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限界Lovers - They Dance Alone

 したり顔の男たちが大半の、面白くも何ともないパーティーの片隅で、キリコは手持ち無沙汰に壁の花をしていた。
 友人同士が連れ立って来ている男たちはもちろんいるけれど、彼らは明らかに年頃も社会的地位も釣り合っていて、自分とペールゼンのように、一緒に並ぶと一体どういう組み合わせか、いくら考えても答えの出ない連れ同士は見当たらない。
 ペールゼンは一体何のつもりか、キリコを着飾らせ──もう何度目か、蝶ネクタイの結び目の後ろへ指先を差し込んで、少しでも隙間を空けようとこっそり悪戦苦闘する──、どう見ても身に着かない今夜の服装を、それでも出掛ける直前にゆっくりと眺めて、ペールゼンは満足げな笑みを浮かべた。
 女連れの男たちは、ホールの片隅でずっと穏やかな音楽を演奏し続けている楽隊の、指揮の男が振る指揮棒に合わせて、毛足の短い絨毯を軽々と蹴って踊り続けている。
 気取った服装、上滑りの会話、何種類もの香料の匂い、酒の香り、静かに踊るための音楽、人々が人々の上へ素早く滑らす意味ありげな視線、何もかも、キリコには馴染めないものばかりだった。
 ペールゼンは、ここへ来てしばらくはキリコの傍にいたけれど、階級が上らしい男に話し掛けられ、何か耳打ちされて、キリコの方へ軽く目配せした後、その男と共にどこかへ姿を消してしまった。
 キリコは壁際にひとり残され、ペールゼン以外知った顔もないここで、飲めない酒をただ形だけ手にして、グラスの縁に唇も触れないままだ。
 あくびを噛み殺して、30分近くもそうして待っていただろうか、ようやくペールゼンが足早に、人の間をすり抜けてキリコの方へ戻って来る。
 「なんだ、おれのことを憶えていたのか。」
 つい皮肉っぽい口調になるのを、ペールゼンは笑いに紛らわして取り合わず、キリコがただ持っているだけのグラスを、なめらかな仕草で自分の方へ引き取った。
 「軍の機密など、おまえは興味はなかろう。」
 からかうように言われて、さっきまで自分の持っていたグラスを傾けるペールゼンの、その唇の合わせ目が酒でゆっくりと濡れるのへつい目を凝らす。
 飲んでも気分が悪くなるだけだろうと思っても、ペールゼンの呼気に混じるそれは決して不快ではなく、キリコは自分の掌ですっかりぬくまったそれを飲むペールゼンの、口の中の熱さを思い出していた。
 すっと肩を動かし、音楽がうるさいせいだと言う振りで、ペールゼンの耳元へ唇を寄せた。
 「──帰りたい。」
 グラスの傾きが止まり、ペールゼンが、瞳だけを動かしてキリコを見た。
 「もう、十分だ。」
 何が十分なのかと言う説明はなく、ただ目顔で、キリコはペールゼンに同じことを言い続ける。
 ペールゼンは黙って残りの酒をひと息に飲み干すと、手近なテーブルへグラスを置き、空になった手をキリコの背へ添えた。
 誰とも視線を合わさずにその場を後にして、車に滑り込んだ途端、ふたりの手は指を絡め合うようにして重なった。


 まだ、今夜の装いはそのまま、キリコが音楽を掛けてくれと言う。
 ペールゼンの書斎へ、車から降りて直行して、キリコの頼みをちょっと訝しがりながら、ペールゼンは小さな音楽再生機を取り出して、
 「何が聞きたいんだ。」
と訊くと、キリコは表情ひとつ変えないまま、
 「今夜みたいな、踊れるやつがいい。」
 ペールゼンは、今夜一度も外さないままのミラーグラスの奥で、ひとり目を見開いた。それでも、こちらが分かりやすいようには、考えていることを説明してはくれないキリコの気性を飲み込んでいて、結局弦楽器とピアノの、静かな曲を選んで流してやった。
 20秒ほどはメロディーに聞き入っている風に、それからおもむろにペールゼンの前に立つと、物も言わずにペールゼンの手を取った。
 軽く持ち上げた自分の掌の上にはペールゼンの手を、もう一方の手はペールゼンの腰を軽く引き寄せ、今夜男たちと女たちが踊っていた姿を思い出しながら、キリコは見様見真似で、ペールゼンを踊りに誘おうとする。
 「これから、どうやるんだ。」
 まるで腹でも立てているような口調で、キリコはペールゼンに向かって言った。
 「ダンスは私の得手ではない。おまえが知らんなら、私が知るはずもなかろう。」
 ペールゼンが、穏やかに微笑んで言う。
 その通りだ、キリコの知っていることは、何もかもペールゼンに教えられたことだ。
 キリコにとっては、父のようであり師のようであり、そして少々薄汚い言い方をすれば、キリコはペールゼンの情人の立場にある。
 まだ秘密のそのことを、今夜公けにしてしまった形に、自分のことをどんな風に噂され、それを一体ペールゼンはどんな顔をして聞く気なのか、何となく気にはしても、結局は自分には関係ないと、キリコはこの場ではすべてを頭から追い出してしまうことにした。
 ペールゼンは、静かにキリコの肩へ空いている手を置き、形だけはキリコへ体を寄り添わせた。
 「逆の方がいい。」
 ペールゼンは掌を返してキリコの手を取り、キリコの腰を近く引き寄せた。キリコは体のバランスを少し崩して、慌ててペールゼンの肩を掴み、不意にさらに近くなったペールゼンの顔を見上げて、それから、肩から首筋へ掌を滑らせ、頬を撫ぜた。
 「それを外せ。」
 キリコは、立場も弁えない命令口調で、ペールゼンへ言った。
 覗き込むようにすれば、目元の透けて見えるミラーグラスのフレームの縁に指先を軽く触れさせて、拒むようにペールゼンが顔を背けようとしたのを許さず、キリコは指先にそれをつまみ上げる。
 手の中にゆるく握り込んで、取り上げられないようにその手を背中へ回し、片手はペールゼンへ預けて、キリコは音楽の鳴る方へ軽く首を振る。
 「合わせて、体を揺すればいいだけだろう。」
 突然のまぶしさに、数秒目の痛いほど刺し貫かれて、キリコが平たい声で言うのに、わずかの間忌々しげな表情を眉の間に浮べてから、ペールゼンは観念したようにキリコをいっそう近く自分の方へ抱き寄せ、さりげなく腰に回した手をもっと先へやってミラーグラスを取り上げようとするけれど、キリコの手はそれを察知して別の場所へ動き、結局はそれを諦めざるを得ない。
 ペールゼンは流れている音楽へ合わせて、顔の映るほどきれいに磨かれた革靴のかかとを、後ろへ軽く引いた。
 キリコの言う通りに、旋律に合わせてただ爪先を前後させ、形だけ取った手はいつの間にかほどけて、両腕は互いの背や腰へ回っている。
 今夜のためにつけさせたコロンが、キリコの首筋から淡く匂い立ち、手の切れるほどきっちりと折り目のついたシャツの、襟元の中へすでにペールゼンの心は飛んでいた。
 キリコの手も、いつの間にかペールゼンの上着の中へ入り、体温にぬくめられた服の重なりの間に、指先が不器用に忍び込み始めている。
 キリコが、自分ひとりではきちんと着ることのできなかった今夜の服を、自分で脱げるはずもなく、とりあえず肩から滑り落とさせた上着を、ペールゼンは少し離れた床の上に、ミラーグラスと一緒に無雑作に放り投げておいた。
 明日の朝、執事に小言を言われると思いながら、ペールゼンは足踏みをやめてキリコの蝶ネクタイへ指を掛け、熱っぽく赤みの差した頬の、まだ幼さの残る丸みへ視線を当てて、今は剥き出しの自分の目が、それを映して同じように熱っぽく潤んでいるのには気づかない。
 キリコの手がペールゼンの蝶ネクタイへ掛かり、ほどくためではなく引き寄せるために差し込まれた指が喉へ触れ、ふたりの声にならない声が、流れる音楽に混じり、書斎の空気を静かに慄わせた。


 すべて脱がせる気もなければ、こんなところで始めて、終わらせるつもりでもなかった。
 キリコが長いシャツの裾を汚してしまった瞬間、開き直ったように、あるいはほとんど自暴自棄の気持ちで、それまでは自分にのし掛かるようにしていたキリコを、引き寄せて自分の下に敷き込んでしまった。
 その後は、もたもたと手足にまといつく服を何とか剥ぎ取るようにして脱ぎ、靴も小さな装飾品もすべて取り去って、決して狭くはない書斎の床は、今は気恥ずかしいほど散らかっている。
 ペールゼンは今夜1杯だけ口にした、キリコが手の中で手持ち無沙汰にぬくめてしまった酒の味を喉の奥に思い出して、満たされた後の、水分を欲しがる体の渇きに、知らず舌の奥を小さく鳴らしていた。
 キリコは裸の背中をこちらに向けて、そこからのそりと立ち上がる。窓から入る外の明かりに裸身が浮かび上がり、さっき近々と見つめていた、まだ筋肉の育ち切らない少年めいた腰の辺りの薄さに、ペールゼンはいつも感じる痛々しさをまた感じて、そこを握り締めていた自分の手指の跡でも見えるのではないかと、細めた目を凝らす。
 壊れるはずもない、肩の広さはもうペールゼンとあまり変わらない、一応は大人に見えるその体の、素肌を見れば幼さが剥き出しになる。
 きちんとした服装がそれほど体から浮かずに、思ったよりも服に着られていると言う風でもなかった今夜の意外さは、キリコの集めたパーティーでの視線──キリコ自身は、まったく気づいていないようだった──の反応にも現れていて、キリコが動くたび、まるでそよぐように周囲の空気が一緒に動いていた。
 それを誇らしいと胸を張る趣味はないけれど、それでも丹精した花を自慢するような心持ちがまるきりないと聖人ぶる気もなく、ペールゼンはひそかにその視線をミラーグラスの奥で確かめては、自分が人目を引くのだと言うことに自覚のないキリコの、その無頓着さをいとおしむと同時に、だからこそ一体いつまでこうして自分の掌の中で憩ったままでいるだろうかと、ごくまれに抱く不安に、またふと襲われる。
 キリコを見つめつづけて、自分の視線に、ただの観察者としてのそれだけではないものに気づいて、庇護者の立場にいつの間にか滑り込んだ形に、キリコの幼さにつけ込んだのだと言われれば、反論のしようもなかった。そのことを、ペールゼンはきちんと自覚している。
 欲しがって、手に入れてしまった。奪ったわけではないと冷静に言えても、端から見て自分たちがどんな風に見えるか、さすがに気づかないペールゼンではない。
 それでも、キリコをこんな風に着飾らせて、人前に連れ出さずにはいられなかった。予想通り、キリコはひそかやに人々の視線と興味を浴びて、そしてそれのひと筋にも気づいていないのか単なる無関心か。
 キリコが見ているのは自分だけなのだと、そのことがペールゼンを自惚れさせる。他人の目など存在するとも思わない態度で、今夜キリコが見ていたのはペールゼンだけだ。そしてペールゼンが見ていたのも、キリコだけだった。
 踊る男女を見ながら、キリコはそこに自分たちふたりの姿を見て、華やかなドレスを肌も露わに来た、自分たちとは違う女と言う存在を、躊躇もなく自分たちにそのまま置き換えて、踊れもしないくせにペールゼンの手を取った。それに違和感を抱(いだ)かないことを、片輪だと言うのはたやすい。けれどそうではないと、ペールゼンは思った。キリコはただ、他の何も見えても見てないだけだ。ペールゼンがそう望んだ通り、キリコが見ているのはペールゼンだけで、ペールゼンが見ていたいのはキリコだけだった。
 ふたりきりの、閉じられた世界。そこで、誰も知らないダンスを踊るふたり。ふたりきりで、ふたりだけで。
 キリコが床から、放り投げられていたシャツを取り上げ、腕を上げて袖を通す。その動きを、床にまだ横たわったまま、ペールゼンはじっと見る。
 羽織って、ボタンをもたもたといくつか留めて、だらりと広がったままの袖口をまといつかせながら、キリコがまたペールゼンの方へ、膝を滑らせるようにして戻って来る。
 「それは、おまえのシャツではない。」
 自分の傍らへ腰を落ち着けたキリコへ、ペールゼンは静かに言った。
 キリコが眉根を寄せ、いたずらを咎められた子どものような表情を作る。
 「それは私のシャツだ。おまえには少し大きい。」
 咄嗟に右肩を見て、それから肘の辺りを持ち上げて、掌の元を覆う硬い袖を眺め、キリコはふんと言うように肩をそびやかす。
 「後でちゃんと脱ぐ。」
 きちんと採寸して仕立てたシャツだ。手首で終わるはずの袖をわざと強く引っ張って、縮めた手をその中に隠して、そんな風にするとキリコはまるきり少年の貌(かお)になった。
 肩の広さはあまり変わらなかったけれど、首回りと袖回りはキリコの方が細かった。ペールゼンのシャツと同じにすれば、ふわふわと腹と腰の薄さで、中で体が泳ぐ。採寸した男は仕立てを変えて、キリコのまだ少年めいた体つきにきちんと合うように、今夜のシャツを作った。
 いずれこの自分のシャツも、キリコには合わなくなるかもしれない。もっと背が伸び、手足が伸び、肩や胸に筋肉がついて、少年の面影の忘れる代わりに、大人の男の貌をかぶる。
 20(はたち)になったキリコも、30を過ぎたキリコも、今の自分に追いついたキリコも、そのどれもうまく像を結ばず、ペールゼンは執拗にキリコの少し丸まったまだ薄い背中に、いつもの観察する視線を当て続けていた。
 「またおれを、あんなところに連れて行くのか。」
 胸に寄せた膝を抱え、そこへあごを埋めるようにして、ぼそりとキリコが訊く。ペールゼンは自然にキリコの背中へ手を当てて、撫でながらその問いに静かに答えた。
 「さあな。おまえがもう沢山だと言うならこれきりだ。それともまた、あれを着たいか。」
 ペールゼンが視線を投げた方へ、キリコもあごの先を向ける。
 「・・・着るのを、手伝ってくれるならな。」
 しゃべると、なめらかなシャツの生地越しに、背骨がわずかに動く。その骨の凹凸を指先でなぞって、ペールゼンは思わず微笑んでいる。
 「・・・脱ぐのもだ・・・。」
 低い声が、絨毯の上に落ちた。言葉が終わると同時に、キリコは赤らんだ頬を隠すようにうつむいて、そのままペールゼンの上へ這うように重なって来る。
 ベッドの上ではなく、しかも気配を殺してー当人たちは、少なくともそのつもりだったー無茶をした後での2度目には少し無理があった。ペールゼンがそう思ったのをキリコが素早く読んで、
 「おれが、手伝ってやる。」
 それで意趣返しをした気分になったのか、ペールゼンの上で体を起こし、腰を完全にまたぐ姿勢になると、キリコはペールゼンの手を取ってみぞおち辺りへ導いた。
 シャツの中へ、キリコの指先と一緒に入り込み、ペールゼンは小さなボタンを外しながら、けれど肩から生地は落とさずに、キリコが体を揺すり始めるのと一緒に、シャツも踊るように揺れるのを、喉をそらして下目に眺める。
 キリコがさっき汚したのは、キリコのシャツだった。そして今は、ペールゼンのシャツを汚すためか、それの裾を一緒に握り込んで、布越しのキリコの指の感触に、確かに兆して来る2度目がある。
 邸内は静まり返っていた。始まる前に止めた音楽は、今はペールゼンの頭の中でだけ流れ続けていて、キリコも恐らく同じ旋律を聴いている。
 それに合わせるように、キリコはペールゼンの上で躯を揺らし続け、これは確かに、ダンスの一種だと、ペールゼンはかすむ意識の向こうで考える。
 ふたりで踊り続ける。短く切れる呼吸と、躯の間で立てる湿った音と、その合間に互いに呼び合う互いの名が、ふたりのための音楽だった。
 ヨラン、とキリコが吐く息混じりに呼んだ。答える代わりに、ペールゼンは精一杯腕を伸ばし、キリコの唾液に濡れた唇の間へ、自分の指を差し込んだ。酒の酔いなど必要もなく、ただ熱い、うごめく舌。舐められて、キリコの唾液に濡れる自分の指先で、ペールゼンはキリコの首筋を撫で上げた。
 絨毯でこすられ続けているキリコの膝が、火傷の手前で赤くなり、それにも気づかない夢中さで、キリコがペールゼンを貪っている。
 揺れるシャツの裾はとっくに汚され、キリコの腰にゆるゆるとまといつき、それが、踊る女たちの体を覆うドレスの翻る様そっくりに見えた。

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