憎
腕を引けばおとなしくついて来る。抗ったのは最初の数回だけだった。今では肩をちょっと押して合図するだけで、素直に床に膝を折って、こちらの膝の間に這い寄って来る。素直過ぎて薄気味悪いと思いながら、ゴダンはキリコに触れる手を離そうとはしない。ただの処理だ。相手は誰でもいい。それでも、できるなら手触りのいい、気楽な相手の方がいいに決まっている。少々乱暴な扱いにも壊れない程度には頑丈そうな──ゴダンにとっては、これはその程度の意味合いしか持たない。深く考えたことなど一度もない。
幸い、大抵どこにいても体の大きなゴダンは、少々相手に抗われたところで、力で押さえ込むことはたやすかったし、そうやって相手に自分の力を誇示できるのは、正直気分が良かった。オレの方が上だと、そうやって相手の体に叩き込んで、事の最中に少々反抗的な憎々しげな目で睨まれたところで、現実にその背を押して組み敷いているのは自分の方だと思えば、そんな憎悪の色も簡単に笑い飛ばせた。
明らかに強姦でしかないそれを、ゴダンは暴力とは捉えずに、少々無理強いの処理と思う限りは心が痛むはずもない。オレに掴まったのが運が悪かったなあと、終わった後で乱れた服を整えながら軽口のひとつも出るのは、そんな罪悪感のなさの表れでもあったし、生来のゴダンの、他人の心の機微などには一切頓着しない──彼は、自分の胸の内さえ覗いて見ることを滅多としない──男だったから、自分の行いが相手にどれほど影響しているかなど、いちいち気に止めることもなかった。
それなのに、とゴダンは、下目に、自分の両脚の間でひどく従順に顔を小さく動かしている、自分よりはるかに若い男──少年と言ってもいい──を見下ろして考えた。
キリコが、ゴダンを終わらせようと、そうやって触れている。体に負担は掛からなくても、ひどく屈辱的な姿勢だ。そうしようと思えば、ひどく歯を立てることもできると、ゴダンは当然知っている。突然噛みつかれでもしたら、明日歩けないどころでは済まないかもしれない。
何かしたら顎を砕いてやると、本気で脅した過去もあった。そうやって得たのは、相手の、涙の滲んだ表情と、そしてひと時だけの服従。それまでに、相手は大抵目や口の端を切るか腫らせるかして、抵抗する気など失っていたし、そうやって、痛みと悔しさに血と涙を滲ませた顔のもっと歪むのを、ゴダンは楽しんで見下ろしていた。
幸い、噛み千切られそうになったことはない。これからも、多分そんなことはさせない。それでも、キリコの差し出す舌先へ自分のそれを触れさせる時には、ふと、この男なら無表情にそれをやり遂せるかもしれないと、ちらりと考えることがある。
元はゴダンのそれだった、噛み切った肉片をぺっと床に吐き出し、その後でどれだけ殴る蹴るされようと、うめき声も立てないキリコの、凍るように冷たい瞳の色を、ゴダンは易々と想像することができる。そうして、そんな想像に背筋の始まりをぞっと震わせながら、今触れているキリコの舌の、湿りと生温かさに、背骨の別の部分は溶けるように熱い。
これは単なる、支配欲の表れだ。相手を踏みつけて、自分の方が上だと示すためだけの、そのためにゴダンは常に誰かを押さえ込んで、こんなことを無理強いする。一時(いっとき)の快感などおまけで、最中と終わった後に見る相手の、様々な程度の諦めをたたえた瞳の色に満足を覚えるのが、恐らくこのことのいちばんの目的なのだろう。
そうしなければ保てない自分の自尊心の不健全さになど、もちろん思い至るはずもないゴダンだった。
従順に見える仕草で、キリコがそれを終える。ゴダンのそれから唇を外し、こちらにちょっと下を向いた横顔を見せて、掌の陰に口の中のものを吐き出す。ゴダンを見はせずに、ただどこかを見て動くキリコの、表情のない瞳を見ていて、ゴダンはついたった今果てたばかりだと言うのに、また背筋を這い上がって来る奇妙な衝動に飲み込まれて、再びキリコの肩を押した。
今度は、床に這いつくばらせて、さっきよりももっと辱めるための姿勢を取らせて、無理矢理そうして躯を繋げても、自分も苦しいだけだと言うのに、ゴダンは構わずキリコを後ろから侵した。
背中の筋肉が、薄いシャツの下で強張ったのが確かに見えた。金属の床に殺した声が響いて、皮膚と筋肉が触れ合っているはずなのに、何もかもが硬質の触感を帯びて、ゴダンは意味もなくぎりっと歯を食い縛る。
キリコの瞳がまた動く。ゴダンをちらりと見る。汗の浮かぶ額へ、苦痛の波が寄っていても、キリコの瞳はあくまで冷ややかだった。
貶めている相手に、蔑まれているのだと、ふっとそんな考えが浮かんで、頭の隅がさっと冷えた。躯は熱くなっても、胸の内側の一片は冷静なのはいつもなら相手に決して舐められてはいけないと言う、ゴダンの心の在り様のせいなのに、今は違う。キリコの、どれだけ踏み込んでもゴダンにすべてを明け渡すことは決してしていないその冷静さが、今はゴダンの冷静さを奪ってゆく。
奪っているのは自分のはずなのに、奪われているのはほんとうは自分なのだと、キリコの中を踏み荒らしながら、ゴダンの心の中が乱れてゆく。
繰り返し踏みつけられて、無傷ではないくせに、傷ついてなどいない風に立ち上がるこの男を、ゴダンはそうとは気づかずに、ひそかに恐れている。こうして屈辱以外の何物でもない姿勢にして、躯の内側を無理強いに明け渡させても、キリコの心はぴったりと扉を閉ざしたまま、一歩も、爪先の先すら中へは入れさせはしない。
それはゴダンだからではなく、この男はきっと、誰に対しても同じ態度を取るのだろう。
力を誇示して自分の優位を保つしかないゴダンの、確かに生き物の雄としては健全な、けれど心のある人間としては明らかに歪んだプライドを、キリコはその瞳の色だけでぐしゃりと潰す。ゴダンがプライドを保つためのこのやり方で、明らかに貶められていると言うのに、キリコのどこにもその痕跡はなく、傷も汚れもなく、どれだけ泥にまみれても、この男の奇妙な清潔さ──つるつるとしていて、まったく手がかりがない──は犯されることなく、ゴダンのちゃちな暴力などそよ風とも感じてない風にすら見えた。
だからきっと、抵抗をすっぱりやめたキリコを、ゴダンは改めて踏みつけにせずにはいられないのだ。繰り返し繰り返しキリコを押して倒して、思う様なぶって、オレの方が強いんだと、まるで駄々をこねる子どものように、キリコにそうだともと認めさせたくて仕方がないのだ。
オレとおまえと、どっちが上だと訊けば、キリコはきっと、おまえの方だと、ゴダンの望む答えを口にするだろう。それが本心からかどうか、ゴダンには読み切れず、そうしてゴダンはまたいっそう怒りを溜めて、キリコを意地悪く苛むだけだ。
躯を繋げて、あたたかなそこへひたる快感へは心を寄せながら、ゴダンはキリコを憎いと思った。傷つけたいと言う欲求には結びつかない、ただこの存在が忌々しくて仕方がないと言う、自分でもどうしていいのか分からない、ゴダンの単純さには似合わない、キリコと言う男へ対する憎悪だった。
それが、ある種の親愛の表れなのだと気づける語彙はゴダンの中にはなく、意味もなく大きな掌でキリコの頭を床に押さえつけて余分の痛みを与えてから、それに対して歪んだキリコの表情に、自分がそうしたくせに、ゴダンは胸の締めつけられるような痛みを覚える。
このまま殺してやりたいと思ったのは、殺意ではなく、こんな目にもう遭わせたくないと言う、ねじ曲がったゴダンの優しさの表現だったけれど、それはゴダン自身にも理解はできず、キリコには尚更伝わるはずもない。
頭の中が、熱と一緒に混乱した感情で嵐になっている。今は全身を凶器のようにして、ゴダンはいっそう強くキリコの中に押し入る。声を殺してうめくキリコの、汗に濡れた額に、ゴダンの指先が伸び掛けたけれど、そこで止まったきりもう動くことはなかった。