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* 選択お題@TigerLily *

限界Lovers - 愛を請うように

 防弾仕様の、高級将校用の車は、乗り慣れたATのコックピットとは雲泥の差で、輸送の時にはまさしく荷物同様の自分たちとは、やはり人としての存在の位置が違うのだと、キリコはちらりと隣りのペールゼンを盗み見る。
 こんな車にAT乗りの兵士を乗せて、あれがかのペールゼン大佐のツバメだとよと、一生少尉の望みすらない兵士たち──キリコ同様──にさえ囁かれることを、ペールゼンは一体どう思っているのだろうとキリコは考えていた。
 人の目も噂も、キリコにとってはどうでもいいことだ。失うものと言って命しかないキリコには良い兵士である以外の評価は無駄でしかなく、けれど今は大佐の、近々少将と言う話もキリコに耳にすら届くペールゼンに、その類いの噂は傷になるのではないかと、心配でも不安でもなく思う。
 ペールゼンがそれを気に病むなら、ただ鬱陶しいだけだ。とは言え、こんな車で基地に来てキリコを呼び出し、隠す素振りもなくキリコを連れ出すのなら、ペールゼンもまたキリコ以上の厚顔と言うことになる。そうでなければ、魑魅魍魎、戦果が大事なのは出世のためと言う欲の塊まりのような連中のそぞろ歩く軍上層部で、粛々と自分の目的に向かって進み、それを押し通すことも不可能に違いなかった。
 おれたちはどこか似ている。キリコは、何度か考えたことをまた考える。そんなバカなと、初めて思った時にはひとり頭を振ったけれど、その後幾度も同じ考えの浮かぶ場面に出会って、ペールゼンも同じように感じているのだと確信した。似ているから魅かれたのか、魅かれたから似たところを探すのか。
 運転手を気にしてと言うわけでもないだろうけれど、正面を向いたまま無言のペールゼンを、目的地までの暇つぶしのようにちらりと眺めて、キリコは自分の側のシートに軽く投げ出されているペールゼンの右手へ、もう何度目か視線を当てる。
 なめらかな坐り心地の良いシートよりも、さらにしっとりと艶の落ち着いた、ペールゼンの手を覆う革の手袋。それが、うっとりするほど手触りの良いことを知っている。シートの感触にはさほど心を動かされないキリコは、手袋に向かって目を細め、指先の形までしっかりと表すそれの表面に触れようと自分の指をそこに乗せた。
 ペールゼンはかすかにあごの辺りの線を固くし、けれどキリコの手を振り払うことはせず、キリコが自分の指を束ねて握ったり、指の間に指を差し入れたりするのに、黙ったままじっとしている。
 良質の革の中から、さらに良いものを選んだのだろうその手触りに、ペールゼンの体温が加わって、感触の良いものと言うのに縁遠いキリコは、思い切ってペールゼンの方へ腰をずらすと、その手を自分の方へ完全に引き寄せて両手の中に挟んだ。どのように触れても、ペールゼンの皮膚にもキリコの手にも心地良く添って来る。運転手の清潔な首筋は微動だにせず、ペールゼンの方はさすがに、咎めるようではなく軽くキリコの方へ顔を向け、自分の手に触れ続けるキリコを横目に見ていた。
 キリコは握っているだけでは足らずに、ついにその手を自分の頬に当て、あごの線までこすりつけるようにした。そうして、ペールゼンの手を持ち替えて、自分の指先が久しぶりにペールゼンの手首の辺りの、わずかに剥き出しになった素肌に触れて、革よりは手触りは落ちるのに、硬い骨やちょっとざらりとした皮膚が、自分の指先に伝えて来る感触に、喉の奥が干上がるような感覚を覚えた。
 気づけばペールゼンがそんなキリコをじっと見つめていて、ミラーグラス越しに、この距離ならかすかに見えるペールゼンの瞳に、キリコもじっと見入った。


 大佐以上の将校のみ使える保養の宿舎に、これもペールゼンの権勢の表れか、キリコの出入りはもう問われもしない。
 部屋に着くと、キリコは訊きもせずにさっさとシャワーに向かう。服を脱ぎながら、それを歩くにつれ落としながら、バスルームまで行く。基地の匂いを落としてタオルだけ巻いて出ると、なぜか脱ぎ捨てたキリコの服はまとめられて椅子に置かれ、ペールゼンの癇症ゆえかどうか、しわと傷だらけのブーツも、きっちりとかかとを揃えて一緒にある、キリコには馴染んだ眺めが見えた。
 最前線の、様々な匂いを染み付かせたキリコの耐圧服を、ひとつびとつ拾ってゆくペールゼンの丸まった背、部下にでも見られたらどう言い訳する気だと、キリコは憮然と考えるけれど、そういう自分も、たとえばペールゼンの背に軍コートを着せ掛ける手は自然に伸びるのだ。
 このふたりが、互いに見せる、傍目には恐ろしく奇妙に見えるだろう思いやり、死線ばかりをくぐるキリコと、戦果のために兵士は駒でしかないペールゼンと、ふたりにとってふたりでいることの非日常性は、そんな思いやりの表現も含めて娯楽のようなものだった。
 水気を拭き取っただけのキリコの髪に、ペールゼンが触れる。その手はもう剥き出しで、あの革手袋はどこだろうと、近づいて来る唇からわずかに視線を外して部屋の中を眺めると、自分の耐圧服の掛かった椅子の傍の棚の上に、ペールゼンの手袋とミラーグラス、そして軍帽がまとめて置かれているのが見えた。
 軍服を脱ぎ捨てて、ふたりは兵士でも将校でもなくなる。キリコの手はペールゼンを抱きながら細かについた服のボタンをひとつびとつ外し、その下から現れる、つるつるとしたシャツは首のいちばん上の小さなボタンにいつも少し時間が掛かって、それに焦らされて、ふたりの口づけには熱がこもってゆく。
 やっとペールゼンの膚が剥き出しになると、キリコは容赦なく腕に力をこめてペールゼンを抱き、肩を押して広いベッドに倒した。
 ベッドの回りにちらばるペールゼンの服を、キリコは時々素足で踏みつけ、そのたび邪魔だと言わんばかりに少し先に蹴り飛ばし、脱がせた後にただ放ったブーツの片方は横倒しに、今はその上にくしゃくしゃになったシャツが乗っている。どうせここにいる限り、しばらくは服は必要ない。何にせよ、部屋を出る時に少々だらしない姿だったとしても、ペールゼンを指差して笑う誰もいないはずだった。
 清潔と言えば、軍医が指先から漂わせている消毒液の匂いだけの基地では、想像すらできない香りの石鹸の、流しても落ちない匂いがキリコの首筋に残っていた。ペールゼンは下からそこへ口づけようと体を起こし、逆に唇をあごの辺りへ押し付けられて、またベッドに押し戻された。
 そのような気分なのかどうか、今日は貪りたいのはキリコの方で、ほとんど噛みつくようにペールゼンの舌を奪い取り、呼吸のすきすら与えない。ペールゼンが体の位置を変えようとキリコの肩を押すたび、その手を振り払って口づけは深さを増すだけだった。
 何かあったのかと思っても、静かに話のできる状況ではなく、話をさせたところで、恐らくキリコの、兵士としての機微などペールゼンに理解できるはずもなく、ペールゼンは結局諦めて、キリコの動きのまま、ただキリコを静かに抱き返していた。
 怪我の見当たらないキリコの体を探り、キリコに逆に探り返され、今はキリコは体の位置をずらして、ペールゼンの下肢の方へ下がっている。体温のよく伝わる腿に、突然ひやりと触れたのはキリコの首から下がる認識票だった。常にキリコに触れている、安っぽい金属の札。死体になっても誰も判別のつくようにと、兵士たちが決して身から離すことの許されない平たいそれ。
 キリコが動くと、時折札を下げる鎖が、ペールゼンの皮膚に触れる。金属の感触に、ペールゼンはちょっと膚の粟立つような感覚に陥って、思わずキリコの首へ無理矢理腕を伸ばし、鎖を引っ掛けて持ち上げようとした。
 キリコがふとペールゼンを見る。濡れた唇、ペールゼンに触れる舌の先がかすかに覗いて、瞳に、ひどく悲しそうな色が浮かんだ。飢え切って、絶望した子どもの貌(かお)だと思ったペールゼンの、記憶の扉がわずかに開きかける。キリコにそんな表情をさせたことに胸を突かれて、ペールゼンは慌ててキリコの首から手を離し、一体どうしようかと、取り繕うための言葉を探した。
 ペールゼンが何か思いつくよりも先に、キリコはそこから体を起こし、まるきりいつものように、ペールゼンにまたがって来る。導いて、躯を繋げる前に、キリコは乱暴な仕草で片手で首から認識票を取り去り、斜め後ろを向くと無雑作にそれをどこかへ放り投げた。落ちたはずの音がしなかったのは、ペールゼンの服の上に収まったからかもしれない。わざとそこへ投げたのだと、ペールゼンは何の根拠もなく思う。
 もう認識票すらなく、全裸の、ただの男になったキリコが、ペールゼンの上でゆるく躯を揺すり始める。次第に声と動きを強めて、追い詰められている振りで、ペールゼンを追い詰めるのはキリコの方だ。
 まだ、広がり切ってはいない肩、筋肉のついた両脚の厚みの割りに、薄さのまだ目立つ腹、どれほど近々と見ても、見るたび初めてのように、ペールゼンはキリコに目を凝らさずにはいられない。視線を奪われ、心を奪われ、今は躯の末端を飲み込まれて、それだけのことが、自分の全身をキリコに委ね切っているような心地にさせる。ペールゼンはほとんど疲労困憊の瞬きを繰り返しながら、自分の上で汗を滴らせているキリコを網膜に焼きつけるように、時折大きく目を見開いた。
 足の位置を変えるためか、自分の方へ体の傾きを大きくしたキリコへ、ペールゼンは両腕を伸ばした。認識票のぶら下がっていた辺りへ掌を乗せ、そこから、鎖の巻いていた首筋を撫で、そうされて、なぜか力の抜けたように表情を穏やかにしたキリコへ手を添え、今度はペールゼンが体を起こす。
 躯は繋げたまま、やや強引にキリコを自分の下に敷き込み、新たに深く躯の位置を定めると、キリコが何もない喉を上向きに伸ばす。声はない。唇だけが大きく開き、舌がもがくように動いていた。
 キリコの青い髪を、ほとんど胸元に抱え込むようにしながら、さっきまで貪られていたペールゼンが、今度はキリコを貪り返す。そうして貪っても、恐らく結局は貪られているのはペールゼンの方なのだろう。
 ヨラン、と、短く吐く息の間に、キリコがペールゼンを呼ぶ。もう長い間、そうやって自分を呼ぶ誰もいなかったペールゼンの耳に、キリコのかすれた声が、溶かした蜜のように流れ込んで来る。蜜は、ペールゼンの瞳と同じに、黄金の色をしていた。
 まるで、キリコの髪の青さに、ペールゼンの瞳の色をわずかに合わせたように、キリコの瞳の色がいっそう緑に寄る。明るさを増したその瞳に向かって、キリコ、キリコと、ペールゼンもうわ言のように繰り返していた。
 世界中の、すべての者たちと区別された、名前。それを互いに呼び掛けながら、躯の中の波がこれ以上はないほど同調して、先にキリコが弾けた後もキリコはまだ熱を失わず、繰り返し繰り返しやって来る深い波に、ふたりはまるで心中のようにさらわれて、何度も何度もその中で窒息した。
 同じように与え、同じように応え、ふたりの欲するものはとてもよく似ている。周囲の不審も揶揄もここには届かず、ふたりはふたりだけの空間で、互いだけを見て感じ、味わっていた。
 ペールゼンはキリコに降伏する。その足元にひれ伏し、敗者の甘美を味わう。恋は、より多く愛した方の負けだ。その敗残を、ペールゼンはほとんど恍惚としながら受け入れる。
 私はキリコを愛している。恐ろしく素直にそれを認め、受け入れ、その後一瞬たりともその想いに疑いなど兆したこともなく、なぜ、も、どのようにして、もなかった。あらゆることを理詰めで考えるペールゼンの頭脳は、キリコへの恋の前にはあっさりと兜を脱いで、理性など一変もない、ただ情念の器に成り下がる。おまえが欲しい。大佐と言う立場で兵士を求めるなら、相手の同意の必要もなく、けれどペールゼンはそうしたくなかった。命令ではなかった。あれは、キリコへの懇願だった。
 お前を愛する私を、どうか愛してくれ。
 キリコの足にすがりつき、そうやって愛を請う。キリコはそのペールゼンを1分足らず無表情に見下ろした後、無意識の上位の者の仕草で、ペールゼンの手を取る。
 キリコにとっては勝ちも負けもない、それはただ起こってしまったことだ。所詮、恋の敗者とうそぶくペールゼンこそ、戦争の中に身を長く置き過ぎて、そのようにしか物事を見れなくなっている視野狭窄と開き直る図太さすら失って、キリコへの恋に溺れている愚か者だ。
 キリコに触れる。何の隔てもなく。軍服も軍帽も耐圧服もなく、身分も立場も、何もかもそこへ脱ぎ捨てて、ただすべてを剥き出しにした裸で抱き合う。
 呼吸が近寄り、唇を重ねて、違う粘膜が2箇所、同時に触れ合う。こすり合わせて、こすり上げて、寄せる波と引いてゆく波と、伝える躯と応える躯と、ひとつに溶け合ったと、ふたり同時に錯覚した。
 錯覚の生む熱に溺れて、ふたりは同時にむせて、ペールゼンの去り際を惜しんで、キリコがまだ腰にゆるく両腕を巻いて来る。
 ペールゼンの乱れて落ちた前髪が、キリコのそれと絡んでいた。まつ毛の触れる近さに額を触れ合ったまま、キリコは、震えるペールゼンのまぶたに見入っている。
 似たような汗の匂いにつつまれて、ふたり一緒に生み出した熱の名残りに潤んだ眼球の裏から、思わずあふれてしまったペールゼンの涙──汗──を、キリコの舌がそっと舐め取って行った。

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