愚かな蛇
* 閲覧注意 *
☆ R18
☆ 首絞め、私刑、強姦描写。
☆ 暴力の連鎖、と言うネタをお借りしました。
残念ながらキリコにとっては、あまりにも馴染み深いことだった。
バーコフ分隊がマニド峡谷通過の先鋒であることが、よほど気に入らないらしい。別におれ──たち──が立候補したわけじゃないと、言ったところで、キリコを囲んで険しい顔をしている彼らの怒りの火に油を注ぐだけだ。
キリコもまた命令を受けただけで、下っ端のAT乗りがそれに異を唱えられるわけもないことを、彼らもその身に思い知っているはずで、それでもどこかにぶつけなければいられない怒りを、吐き出す相手をキリコに定めたらしかった。
人数を見て、キリコはさっさと抵抗するのをやめた。反撃は恐らく無駄だし、おとなしく殴らせておけばじき治まるだろうと思ったからだ。下手に──巧く──かわして逃げ遂せて、後lでATにろくでもない細工でもされたら困ると、そうも思った。
キリコの手か足の骨でも折れば、バーコフ分隊への命令は撤回されるかもしれないけれど、それよりも多分、単に人員を入れ替えて、分隊はそのまま作戦を遂行することになる。彼らもそのことは分かっているらしく、妙に力を込めて腕を捻り上げたり、足を何かで潰したりしようとする気配はなかった。
殴る蹴るなら、好きにやらせておけばいい。6人の、顔に見覚えのない兵士たちの腕の中を荷物のように渡らせられながら、脳震盪は起こさないように、できるだけ急所を狙う拳は微妙にずらして、キリコは彼らの攻撃を適当に受け流している。
腰抜け、と誰かが喚いた。キリコは聞こえなかった振りをした。挑発に乗る気はないし、キリコにはその程度の暴言など効かない。腰抜けがどうしたと、内心でだけ言い返して、腹へ食い込む拳を、さりげなく体を後ろに引いて受ける。
足元がふらついたのは、それでも殴られ続けて、それなりのダメージがたまったせいだったのかもしれない。誰かの傍へ倒れて、頭を蹴られないように、キリコは慌てて上体を起こした。
「まだ動けるのか。丈夫な野郎だなおい。」
誰かの、呆れたような声。体だけではなく、どれだけ口汚く罵られても、顔色も変えず言い返しても来ないキリコの、その無表情に、そろそろ彼らの神経の方がささくれ立ち始めているようだった。
もう飽きる頃かと、キリコは内心で彼らの心情を推し量りながら、立ち上がろうとしたその肩を、誰かがブーツの底でひどく蹴る。
体が後ろに飛び、背中が壁に当たり、痛みに、さすがのキリコも声を上げてうめいた。
のし掛かって来る体。肩を押さえる手。別の誰かが足を取った。
「すかした顔しやがって。どこまで保つか楽しみだな。」
兵士たちの間の空気が、一瞬で変わる。分かりやすい刺々しさがなりをひそめ、こもった嫌な笑いが、その場を満たした。
またか、とキリコは、怒りや嫌悪よりも、まずはうんざりした気持ちを味わって、それきりぴたりと心を閉じる。
もう何も感じない。押さえ込まれて動けない体を、男たちが肌を剥き出しにして、触れて来る。彼らの手指の冷たさは、キリコの神経には達さない。耐圧服に手を掛け、体から剥ぎ取る彼らの手慣れた様子に、キリコは一瞬だけ憎悪に近い嫌悪を感じたけれど、すぐにそれを心の奥底へ追いやった。
殴られるよりも、こちらの方が終わりを予測できるだけましだと、そう思う。6人。せいぜい2周、物好きが、もしかしたらひとりかふたり、それなら2周半として、何とか歩いて自分の部屋へ戻れるだろう。ここから一番近い仮眠室はどこだ。先にシャワーを浴びて──
シャツを脱がし掛けたところで、引きずり起こされ、腕は後ろで掴まれたまま、この場で、最高の男らしさ──失笑ものだ──を他の皆に示すために、目の前に立ちはだかった誰かが、まだ兆しもないそれを、キリコの口元へ向かって突き出して来る。
キリコは歯を食い縛った。好きにすればいいと思っても、積極的に彼らに追従する気はなく、自分の躯をこじ開けるようにして使うにせよ、それなら自分にはよく見えないやり方でやってくれと、心の中で毒づいた。
ふたり掛かりでキリコのあごを締め上げ、口を開かせようとする。それにだけははっきりと抵抗を示して、
「噛みつかれたら面倒だ、さっさとやっちまおうぜ。」
男らしさとやらを誇示するのを、誰かが諦めさせるように言う。
「ちっ、顎のひとつでも砕いてやりゃ──」
舌打ちした男が、自分のそれを一応は引っ込めようとした時、背後にぬっと大きな影が現れた。音もなく、それは突然男の肩を掴んでくるりと方向転換させると、男がしまい損ねたそれへ、強烈に膝を蹴り入れる。
勢いで男はほとんど床から浮き上がり、そして、どこから出したか分からないひしゃげた悲鳴を小さく上げて、手足を投げ出して床に伸びてしまった。
ゴダンだった。白いシャツ姿で、いかにも偶然通り掛かったと言う風に、床に膝立ちのキリコを見下ろす目も、薄闇で冷たい。
彼らは、何が起こったのか分からず、キリコを押さえ込んだままその場に凍りつき、ゴダンがまた手近な誰かを自分の方へ引き寄せて、首に腕を回して容赦なく絞め上げ始めたところで、
「こ、この野郎っ!」
「てめぇら全員営巣行きだぞぉっ!」
ゴダンの野太い声が天井も壁も床も震わし、その怒号を耳元で聞く羽目になった、今首を絞められている男は、呼吸をしたいのか耳を塞ぎたいのか、もう青い顔をして目の焦点が怪しくなっている。
「とっとと失せろ。二度とオレたちに近づくな。」
くたりと、ゴダンの太い腕の中で、その男の体も伸びてしまった。
「て、てめぇ、殺しやがった!」
「そんなヘマするかバカ。落としただけだ。」
この場には不似合いに妙に軽く返事をし、失神してしまったその男を、一応は気使ってか、ゴダンはそろりとその体を自分の足下へ横たえ、それから、その場の全員へ向かってあごをしゃくって見せる。
「もう1回言ってやる、とっとと失せやがれ。」
ゴダンが、自分の腕の長さと太さを見せつけるように、筋肉の盛り上がった二の腕を叩いて見せる。この場の誰よりも、頭半分は確実に背の高いゴダンに見下ろされ、睨めつけられ、今では4人になってしまったこの顔ぶれでは、このデカブツ相手は無茶だと聡く悟った連中は、そっとキリコから手を離し、じりじりとゴダンを遠巻きにするように後ずさると、後は兎のように素早く駆け出そうとした。
「オイ、お仲間を忘れんな。」
急所を蹴られて失神した男を、ゴダンがブーツの先で蹴り、仲間たちは慌てて、先に倒れたふたりを抱え上げて、這々の体で逃げてゆく。
キリコはその場に坐り込み、痛む腹を思わず撫でた。
「腰抜けが。死ぬ気になりゃ、もちっと何とかなったんじゃねえか。」
駆け去った連中の足音が消えると、ゴダンはそこからキリコを見下ろして、吐き捨てるように言う。
同じ言い様も、一応は仲間であるゴダンの口からでは、少しばかりキリコの心の端を噛んで来る。睨んだつもりはなく、キリコはじろっとゴダンへ向かって上目になった。
「3人なら必死に抵抗もするが、6人相手にそれは無駄だ。向こうの好きにさせた方が、結果的に被害は少なくてすむ。」
「輪姦(まわ)されて、チョロい野郎だってことにされて、それで被害が少ないってのか。」
キリコは返事をしなかった。
ゴダンの言うことは正しくもあったし、それでもキリコにはキリコなりの考えがあって、今ここでそれを議論する気はなく、嫌味にも皮肉にも聞こえないタイミングでこの件の礼を言うのは、一体いつがいいだろうかと、キリコが考えていたのはそんなことだった。
「シカトしやがって。」
ゴダンは、キリコの沈黙を別の意味に取ったようだ。
キリコを放ってそのまま立ち去るかと思ったのに、ゴダンは尖った声のままの乱暴な仕草で、そこにまだぺたりを腰を落としているキリコのシャツの襟首を掴み、そのまま引きずり上げた。
「腰抜けに任せる背中はねえ。」
腫れ始めたまぶたのせいで狭くなった視界を、ゴダンの顔がいっぱいに埋めて来る。こめかみに血管が浮き、襟を掴んだ手もかすかに震えているのに気づいて、キリコはゴダンのこの怒り様を咄嗟に理解できず、思わず訝しげに眉を寄せた。
それをまたゴダンが誤解して、キリコの態度を生意気と受け取る。
「敵の数が4人以上になったら、黙って撃たれてやるのかてめぇは。」
「このことと、戦闘中のことは関係ない。」
「どうだかな。こういう時に、人間の本性ってのは案外よく分かるもんだぜ。」
言い切る口調がいかにも確信めいていて、キリコはいっそう不審を深めて、じっと観察するようにゴダンの手を振り払いもしない。
「3人までならちゃんとやり返すって言ったな。」
そのような言い方ではなかったけれど、大体そういう意味だと、キリコはかすかにうなずいて見せた。
「だったら、証明して見せろ。」
「証明──?」
そうだ、と言うと同時にキリコの首を後ろで片手で掴み、まるで獣の仔でも持ち運ぶように、ゴダンは軽々とキリコを引き連れて歩き出す。
キリコは傷の痛みに全身を引きずるようにしながら、ゴダンにただ引き回され、人気のない廊下の、突然の明るさに目つぶしでも食らったように、痺れて重い両腕をただ体の傍に垂らしている。
いっそう人気のない方へ廊下を進んで、2度ほど短く曲がった先で、ゴダンが壁そっくりに素っ気ないドアを開いた。荷物のように床に放り出され、そこの暗さに慣れようと目を凝らした時、天井から白々と明かりが降って来る。
ベッドが数台、左手奥には別のドアが見える。バスルームらしい。ここは仮眠室だ。床の埃っぽさが、滅多と使われていないことを伝えて来る。
キリコは体を裏返し、自分の足下へ立ったゴダンを見上げた。
「オレひとりなら、死ぬ気で抵抗するんだな?」
本気ではないだろうと、まだキリコは思っていた。ゴダンがキリコを殴る蹴るしたところで、誰にも何の得にもならない。あるいは、単にキリコのことを虫が好かないと言うだけで、ゴダンと言う粗暴な男にとっては十分な理由になるのか。
拳を使っては来なかった。すでに散々殴られてあちこち腫れているキリコの顔へ、ゴダンが軽く平手を繰り返して来る。いかにも馬鹿にしたように、床に転がったままのキリコへ馬乗りになって、ゴダンはキリコを挑発し続けた。
「ほれ、やり返してみろ、オレひとりなら、必死になりゃ逃げられるぜ。多分な。」
にやにや笑いを浮べているくせに、こめかみに浮いた血管がいっそう青さを増しているのが不気味に見える。キリコはただ頬を張られるまま左右に頭を振り、本気の殴り合いなどせずに、この男の下から逃げ出すにはどうしたらいいかと、ゴダンの体の重みを何とか跳ね返そうと、こっそり足をばたつかせるタイミングを測っていた。
「この、腑抜け野郎。てめぇみたいなのが──」
軽蔑の笑みが、少しずつ淡くなって、反比例するように平手が強さを増し、そしてすっとゴダンの表情が怒りと入れ替わる。同時に、掌が拳になった。それでも、本気で振り下ろしはしないだろうと思ったキリコは、突然床にこめかみを叩きつけられるほど強く殴られ、危うく舌を噛まずには済んだけれど、顔を歪めて痛みに呻く羽目になった。
冗談ではなくなってしまった──ゴダンは、恐らく最初から冗談のつもりではなかったのだろう──やり取りは、けれどキリコの反撃を欠いて相変わらずゴダンの一方的な殴打のまま、
「死ぬまでオレに殴られてるつもりかてめえ。」
「──殺すまでするほどバカじゃないだろう。」
思ったよりもなめらかに動いた舌の奥で、鼻から流れ込んだ血が喉に絡んで誘う吐き気に、キリコはできるだけ無表情に耐える。
ゴダンは、キリコのあくまで涼しい物言いと、その無表情についに諦めたのか、キリコの襟元から手を放し、キリコはそれに内心ほっとして体を起こそうとした。
キリコがそうするより早く、ゴダンがまたキリコの肩を押し返して来る。そして、怒りの沸点がとうに限界を超えた能面のような無表情──キリコのそれとは、少し違う──で、突然キリコの体を投げ出すように裏返し、耐圧服の腰のベルトへ手を掛けた。
「ゴダン!」
「何だ、やっとその気になったか。ちいっと遅かったな。」
腿の裏側へ膝を乗せて、ゴダンはキリコを背中から押さえ込み、さっきの連中がそこまでは達せなかった、キリコの下肢へ掌を伸ばし、意外な器用さで着けているものを剥ぎ取ってゆく。
「ゴダン!」
キリコはもう一度喚いた。けれどゴダンは手を止めない。
「逃げるチャンスはいくらでもあったんだぜ。逃げなかったのはてめえだ。」
萎えたままのそれを、ゴダンはキリコの剥き出しにした素肌に押しつけて来る。ちっと舌打ちが聞こえ、ゴダンの大きな掌がキリコの腰へ這った。そのまま膝を立てる姿勢に引き寄せられ、次に、よく知っている痛みが続く。
頭を押さえつけられるまま、キリコは床に額をこすりつけて、声を噛んだ。腫れている部分が、床に当たってひどく痛む。ゴダンの目的がまったく分からず、作戦の前に、なぜわざわざ仲間割れの原因になるようなことをするのか、キリコには理解できなかった。
突然現われてあの連中を追い払って、そして次がこれだ。年若の兵を、処理に使いたい古参兵たちがいることは、キリコは我が身で知っている。それ以外に、単に格下と思い知らせる目的だけでこんなことをしたがる手合いがいる。あるいは単純に、暴力に中毒して、抗う相手が最終的に唯々諾々と自分に従うのが好きでたまらないと言う輩もいる。ゴダンはそのどれに当てはまるのか、キリコにはまったく分からない。短気で粗暴であることは間違いなくても、その粗暴さがこちらへ向かうタイプだとは考えていなかった。
なぜ、とキリコは考え続けている。考えても無駄と知っていて、けれどゴダンに押し込まれるそれの感触から心を遠ざけるために、キリコはずっと考え続けた。
ゴダンは不意に躯の動きを止め、キリコの肩へ手を伸ばし、中途半端に脱がせかけていたシャツを首から無理矢理抜き取った。
一緒に、繋がっていた躯も外して、終わったのかと力を抜いたキリコの体を、またぞんざいに引っくり返す。膝から下はブーツのままの脚を適当に抱え上げて胸の方へ折って来ると、さっきよりも幾分なめらかに、躯がまた繋がる。押し込む強さの必要のない分の動作の穏やかさが、ふとふたりの間の空気を、奇妙な風に優しくする。
正面から向かい合うと、ゴダンはある程度怒りを発散させて落ち着いたのか、あの爆発寸前の爆弾のような感情の昂ぶりはもう見えず、キリコはぼんやりと、事の成り行きにただ身を任せているだけだった。
「キリコ──。」
再び押し入って、まだ動き出さずに、ゴダンが呼び掛けて来る。
「これでもまだ、逃げねえのか──?」
ゴダンの掌が、キリコの首に乗る。片手を広げて、それだけでぐるりとキリコの首回りを覆ってしまう。中指と親指に、次第に力がこもってゆく。
「まだ、逃げねえつもりか。キリコ。」
人差し指と薬指も、それに続いた。まだ喉の正面は押さえ込まず、あごの付け根を締め付けるだけだ。痛みはあっても呼吸はできた。
「・・・殺すぞ。」
凄ませはしないゴダンの声の平たさが、本気をきちんと伝えて来るのに、キリコはされるまままだ動かない。
もう一方の手が、喉に乗った。今度は、互い違いに並んだ親指が、気道を正確に潰しに掛かる。
キリコは、思わず喉を伸ばして上向いた。下目に、ゴダンの、やけに静かな冷たい瞳が見える。
この男は、人間の体のことをよく知っている。どうすればどんな風に痛んで、どんな風に傷ついて、そしてどうすれば確実に死ぬのか、このゴダンと言う男は、それをとても良く知っている。
殺すと言いながら、そこに達するまではわずかに時間のあるように、じわじわと指と掌に力が加わり、キリコは、細まる気道を通るわずかな空気の、もう肺に達する勢いもないそれへ、そうして溺れ始めていた。
ゴダンはあくまで冷静で、キリコが自分の下で窒息しつつあるのを、ただじっと眺めている。怯むこともなく、手指の力を適当に加減しながら、決してキリコを逃すことはせず、キリコもなぜか、床に投げ出したままの腕を上げもせず、ゴダンに首を絞められるまま、白っぽく霞む視界の中に、ゴダンの冷たい瞳に自分の目を据えている。
おまえも、とキリコは思った。おまえも、そうだったのか。こんな風に踏みつけにされて、ただ耐えるしかなかったのか。自分よりも年下の、新兵のゴダンの姿が、はっきりと脳裏に思い浮かんだ。今よりもずっと細い、ただひょろりと長いだけの手足。押さえつけられて、泣こうと喚こうと、誰も助けには来ない。ただそれを、耐えるしかない。耐えた後に、二度と繰り返さないために、ただ誰よりも強くなるしかなかった。二度と誰も、自分にそんな風に触れないように。触れさせないように。
ぶ厚い胸と肩。太い首と腕。蹴り上げれば、鋼板入りの軍靴よりも硬い膝と腿。今のゴダンに喧嘩を売る馬鹿は、きっとコチャックくらいだ。半ば冗談のように、キリコはぼんやりと考える。
だからおまえは、おれを見るのに耐えられなかったのか。おれと自分を重ねて、そしておれを許せず、おれを罰するために、おれを痛めつけて、おまえ自身の痛みをおれになすりつけて、そうして自分の痛みを薄めるつもりだったのか。
そんなことは無駄だ。キリコはきっぱりと、胸の中で言い捨てて、必死で瞳を動かして、ゴダンを見た。
おれを踏みにじっても、おまえの抱えた傷は治らない。おまえの痛みは決して去らない。おまえはただ、血を流し続ける自分の傷を、こうして自分で抉り続けているだけだ。
キリコの胸の中に湧いたのは、同情と憐憫だった。ゴダンに対する憐れさに、キリコは今さら腕を持ち上げ、ゴダンの腿へ触れた。指先を揃えて乗せ、まるで引き寄せるように、そこへ指と掌を押しつけた。
ゴダンが、目を細め、眉を寄せて、キリコを見下ろす。まだ死んでいない──殺していない──キリコを深々と見つめて、すでに焦点の合わないその瞳が、けれどひどく穏やかに見えるのを、明らかに訝しがる色を刷いた。
キリコに、自分の痛みを移そうとするゴダンによって、キリコは死ねるのかもしれない。このまま、ゴダンはキリコの首を絞め続け、肺から最後の呼吸の一片も絞り出して、キリコはそうして死ぬのかもしれない。
双方の利害の一致だ、悪い話じゃない。キリコはなぜか笑い出したい気分になった。
まだ首に掛かったままのゴダンの手指から、力が去ることはなく、キリコは、自分たちふたりが今まるで、絡み合った2匹の蛇のように思えた。どちらがどちらと見極めもつかず、絡まり切った長い体。噛みつくその胴が、相手のものとも限らない。そして、飲み込んだその尾が、自分のそれでないと、どうして言い切れるだろう。
一旦飲んだ尾は、もう吐き出せない。飲み込み続けるしかない。飲み込んで飲み込んで飲み込み続けて、そして胃の膨れ切った体で突然気づく。自分の中に消えた自分の体。自分の飲み込んだ尾に続く、自分の体。もうそこにはなく、胃の中で溶け始めている、自分の体。
キリコは、濁った、声のようなものを気道から吐いた。開いた唇はもう閉じることもなく、見開いた目にゴダンが映ってはいても、現実にはもう何も見ていない。開いたゴダンの瞳孔には、そんなキリコが小さく映っている。
おれたちは、救いようもなく愚かだ。愚かでちっぽけで、それでも生きたいと、そうしてあがいている。
ゴダンが与えてくれた束の間の仮死の、その静けさの、自分の身内を駆け抜けて行った微風の名残りを、キリコは腕を伸ばして追った。つもりだった。
自分を見下ろすゴダンが、いつの間にか体を起こし、部屋中に忌々しげな舌打ちを響かせて、床に手足を投げ出しているキリコにもうそれ以上触れる気配もなく、それでも、キリコの目がまた生気を取り戻すまで、ゴダンはそうしてキリコを見つめ続けていた。
キリコが正気を取り戻して何とか体を起こすと、ゴダンはそのまま何も言わずに部屋を出て行った。
キリコは、頬に湿りを感じて、のろのろ腕を持ち上げて触れた。血かと思ったそれは、ただの唾液で、首を絞められている間にあふれたものか、耳の傍から喉へも垂れ落ちて、もう乾き始めているそれが、ゴダンの手まで濡らして汚したろうと、なぜかゴダンへ感じた憐れがまだ消えず、ゴダンがああして殺そうとした──本気だったかどうかは、永遠に分からない──のは、自分ではなく、過去のゴダン自身だったのだと今では思い至れるキリコは、ひどくやるせない気分で、自分の痛む体を、自分の体ではないように見下ろした。
疼いて焼けるように熱い首に、そっと触れる。見なくても、ゴダンの指の形が、くっきりとそこに残っているのが分かる。赤いその跡が、手足もなく地を這い回る蛇をまた思い起こさせた。
自分の首に回る蛇の体が、そのまま全身に巻きついて来る。冷たく皮膚をこする、鱗の体。ぎりぎりと全身を締め上げられる苦しみを想像して、いつの間にか、蛇に締め上げられているのが、ゴダンにすり替わっていた。
苦しいのは、おれだけでもなければ、おまえだけでもない。
シャワールームへ向かって、体を引きずり上げる。思わず、手足があるかどうか、見下ろして確かめてから、キリコはほとんどいとおしんでいるように見える仕草で、もう一度首に回るゴダンの指の跡へ触れ、ゴダンが殺し損ねた少年のゴダンへ、何か掛ける言葉があったような気がしたけれど、そんな気がしただけだった。