Down In A Hole
雨の降り続けた日だった。岩とまばらに生えた木の間を縫うように歩き続けて、ようやく雨雲の群れを追い越し、乾いた地面にぽたりぽたりまだ水滴を滴らせながら岩陰にどさりと腰を下ろした時にはもう日は暮れ掛けていた。
脱いだポンチョは岩に広げて掛け、星の見える夜空を確かめてから火を起こす。雨雲はどちらへ行ったものか、キリコを追って来る様子はなかった。
食事を済ませ、とりあえず胃を満たしてしまえば後はもうすることもない。寒さを心配する必要のないこの辺りの気候に、感謝するでもなくただ丁寧に火を消して、夜空を仰ぐ形に、寝る姿勢を取る。
視線の先に星の数を数えて、次に長雨の日に当たったら雨をシャワー代わりにするかと、思いながら目を閉じた。
立って、足元の地面を見下ろして、そこを掘らなければとキリコは思った。
膝を折り、両手を地面に置く。雨の後の湿りが残っていて、指先を立てるとざくっと容易に土が持ち上がる。少し前に、ここは掘り返されたばかりだからだと、そう思いながらキリコは、素手でさらに土を掘った。
腕を後ろへ振り、そちらに掘った土をかい出すようにして、キリコは無心に土を掘り続ける。ざくざくと、途中までは簡単に指先を差し込めたそこは、次第に硬さを増して、大きな石が混じるようになる。尖った石の先端が爪に食い込み、キリコはそのたび痛みに声を上げる。それでも、土を掘る手は止めない。
キリコの手は、肘近くまで泥だらけになり、爪の縁はどれもぐるりと周囲が裂け始めて、土に紛れて血が滲み始めている。痛みに耐えながら、キリコはそこを掘り続けた。
いつの間にか頭を掘った穴の中に差し入れるようにして、さらに進むと地面に腹這いになって掘り続ける。精一杯伸ばした腕が底へ届かなくなる前に、キリコは穴の中へ降りて、また掘り続けた。
掘れば、何かが見つかるはずだった。ここに、キリコの求めている何かが埋まっているはずだった。どれほど深く埋まっているのか、どこまで掘れば見つかるのか、キリコには分からない。掘り続ければ、それはいつか現れるはずだと、キリコは荒い息に背中を大きく上下させながら、目の前の土を掘り返している。
何度も石にぶつかり、それを掘り起こし、穴の外へ放り出した。少しずつ、確実に深くなる穴の中で、キリコはそれをさらに深くし、そこへ沈み込むような姿で、いつの間にか全身泥まみれになって、手足だけではなく、顔も髪も土をかぶって汚れていた。
腕を伸ばした深さだったそれは、今ではキリコの身長へ迫る深さになって、一体どれだけ時間が経ったのか、始めた時には薄暗かったのか明るかったのか、もうキリコは考えるのをやめていた。
執拗に地面を掘り返し続けながら、キリコはとっくに気づいている。これは夢だ。自分の見ている、ただの夢だ。この地面も、土に汚れた手足も、割れた爪の血も痛みも、全部にせものだ。だから、ここに埋まっているはずの何かも、ほんものではない。
分かっていても、キリコは手を止めることはできなかった。夢でもいい。埋まっているそれが、自分の目の前に現れてくれることを、それだけを望んで、キリコは血の流れる指先を土に食い込ませて、黙々と地面を掘る。指先分だけ土を掘り返せば、それだけその何かに近づける。今この瞬間にも、それは姿を現すかもしれない。
額から汗が滴り落ちる。口の中で泥がじゃりじゃりと音を立てる。流れる汗にも泥が混じり、もう呼吸すら泥くさい。
ここに一体、何が埋まっているんだ。今では爪だけではなく、掌も手の甲も、石や砂利で幾度も切って血まみれにしながら、キリコは自問する。ここに、何が埋まっていると自分は思っているのだろう。ぼんやりと形の浮かぶそれを、けれどはっきりと何かだと確かにすることはせずに、キリコは答えを曖昧なままにして、再び土に向かった。
掘り返した土はもう穴の周囲にぐるりと盛り上げられ、そろそろそこから這い上がるのも怪しくなっている。それなら、このままここに生き埋めになるのも悪くはないと、ふとそう思った。思った瞬間、唇の端が歪んだ形に持ち上がった。
そうだ、これは墓だ。キリコ自身の墓では、まだない。そうしようと思えばそうできるけれど、まだそうではない。ここはキリコの墓ではない。
けれど、どこまで掘っても何も出ては来ない。棺はなく、遺灰の入った容器もなく、掘っても掘っても見えるのはただの土だ。
ここではなかったのか。別の場所だったのか。ここにはいないのか。まだ、会えないのか──。
穴の底で、キリコは初めて手の動きを止めた。掘るのをやめ、代わりに、まだごろごろと石の埋まるそこを拳で叩いた。両手ともを振り上げて、殴りつけ、それはまるで罰を与えているような仕草で、キリコの手からは新たに血が吹き出し始めた。
土に血が混じる。さっきよりもずっと多く、その色のはっきり見える量の血が、そこへ流れ出してゆく。
ここだと思ったのに。掘り返せば、いずれその姿を現すはずだと思ったのに。違ったのか。ここではなかったのか。ここにはいないのか。
キリコは拳を叩きつけて、骨の砕ける音を期待しながら、そこへ滴る自分の血を虚ろに眺めている。
唇が震えて、何かの音を形作ろうとした。最初の音のために、唇を噛み掛けた時、不意に足音と気配がした。
「──キリコ。」
長い影が差し、それは穴全体を覆い、影の主は膝を折って穴の縁からキリコへ腕を伸ばして来る。長い腕はそこからキリコの肩へ触れそうで、それへ横顔だけで振り返っていたキリコは、驚きに開いた唇のまま、その男の名を呼んだ。
「シャッコ──。」
上がって来いと手招きされて、キリコは素直に片手を差し出す。血だらけの傷を避ける気遣いか、シャッコはキリコの手首を掴み、片腕だけでキリコを穴から引きずり上げる。
一気に疲れが噴き出して、キリコは上がった地面に膝から崩れ落ちた。自分が掘り返した穴の深さをちらりと眺めて、その昏(くら)さに自らの絶望を見て、ここではなかったのだとまた思う。
ここではない。彼女が埋められたのはここではない。彼女の亡骸はここにはない。あるいは、亡骸などどこにもないのかもしれない。逝ってしまったと、そう思うことそれ自体が夢の中の出来事だったのかもしれない。今キリコが、こうして夢の中にいるように。
穴からようやく目の前のシャッコへ視線を戻し、キリコは恐る恐るシャッコの膝へ触れた。ぬくもりがあり、記憶にあるよりもずっと良いこのシャッコの身なりに、自分の手の汚れが気になってそれを引っ込めようとした。その手を、そうはさせずにシャッコが取った。
「無茶なことを──。」
どこか諌めるような、心配げな声音でシャッコが言う。泥を払うような仕草で、キリコの髪と肩を大きな手がはたいて行った。
痛むかと、小声がキリコの傷だらけの手を見て問う。血は流れ続けていたけれど、シャッコにそうして触れられたせいかどうか、痛みは感じなかった。
代わりに、穴の底で感じていた、希望の振りをした絶望を思い出して、キリコは疲れとともにそれに全身を覆われ、今すぐ穴の中へ戻りたいと言う気持ちと、このままシャッコへすべてを吐き出してしまいたい気持ちの両方に同時に襲われて、さっき呼ぼうとして呼べなかった名を、やっと声に出す。
「──フィアナ──」
そうだ、キリコはフィアナを探している。フィアナがここに眠っていると、そう思って地面を掘った。フィアナはいない。どこにもいない。逝ってしまったからだ。キリコは、フィアナを救うことができなかった。
「フィアナ──。」
おれをひとりにしないでくれ。おれを、ひとりにするな。
フィアナに向かって言ったつもりのその言葉は、シャッコに向かってに投げつける形になった。キリコの声の震えようにシャッコがわずかに驚きを刷いて、キリコを痛々しげに見つめた後、長い腕の中にキリコを抱き寄せた。泥まみれの汚れた体を、シャッコは構わず抱きしめた。
キリコはシャッコの背中に両腕を回して、すがりつくように、伸ばした喉をシャッコの肩に乗せてから、自分の頬が濡れているのに気づいた。汗ではなかった。キリコは泣いていた。その後で、伸ばした喉が叫びに裂けた。キリコは、シャッコの腕の中で声を放って泣いた。
フィアナがいない。目に映る姿もない。声は聞こえず、空気の中に気配もない。もう会えないのだと、キリコはそう思うことを拒んでいる。拒めば拒むほど、辛くなるだけだ。それでも、キリコはフィアナの死を認められずに、泣くことすらできない。
夢の中でだけ、キリコはフィアナを想って泣き、その死を嘆くことができる。今そうしているキリコを、シャッコが抱きしめている。
シャッコの背に、キリコの血と泥の手の跡が残り、シャッコの肩に、キリコの涙の跡が残る。目が覚めれば跡形もなく消える、すべてが幻だとしても。
キリコはいっそう強くシャッコにしがみつき、力をこめればちゃんと痛む指先の、疼く傷へ、夢でもいいと、尖る息を吸い込む間に思う。
今はひとりではない。シャッコがいる。泣くキリコを抱きしめて、シャッコがいる。
フィアナの代わりにするつもりはなかった。それでも今は、夢ですら会えないフィアナの代わりに、シャッコのぬくもりがただありがたかった。
夢の中で、静かに雨が降り始めていた。いずれ消えるシャッコを、引き止めるように自分から抱きしめて、キリコはいつの間にか泣くのをやめて、代わりに雨が頬を濡らしてゆく。
夢の中の雨には音がない。音のない雨に、地面が濡れてゆく。シャッコは黙ったままキリコを抱きしめ、キリコは、シャッコと小さく呼んだ。
泥も血も涙も洗い流す雨の中で、シャッコの腕のぬくもりだけが確かなもののように思えた。
ひとりきり目覚めてこぼすだろうため息が、今だけはわずかに遠い。
☆ 「悔恨」 by fbkさんへ。
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