戻る

* 選択お題@TigerLily *

切られた髪

 「来な。」
 男が手招きする。列に並んでぼうっとしていたキリコは、ひらひら揺れる手の動きに気づいて、慌てて彼の目の前の椅子の方へ行った。
 椅子の周りも男の足元──傷だらけのブーツ──も、様々な色と長さの髪だらけだ。こうやって、散髪の日には日長1日、兵士たちの髪を刈る彼らは、午後にはもうどんよりとした目でただ目の前の頭にバリカンを当て、その頭が傷跡だらけであるとか、神経性のものかどうか髪の生えない部分があるとか、そんなことにはもう注意も払わないようだった。
 つるりとした布で首から下を覆われ、首の後でそれの端と端を合わせた時に床屋役の男はようやくキリコの首の細さに気づいたように、少しの間その手を止めた。
 「──ボウズ、いくつだ。」
 兵士たちとの付き合いが始まって以来、耳に馴染み始めている詰問口調とは違い、男の声音はただ不審げに、ある意味では驚きの色を刷いてキリコの耳に届く。
 「14。」
 素っ気なく答え、男へ流していた視線を真正面に戻す。椅子の下にまだ爪先がかろうじて届くキリコの幼さに、男が眉をはっきりと寄せた。
 「また、えらく気の早い入隊だな。予備隊も、おまえみたいなガキを捕まえて来るようじゃ、先が知れたもんだ。」
 「おいおい、迂闊なこと言うんじゃねえ。憲兵がうろちょろしてんだぞ。」
 キリコの後に並んでいる兵士が、どすの利いた声を飛ばして来る。床屋の男はへっとそれを鼻先で笑い飛ばし、さらに危険な物言いを付け加える。
 「15やら16やらのガキやら、40越えた野郎どもやら、そんなの集め出したらもうおしまいってことさ。上もうんざりだろうぜ。」
 百年続いたこの戦争は、もう誰にとってもただの日常と化し、終わりがないのが当然のように、けれどそれに疲弊もして、兵士たちの軽口もただ悲惨さを増すだけだ。憲兵隊も、それを理解して聞かなかった振りをする。
 床屋の口調に、列の後ろの方から、そうだそうだと賛同の声が軽くまとまって上がり、そして皆が一瞬どっと声を立てて笑った。
 男はバリカンのスイッチを入れ、キリコのうなじへ、意外な繊細さで刃先をそっと当てる。じじじと振動が頭を滑ってゆき、それはくすぐったさを伴って首筋を粟立て、キリコは思わずぞくっと薄い肩をすくめた。
 くしゃくしゃに伸びた髪は、自分で適当に切っただけだ。饐えた臭いを放つところまでは行かずに、けれど清潔からは程遠い。難民キャンプでは、生きるに最低限のもののみ存在する。孤児のキリコにはそこを出れば行くところはなく、手っ取り早く軍──少年たちが事前に入る予備隊──に入隊するのがいちばんましな選択だった。いや、ましも何も、それしか選択はない。
 兵士たちに食事を提供する仕事を手伝い、彼らの宿舎を掃除し、武器の扱いを習い、格闘技とATの操縦を学ぶ。2年耐えれば正規の兵士になれる。16からだと言う規則も、今時はもう字面のみで、訓練教官の覚えが良ければもっと早く正式の兵士として前線に送り込まれることもあると、キリコは聞いていた。
 何でもいい、飢える心配がなければ。乾いた寝場所の確保に必死にならずに済めば。着替えすらままならない、次にはいつシャワーを浴びられるのか分からない暮らしから逃れられるなら。
 男はキリコのまだ小さな頭に手を添え、右や左に軽く傾けさせながら、するするとバリカンの刃を進めてゆく。手早くやればひとり5分強、けれど男は、初めての軍での散髪らしいキリコの髪を、それよりはずっと丁寧に刈り、自分の唇を結んだ横顔に、順番待ちの兵士たちがやるせなげな視線を当てていることにキリコは気づいていなかった。
 頭が次第に軽くなる。かすかに吹く風が、涼しいよりは肌寒く耳の後ろを撫でてゆく。ぱらぱらと落ちて布の上に溜まる自分の青い髪を、キリコは知らず悲しげに眺めていた。
 これは過去だ。今まで肩にのし掛かっていた、14年分の過去だ。あらゆる苦痛、あらゆる悲哀、あらゆる涙、あらゆる絶叫、すべてが、その青い髪になって、キリコの身から滑り落ちてゆく。これから、過去のない自分になるのだ。兵士には何もいらない。与えられる日々のみで過ごし、命令通りに動けばいいだけだ。
 「ほい、終わりだ。」
 震えるバリカンの刃先が遠ざかり、スイッチが切られて音が止まる。男はキリコの頭をぐるりと撫で、体を覆っていた布を振りながら取り去った。
 キリコは椅子から降りながら、反射的に自分の頭を撫で、そうして、思ったよりもずっと長く残っている髪に驚いて、思わず抗議するような表情で男へ振り返った。
 男はそんな反応に慣れているのか、ばさばさと布を振りながら、
 「ちいっと残しとかねえと危ないからな。つるつるにしちまったら、ちょっとどこかに当たっただけで切れて血が出る。頭からの出血は量が多いんだ。どこかの角にぶつけて血まみれになんかなりたかねえだろ。」
 今まで一体、何百人、何千人の髪を、そうして切って来たのか、男はもう何度も繰り返したらしい台詞を、ほとんど棒読みめいてキリコに投げる。
 キリコはうっかり尖らせた唇を元へ戻し、軽く頭を下げて椅子の傍から離れようとした。
 次の兵士が入れ違いにやって来る直前、男は、低めた声で、
 「ボウズ、簡単に死ぬんじゃねえぞ。」
 言い聞かせるように言う男のその声の、根のどこかが震えていた。キリコの髪を切ったバリカンよりもずっと静かに、かすかに。
 キリコは男の言葉にうなずくことはせず、くるりと背を向けてその場を離れた。
 歩きながら無意識に、刈られたばかりの頭に触れ、ざわざわ、短い雑草のような感触に目を細め、掌につく短い髪を振り落とし、ああ自分は兵士になったのだと思った。キリコと言う名はもう単なる他の兵士との区別の記号に過ぎない、これから与えられるはずの認識票の番号の方がずっと重要になる、兵士になったのだと思った。
 短くなった髪が、そよそよまだわずかに、背を押す風になびいている。

戻る