戻る

指と口

 殴られた分は、倍にして返したはずだった。キリコの顔も相当だったけれど、逃げて行った連中の顔は、多分もっと腫れ上がっていたはずだ。シャッコはキリコのあごをちょっと持ち上げて、傷を検分するようにあごを胸元へ引きつける。
 「口の中を切ったか。」
 唇の端にこびりついている血の多さに、けれどその辺りへはそれらしい傷は見当たらず、拭った鼻血はもう止まっていて心配はなさそうだと思いながら、シャッコは自分でも驚くほど心配気に、キリコのもうぷっくりと腫れ始めている上唇へ視線を当てたまま訊く。
 「ああ、多分な。」
 唇を動かすだけで、顔のどこかが痛むのか、キリコがはっきりと眉を寄せた。
 「見せてみろ。」
 あごへ指を添えたまま、シャッコは空いた方の手でキリコの唇の合わせ目へ触れようとする。
 「──痛い。」
 忌々しそうにぼやいて、ちょっと顔を背けたのを逃さずに、シャッコは遠慮なくキリコの腫れた唇を割る。
 開かせた唇から覗いた歯列が、思ったより赤く血に染まって、歯でも折ったかとシャッコは一瞬身構える。歯を折ったら、痛みはこの程度では済まないはずだと自分に言い聞かせて、その歯列を、さらに親指の先で割った。
 口の中が、血のせいで赤い。どこかからまだぬるりとあふれて来る血で、舌の奥は真っ赤に染まり、そこで所在なさげにうろうろと迷う舌先が、歯の裏へ隠れようとするのが、案外可愛らしく見えた。
 キリコが何か言った。シャッコの親指を差し入れられて、もちろん舌はきちんと動かず、シャッコがもう一度言えと親指を引くと、キリコが憮然とした表情で、上目に、
 「・・・手が汚れるぞ。」
 言いながら、殴られたせいばかりでもなさそうに、頬の辺りが薄赤い。
 口の中をわざわざ覗かれて、傷の具合を確かめられている自分の子どもっぽさに照れているのだと気づくのに、数秒掛かった。
 シャッコ同様、常に無表情なこの男の、珍しい表情に心の端を突然すくい上げられたような気分になって、今度はシャッコが戸惑う番だった。
 「後で洗えば済む。」
 ふたりとも、動揺を隠してことさら声は平たく、シャッコはまたキリコの口の中へ指を差し入れ、キリコは横へ視線をずらしてシャッコを見ないようにして、シャッコはキリコが素直に開いた口の中を、再びじっと覗き込んだ。
 傷を見るには邪魔な舌を、人差し指と中指の指先に軽くつまんで、右と左へ動かして、そうして歯に当たって切れたらしい頬の内側に2、3の傷を見つけて、まだ血の滲んでいるそこへ、シャッコはつい指を伸ばす。
 生温かい唾液と、それよりは粘度の高い血と、人の粘膜のぬくもりに、どこかが疼いているのを感じて、シャッコは引き出そうとした指を、けれどそこから動かせなかった。
 「膿ませると、後が面倒だぞ。」
 取り繕うようにシャッコが言うと、分かっていると、キリコが小さくうなずいた。
 傷に触れるべきではないのに、また指先を這わせて、そしてついでのように、いかにも健やかで力強い奥歯の凹凸と、上顎のくっきりとした溝も指先に確かめさせて、今では傷を確かめるよりも、キリコのあたたかく湿った口の中から去りがたくなって、シャッコはいつまでもキリコの舌裏へ指を伸ばし続けている。
 そして、キリコの頬が、今ではいっそう赤い。
 舌を伸ばすと、喉が開く。そこは暗く、さらに赤く、そしてもっと熱い。指先を無理に差し入れれば、吐き気を誘うと知っている。ふと、そうしたくなって、そうしたくなった自分に驚いて、シャッコはようやくキリコの口の中から指を抜き出そうとした。
 それが、一瞬遅れて、また傷に触れたせいかどうか、それとも開きっ放しのあごが疲れたのか、不意にキリコがあごを軽く引き、それと一緒に口を閉じようとした。がちりと音がして、シャッコの長い指の真ん中辺りを噛み、うっと呻いたシャッコの、そこにはうっすらと歯型が残る。
 そして、シャッコの手がキリコの血まみれの口から外れても、血交じりの唾液の糸が、指先と唇をまだ繋いでいる。
 それが光るのを、ふたりは同時に見た。見て、そして互いを見つめて、感じたのは同時に、同じことだった。
 キリコが自分の口元を手で覆い、
 「──悪かった。」
 掌の向こうで、くぐもった声で、シャッコの指を噛んでしまったことを謝り、そのまま走るように去って行く。
 キリコのその背を、突っ立ったまま見送って、シャッコはキリコに噛まれた自分の指を見下ろし、血と唾液に濡れて、自分の体温に乾き始めている赤のまだらを、洗い落としに行かなければと、頭の片隅で考えていた。
 指の付け根まで汚れて、掌へも拡がり始めていたその湿りを、思わず拳の中に握り締める。閉じ込めようとしたつもりもなく、まだ残るキリコの、直の体温のあたたかさが、そうすればすぐには去らないような気がして、早く手を洗いに行かなければと、自分に言い聞かせるように、シャッコはまた思った。
 キリコの残した薄い歯型の上へ、自分の歯を食い込ませたいと思ったことを、シャッコは永遠に自分の胸へ秘めておこうと、その場でひとり誓った。

* Twitterからネタ拾い。即興。

戻る