帰郷
何か、冷たいものが唇に触れ、それから口の中にそれが注がれて来た。キリコは喉を喘がせてそれを飲み込み、爽やかに胸の方へ通ってゆくその液体が、果実のような香りを放つのにふと心地好さを感じながら、ようやくゆっくりと目を開ける。
ほの明るさに、目を突き刺されることはなく、ぼんやりとした輪郭が、白く視界を覆っていた。
「気がついたか。」
驚くほど、まだ耳に馴染んだままの低い声、無表情に見えて、自分を心配しているとはっきり分かる造作の線の鋭い顔が、自分を見下ろしている。
「どこだ、ここは。」
目覚めたばかりの声が、知らず割れた。喉の奥にまだ残る清々しい香りへ目を細めてから、キリコはやっと目の前のシャッコの眉の間辺りへ目の焦点を合わせる。
「ヌルゲラントだ。」
声の後に背を向けるシャッコの告げる聞き慣れないその名に、今度ははっきりと怪訝に眉を寄せ、横たわっているのが寝台──手足を伸ばしても端には届かないそれが、シャッコのものらしいとひと拍後に気づく──で、そこに触れる背中が剥き出しであることを悟ると、キリコは突然体を起こし、自分の体を慌てたように見下ろした。
顎を引きつけた裸の胸元や腕から、さっき飲まされた液体よりもさらに酸味の強い、清潔な匂いがする。裸足の指をつい動かして確かめて、石を磨いたらしい床へ這わせた視線の先に、椅子に放り出された耐圧服の上着と四脚の中で横倒しになりかけているブーツを見つけて、どうやら何もかもシャッコの仕業らしいと、以前もあった同じことを思い出して、キリコは小さく息を吐いた。
「ここには、おまえが住んでいるのか。」
クエントで見たよりも広く、簡素なりに居心地は悪くない部屋をちらりと見渡して、キリコは腕を撫でながら訊く。
「他のクエント人もだ。あの爆発の時に、今のおまえと同じに、強制転移でここへ運ばれた。」
まだ背を向けたまま、事実をただ手短に並べる言い方は、特に爆発の原因になったキリコを責めているようではなく、久しぶりも元気だったかもない、まるで昨日別れたばかりのような口振りに、キリコはああ自分の知っているシャッコだと、サンサに突然現れたベルゼルガの懐かしい走行音を思い出して、これが夢ではないと確かめるためかどうか、意味もなく自分の頬に触れる。
小さな卓の上で何かしていたシャッコが、ようやくキリコの方を向いて、
「テダヤが、おまえを待っている。」
目の前に差し出された椀から、さっき喉を通った液体と同じ香りが立つ。飲まされたのはこれかと、以前は薬を仕込まれていたことをキリコは当然忘れてはいず、ちょっと肩を引くようにして拒む態度を見せると、シャッコが初めて唇の端をうっすら上げて笑みを刷いた。
「おまえに、大事な話があるそうだ。」
「クエントの神がおれを呼んだと言うのは、一体何だ。クエントにとって、おれはただの疫病神だろう。」
「──昔の話だ。」
わざとかどうか、シャッコがそんな言い方をする。静かに言うその口調が、この間人工凍眠から目覚めたばかりのキリコの、失われた時間を気遣っているように聞こえて、キリコはどんな表情を浮かべるべきか迷い、その迷いの間に、再び胸に椀が押しつけられた。
「飲め。」
見上げてシャッコの、相変わらず意志は強そうな瞳と出会って、キリコは結局両手にそれを受け取り、渋々椀の縁へ唇を寄せた。果実の香りと酒の匂いが、はっきりと鼻先に立つ。舐めるようなひと口だけ、シャッコへの義理でようやく飲み込み、キリコはわざと大袈裟にぐいと唇を腕で拭って見せてから、酒に満たされたままの椀をシャッコへ返した。
シャッコは納得はしていない表情で、それでもそれ以上は強いずに、キリコの返して来た椀を黙って受け取って後ろの卓へ置く。
それから改めてふたりは見つめ合って、音を立てるほど強く視線が合わさったのは、ふた呼吸分の間だった。
シャッコは何か考え込むように、それを表情には出さずにすいと視線をそらして、寝台の縁へそっと腰を下ろす。キリコは、伸ばした自分の脚とシャッコの体との距離を意識して、首筋の辺りへ力を入れた。
しばらく互いに言葉はないまま、時折シャッコがキリコの方へ顔の向きを変え、何度かふたりの視線が重なって、そのたびふたりの唇が何か言うべきことを探して動きながら、それはまだ声にはならず、外れた視線が見るものも特にない部屋のあちこちをさまよい続ける。
「テダヤは──元気か。」
間の抜けた質問だった。クエントで初めて会った時、確かすでに200歳に届こうかと言う年齢だったはずだ。あれから32年、自分の知る誰が生きているかと、ひとり歩き続けながらキリコは考え続けていた。
ゴウト、ヴァニラ、ココナ、ゾフィー、すっかり歳を取って、彼らは生きていた。長命のクエント人はほとんど変化もなく、それでも伸ばしてきちんと整えられた髪と、肌をほとんど見せないバトルスーツの見て分かる生地のなめらかさが、シャッコのあれからの身辺の変化をはっきりと伝えていて、自分はそこへ追いつけるのかと、キリコは初めて不安になる。
夕べいつものように寝入って、今朝は少しばかり寝過ごしただけだと、そう自分をごまかすには32年は長過ぎる。変わったことと変わってはいないことと、それを掌に乗せて数え上げることを、いつになったらやめられるのか。
シャッコが床のどこかへ視線を据えたまま、キリコに応えて静かに声を滑り落とした。
「メジのように地下籠もりはできなかった。暮らす場所が変わって、おれたちクエント人は皆テダヤを必要としていた。今もそうだ。おまえと同じだ、逝かれてしまっては皆が困る。」
言葉の終わりに自分の方へちらりと視線を向けたシャッコの、やや冗談めかした声音に、おれが困る、と言う言葉を聞き取った気がした。
おまえが死ぬとおれが困ると、シャッコがそう言ったように聞いた自分の耳を、キリコは胸の中でだけうっそりと嗤って、自嘲の笑みが知らず淡く目元をよぎる。それを見咎めたシャッコが、自分に向かって目を凝らしたのには気づかなかった。
死ぬなと、シャッコが言う。フィアナも同じことを言った。キリコも、フィアナにそう言った。そうして、抱きしめた体の力なく床に滑り落ちる、必死に抱き止めたのは、あれは一体どれほど前だ。
凍る体は確かに冷たく、けれど死んだ人間の冷たさとは違う。触れたこちらの皮膚を永遠に凍えさせる、いやと言うほど味わって来た死人の肌の冷たさに、いつの間にかキリコの身内も冷え凍っている。
今、裸でいるせいではなく、寒いとキリコは思った。裸足の爪先の感覚がないように思えて、思わず片膝を曲げて抱き寄せ、ブーツの下の、日焼けすることのないむやみに白い足の甲へ掌を乗せ、歩き続けのせいで肉などつく暇のない骨張ったそこへ、生きた人間らしい弾力を感じて、キリコは安堵よりもやるせなさを感じた。
キリコが動いたせいの寝台の揺れに、シャッコがどうしたと視線を投げて来る。キリコはそれを受け止めずに、自分の曲げた膝へただ目を凝らしていた。
フィアナは死んだ。ひとりで、先に。おれを置いて。胸の中でひとりごちた。なぜか声に出してつぶやく気にはならず、あの頃、フィアナを生かそうと必死だったキリコにつられたように、同じ程の熱心さでヂヂリム集めに付き合っていたシャッコに、今それを告げるのは残酷な気がして、キリコはことさら口をつぐむ。
それとも、ココナたちがとっくに告げたろうか。あるいは、もうクエント人たちにも、マーティアルの騒ぎは伝わっているのか。キリコが言わないことを、シャッコは無理に聞き出そうとはしないだろう。キリコがそう言わない限り、シャッコはフィアナのことを知らない振りをし続け、生きてるのかともどこにいるのかとも訊きはしない。
ただ、ここに、キリコと一緒にはいないだけだ。キリコはただ、ひとりきりだと言うだけのことだ。
沈黙が、さっきよりもさらに重くこの場を満たしたのに気づいたのか、シャッコが寝台の端へ腰を滑らせて、わずかにキリコに体を近寄せた。恐ろしいほどゆっくりと腕を伸ばし、両手を差し出すようにしながら、ついにキリコの頬に触れて、上向かせた。
視線が合った。そして今度は、そのまま外れはしなかった。
頬から滑った手先が首の後ろへ回り、キリコはそのまま抱き寄せられた。息の止まるほど強く抱きしめられて、キリコも、シャッコの大きな背中を両腕で抱いた。
確かに生きている人間の体だった。傷つければ血を流していずれ死ぬ、それでも今確かに生きている人間の体だった。
「シャッコ・・・。」
声の震えはシャッコの胸が吸い取り、頬が触れ合うと乱れた髪が絡まって、それを払う仕草のついでに、キリコはシャッコの長い後ろ髪へ指先をもぐり込ませた。
首筋だけでは足らずに、シャッコの素肌へ触れようと、キリコは指をさまよわせる。肘辺りしか肌を出さないシャッコの装いに、キリコは少しだけ焦れて、舌打ちしそうになった動きを慌てて口の中で止める。それから、そこだけはゆるやかに波を打つ短い袖の中へ、広い肩目指して手を差し入れた。
あたたかい皮膚に触れ、その下の筋肉と骨の形を探り、それが自分へ向かって動くのに、キリコは考えることを放り出して目を閉じる。
互いを探る間に、唇が触れて、重なる。歯列を割り合い、差し出す舌の上を、ふたり分の湿った呼吸が間を置かずに行き交う。
ためらいのないシャッコの、キリコと同じ程度に切羽詰まった風な手指の動きが、キリコを待ち続けたのだろう時間の長さを表していて、キリコは初めて、自分の上を素通りさせた32年間の重みへ思い至っている。
待たせた時間の重さは、自分へ重なるシャッコの体の重さだった。
抱き寄せる体の、ぬくもりと重さと、今はただ触れ合うだけの膚の次第に湿ってゆくのと、喉を伸ばして声を殺した後で、不意にキリコはシャッコの下で我に返る。目を見開いて、真上のシャッコを真っ直ぐに見つめた。
「テダヤ、が──」
待っていると続けようとした、湿りにかすれたキリコの語尾を、シャッコが強引にすくい取った。
「まだいい。」
それ以上に問うことを受けつけない、きっぱりとしたシャッコの言い様だった。
32年待った今さら、後わずか誰をどう待たせても何も変わらないと、もう待つことをやめたシャッコの瞳が、キリコの眼前で熱に揺れている。
待ったのはそして、決してシャッコだけではなかった。
遮られたついでのように、シャッコは体をねじるようにして長い腕を卓の上へ伸ばし、さっきキリコがひと口だけ飲んだ酒の椀を取り上げ、一気にそれを飲み干した。たらたらとあふれて喉と高い襟元へこぼれる酒が、キリコの胸の上にも滴り、椀を放り出したシャッコは最後のひと口を飲み込まずにまたキリコの上へ覆いかぶさって来て、親指の先で割った唇の間へ、透明な酒を注ぎ落として来る。
キリコはそれを口の中へ受け止めて、滑らせる舌の上で味と香りを味わいながら、ごくりと音を立てて飲み干した。
さっきよりも熱く喉を焼かれて、けれどむせはせず、ふたりは酒に濡れたままの唇をまたこすり合わせて、その酒の匂いを互いの肌へ移し合った。
互いの汗へ交じる、酒の香り。そこへ交じる、互いの匂い。ふたりはいつの間にか、同じ匂いを互いに移し合い始め、同じ匂いを肌にまとって、触れ合う以上のことはしなくても、以前そうして抱き合った時と同じ親(ちか)しさを今確かに感じている。
キリコは、シャッコのあたたかな体にしがみついた。ふたり分の熱は酒のせいではなく、外れるたび忙しなくこすり合わせる唇の間で、互いの名を呼び合って、ふたりはただ触れ合い続けていた。
抱いて、抱きしめられて、抱き返して、今腕の中にある体はどこにも行きはしない。力をこめ続ける腕の中で、弾みを返して、熱を生み出し続ける。
生きているのだ。生きている人間のぬくもりを今抱いて、それに今触れて、生き続けるしかないキリコは、長い間誰にも言えなかった言葉を、気がつけば声に出してつぶやいていた。
おまえは、おれより先に逝くな。シャッコ、おまえは生きてくれ、頼む。
ひそめたその声を、シャッコが聞き取ったのかどうか、キリコは確かめなかった。震える唇はまたシャッコに塞がれてしまったし、キリコを失いたくはないシャッコと同じほど、もうキリコも、これ以上喪うことには耐えられそうになかったから、伝え合ってしまえば、誓いとは真逆のことが起こりそうで、キリコはまたシャッコを抱く腕に力をこめて、今はただこうしてあたたかな体と触れ合っていたいだけだった。
生きていると言うことは、心臓が動き呼吸をしていると言うことだけではない。伸ばした手を、誰かが取ってくれると言うことだ。ひとりでも、生きて行くことはできる。青い空を仰ぎ、雨を避け、寝て起きて食べて、体だけはそうやって生き続けてゆく。けれどもう、そうやって生き続けることに、キリコは耐えようとは思わなかった。
誰かを抱きしめたいのは、自分が抱きしめられたいからだ。触れて、自分と誰かの、真に生きているのだと言うぬくもりを、そうして確かめたいからだ。
さまよい、ひとり歩き続ける間に、立ち止まってもいいのだと、キリコは不意に思う。立ち止まり、とどまる場所が自分にあってもいいのだと、またシャッコの肩に直に触れながら考える。
抱き合う腕の輪の中に、そこから逃れることなど考えもしない、あたたかな体がふたつ、キリコは今シャッコの腕の中で、確かに生きていた。
シャッコのいるここが、今はキリコの家(ホーム)だった。
シャッコを呼びながら、歩幅の大きな足音がこちらへ近づいて来る。仕方なく引き剥がす体に、けれどまだ腕は巻いたまま、酒の匂いの残る唇を急いで触れ合わせ、切なさといとおしさのない混ぜになったふたりの瞳の色も、そこで交じり合っている。
キリコ、と呼んだシャッコの唇を、キリコはもう一度素早く塞いだ。