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予感

 浅い眠りを破ったのは、何か音のような、気配のような、確かにそれとは言い難い何かだった。
 シャッコは跳ね起き、構わず毛布を床に滑り落とすと、裸足のまま部屋を飛び出して外へ向かう。
 山裾をくり抜いて作られたこの住居──テダヤの住むここを、神殿と呼ぶ人たちもいる──の最奥から、シャッコは冷たい土の床を蹴り、草の生えた外の地面を目指していた。
 ──よせ。まだ行くでない、ル・シャッコ。
 鋭く頭の奥を突き刺して来た声に、はっと足が止まる。来た方を体全部で振り向いて、
 「なぜだ、テダヤ。」
 まだ眠っているだろう他の者たちを憚って、シャッコは低めた声で訊いた。返事はない。数秒、明かりのない、もう目の慣れた闇をにらむように凝視して、シャッコは声の通りに体を返し、自分の部屋の方へ戻ってゆく。
 テダヤの眠る部屋は、シャッコの部屋よりもこちら側で、シャッコはためらわずそこへ足を踏み入れ、紗幕の掛かった寝台へ足音をひそめもしない大きな歩幅で近づいた。
 互いの姿はぼんやりと見える薄い布越しに、シャッコは横たわるテダヤを見下ろし、テダヤは顔の向きを変えてシャッコを見つめる。
 「──なぜ、止める。」
 テダヤはまだ夢から覚めてはいないと言う風に、気の遠くなるほどゆっくりと瞬きをし、顔の位置を元に戻してため息をこぼす。あごを胸に引きつけて、みぞおちの辺りへ骨の形ばかりになった手をそっと組んだ。
 「おまえがゆくには、まだ早い。」
 すっかり細く枯れた声は、それでもシャッコを圧倒するには充分で、シャッコは思わず目を細めてその声へ向かって頭を垂れたくなる。それを必死に止めて、憤りを表わすために奥歯を噛み、頬に浮き出た線をテダヤがちらりと見たのを確かめる。
 「まだ、我らが関わるわけには行かぬ。」
 眠りを破られたまま、半裸のシャッコをまた頭をめぐらせてテダヤは眺め、シャッコに負けず劣らずのその無表情に、けれど厳しさよりも慈しみの色を見つけて、シャッコは噛んでいた奥歯から力を抜いた。
 「あの男が関われば、必ず戦火が起こる。そこへ我らが油を注ぐわけにはゆかぬ。」
 「戦火と、決まったわけではない。」
 自分の言葉をひと言も信じないまま、それでもシャッコはテダヤに素早く反駁した。言葉の終わりと同時に、すっとテダヤの目が細まる。シャッコの胸の内など、書かれた文字を読むよりも容易く読み取るテダヤに諌める視線を投げられて、シャッコは幼な子のように自分の態度を恥じた。
 それでも、波立つ自分の内心を外には出さず、テダヤと同じほど無表情を保って、シャッコは視線をそらさずテダヤを見つめ続けていた。
 「まだ、早い。」
 テダヤが、いっそう低く、静かに言葉短かに繰り返す。それきり、また眠ったようにテダヤは身じろぎもせず、呼吸の上下も定かではない胸元へ視線を当ててから、シャッコは今度は足音を消してその場を去った。
 部屋を出て、外へ向かう右側をちらりと見てから、素直に自分の部屋へ戻る方へ爪先を向け、ぺたりぺたり素足の裏へ触れる床の冷たさに今さら歩幅を狭めて、シャッコは後ろ髪引かれる思いで自分の足元を見下ろした。
 夢など滅多と見ないシャッコの、時折眠りの間(ま)を訪れるキリコは、シャッコの覚えているそれ以上に口数は少なく、何か言いたげにシャッコを見つめるくせに、結局は何も言わずにいつもその姿を消す。あれもその類いの、いつもの夢だったのだと言い切るにはあまりにも鮮やかな、音でも気配でもないシャッコの眠りを破った何かは、まだシャッコの背の辺りをつついて、外へ外へと呼び寄せようとしていた。
 シャッコはそれを振り切るように広い肩を大きく一度揺すり、飛び起きたままの乱れた寝台へ、飛び出した時の倍の時間を掛けて戻った。
 床に落ちた毛布をまだ拾いもせず、寝台の端へ腰を引っ掛けて、組んだ両手へ額を寄せる。シャッコは、今必死でキリコの気配を探ろうとしていた。
 あのふたりが、カプセルに乗って宇宙を漂い始めて以来、強まったり弱まったりしながらその気配が途切れたことはなかった。それがクエント人の能力(ちから)なのか、あるいはシャッコだけに伝わり通じるものなのか、シャッコは常にふたりの眠るカプセルの存在を感じ続け、強まるその時にはカプセルの光の見える場所まで、行こうと思えば行くことさえできた。
 30年を過ぎて、シャッコは宇宙を漂うカプセルの光を2度見た。どちらも偶然だったけれど、あのふたりは変わらず凍って眠り続け、誰にも触れられず、誰にも侵されず、ふたりきりの時間の中でただ静かに寄り添い続けていた。
 カプセルの気配はどこかでぷつりと断ち切られたまま、一体何が起こったのか、テダヤはキリコが目覚めたのだと確信している。シャッコも、それをそうとは口に出さずに、テダヤの正しさを信じている。
 テダヤには、何が起こりつつあるのかはっきりと見えているのだろう。また、世が乱れる。キリコが目覚め、戦火を呼び寄せる。キリコがそれを求めずとも、戦火の方からキリコに近づいてゆく。あれは、そういう男だ。だからフィアナを連れ、ふたり一緒に戦いのない世界を求めて冬眠に入ったのだ。
 誰がキリコを目覚めさせたのか。それもまた、この世の巡りの、運命(さだめ)なのだろうか。
 また会えると、キリコは言った。カプセルへ入る前に交わした短い言葉の中に、様々思いを込めて、寡黙な同士伝え合ったと思ったその中には、伝え損なった言葉も多々あったはずだ。
 また会えると言って、それから30年経っている。それが永遠に続くことを祈りながら、同時にシャッコは、キリコに会いたいと思う気持ちを決して止められはしなかった。長命のクエント人にとっても、30年は短い日々ではない。その時を、シャッコはただ待ち続けた。
 まだ、とテダヤが言うのなら、その時はいずれやって来るのだろう。目覚めたキリコが今度はどんなことに巻き込まれるのか、噂の流れて来る前に、テダヤがそれを見るだろう。
 クメンで出逢ったあの日から、シャッコの運命はもうキリコのそれに結び付けられてしまっている。テダヤがそれを決して歓迎しているわけではないとしても、シャッコは自分の運命に逆らう気はなく、歩み続けるその先で必ずまたキリコと巡り会うのだと、別れの時に気づいていた。
 いずれ、と自分の声がし、まだ、とテダヤの声が聞こえる。それが重なり混じり、シャッコの脳をいっぱいにした。そうして、その隙間をくぐるように、シャッコと呼ぶ声を確かに聞いた。
 再び、跳ねるように立ち上がり、シャッコは面前の闇を見つめて、そしてまた駆け出す。外へ向かうシャッコを止めるテダヤの声は、もうなかった。
 キリコ、と走りながら呼ぶ。それきり聞こえなくなったキリコの声をどこへとも知れず追って、シャッコは外へ走り出る。草を踏みしだき、山裾を滑るように駆け下り、そしてまたなだらかな丘を越えて、爪先が砂に埋まる砂漠の端へ辿り着いて、はあはあと荒い息を吐きながら、シャッコはようやく足を止める。
 見上げた深夜の空に、今は無数の星だけが見えた。思わず視線の先にカプセルの、ゆるく流れる光を探しながら、見つかるはずはないと知っていてシャッコは目を凝らさずにはいられない。
 キリコが呼んでいると思った。目覚めたキリコが、シャッコを呼んでいる。どこにいるのか、今は分からない。テダヤは知っていても教えてはくれないだろう。その時が来ない限り、シャッコはただ待つしかなかった。
 砂漠を渡る風が、シャッコの汗を冷やしてゆく。まだ夜空を見上げたまま、不意に突き上げて来た嗚咽を、シャッコは喉の奥で耐えた。30年耐え続けたあらゆるものを、今足元の砂の上に吐き出してしまいたかった。
 まだ、その時ではない。早いと言ったテダヤの声を反芻しながら、シャッコは奥歯を噛んで激情に耐え、代わりにのろのろと動かした舌の上で、キリコとつぶやいた。
 シャッコと、応えて返って来る声はない。その声を永遠のように待ちながら、シャッコはついに空を振り仰ぎ、自分の真上へ向かって声を放つ。
 「キリコーッ!」
 跳ね返す何もないそこで、声は風に乗ってどこまでも漂い流れてゆく。広がる自分の声の裾を掴み直すように、シャッコは口元へ両手を当て、もう一度叫んだ。キリコの名を、胸の張り裂けるような大声で呼び、喉を裂いてひび割れるその声の哀切な響きを、砂漠の風が穏やかに抱き込んでゆく。
 風だけが聞いた、シャッコのその声の限りの叫びだった。
 キリコの、返らない声を、シャッコはいつまでも待ち続けている。また会えるのだと言う予感に胸を突き刺されながら、それを悲しいとも嬉しいともまだ感じることができずに、シャッコはキリコの声を待ち続けている。
 風だけが静かに吹き続け、シャッコの裸足の爪先を砂に埋めてゆく。
 背中を返す前にもう一度だけつぶやいたキリコの名は、風に巻き込まれずに、シャッコの舌の上でそのまま消えた。

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