている。
 チエコブの棘を刺した指先が、痛みに疼いていた。

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