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限界Lovers - 降る雪

 ふわりと、重みとも思えない重みが体に掛かり、ペールゼンはふと目を開けた。
 部屋の中が妙に明るく、書斎のソファで読書中にうっかりうたた寝をしていたのだと、目の上に腕をかざしながら思う。
 「寒くはないか。」
 低く訊いて来る声に首を振り、そうだ、無理矢理に休みを取って、キリコを連れて来たのだと言うことも同時に思い出す。
 ふたりでいても、特に何をすると言うわけでもなく、夜になればひそやかに抱き合う時間を持つ以外は、キリコは耐圧服を脱ぎもせずに、ペールゼンの私邸の中をあちこち歩き回り、それに飽きると書斎の片隅で、ほんとうに興味があるのかどうかも分からない読書をしている。
 「そろそろ夕食だそうだ。」
 「そうか、では起きなければな。」
 毛布を押さえながらゆっくりと起き上がると、窓の外が白っぽく見え、部屋の中もそのせいで明るいのだと知れる。ペールゼンがその白さに目を凝らすと、キリコがそれに気づいて窓の方へ振り返った。
 「雪だ、しばらくやまないそうだ。」
 「それでは外には出れんな。」
 特に予定があったわけではないけれど、ふらりと散歩くらいと思ってもいたから、雪がひどく積もれば裏庭にも出れなくなるなと、ペールゼンはぼんやりと思った。
 せっかくここまで連れ出したと言うのに、結局邸の中に閉じこもるだけで終わりそうな、ペールゼンとキリコの短い休暇だ。
 読みながら眠りに落ちたはずの本が手の中になく、ペールゼンがちょっと辺りをきょろきょり見回した。すぐ傍の、背の低いテーブルの上にそれは置かれ、読んでいたらしいページに紙片が挟まれているのが見える。キリコが、寝入ってしまったペールゼンから取り上げたものらしい。
 この毛布もキリコが掛けてくれた。世話を焼かれることには慣れ切っているけれど、キリコにされるとひどく面映ゆく、照れくさい気持ちになる。
 体を起こしたせいで少し空いたソファの向こうの隙間に、キリコが腰を下ろして来る。毛布の上からペールゼンの脚を撫で、
 「別に、行きたいところがあるわけじゃない。」
 「それはそうだが、退屈だろう。」
 自分で連れて来ていてどういう言い草だと思いながら、来いと言えば逆らいもしない、行き先も訊かないキリコも、ふたりでいられればそれでいいと思っているのかと、ペールゼンはキリコの手へ向かって腕を伸ばし、指先を絡め合わせた。
 風があるのか、小さな雪片は斜めに走り、無数のそれが辺りを覆い尽くしている。眺めているだけで息苦しくなる光景に、ペールゼンは思わず肩を小さく震わせ、毛布を首元近くへ引き寄せた。
 「寒いか。」
 「いや・・・。」
 すかさずキリコが訊いて来るのに再び首を振り、けれど雪に降り籠められ、ここへ閉じ込められると想像すると、キリコの言う寒さが首筋へ忍び寄って来るような気がする。
 寒さではなく、それは孤独ではないかと思い至って、ペールゼンは触れていたキリコの指先を握りしめた。
 若さの分、キリコの方が体温が高い。そうして並ぶと、年齢の隠せないペールゼンの手はひどく老けて見え、思わず引きかけたその手を、キリコはとどめて自分の方へむしろ引き寄せる動きをする。
 キリコにはペールゼンの体温がやや低いように感じられるのか、黙ってその手を自分の両掌の間に挟み、ペールゼンが見ている窓の方をまた振り返った。
 白の紗幕は見る間に濃さを増し、ふたりの視界を隙間もなく塗りつぶしてゆく。勢いを増す雪の嵐はただ恐ろしく、口の中へ積り、喉を塞ぎ、いずれ窒息するような感覚に襲われて、ペールゼンはキリコの手を強く握った。
 キリコは何も言わない。重ねた手からペールゼンの脳の中が読み取れるとでも言うように、あやすように両の掌の中でペールゼンのその手をそっと撫で、そうされて次第に落ち着くペールゼンの呼吸に合わせるように、キリコの呼吸もやや間遠になる。
 肉の剥がれ落ちた、骨のように白い雪。そこから単純に死を連想し、その冷たさも、命の失せた肉体の冷たさを思わせ、ペールゼンは自分の死を想像していた。
 それほど先のことではないだろう。作戦中の戦死もあり得る。あるいは、ペールゼンを憎む誰かに謀殺されると言う可能性もあった。死は、いつもあちこちに口を開けて待っている。そこへ次に足を突っ込むのは誰なのか。運良くそれを避けるのは誰なのか。
 ペールゼンよりも、よほど死は身近のはずのこのAT乗りは、そこから遠く隔たって、どれだけひどく傷つこうと命を欠けることはなく、血まみれの姿でさえ生きて戻って来る。
 この間の怪我は一体どこだったか。肋骨の1、2本は、もう怪我にすら数えてはもらえないキリコだった。
 ああそうだ、とペールゼンは突然思いつく。今夜は、キリコの体を確かめよう。傷跡を数え、もしかするとまだ色の戻らないままの皮膚の位置を確かめ、傷ついたと言う内臓のことを訊き、若さゆえだけではない恐るべき回復力を、まるで我がことのように感じるために、キリコの体を仔細に観察して、その低い声で説明させよう。
 自分の、先のそれほど長くないだろう生命の、最後に燃え盛る火のような、このキリコへの想い。自分の死に際に、キリコはどこにいるだろうか。自分の死に顔を、キリコは見るだろうか。
 死んだのだと、誰がキリコに知らせてくれるのだろうかと、現実的にペールゼンは考えた。その親切な誰かも、見つけておかなければと、降る雪に背中を突き飛ばされるように、ペールゼンは続けて思った。
 毛布の上にペールゼンの手を戻し、キリコがゆっくりと立ち上がる。
 「紅茶を淹れよう。飲めばあたたまる。」
 「私のためなら別にいらん。別に寒くはない。」
 特に強がりではなくそう言い、行ってしまわずにここにいてくれと、そう声ににじませてペールゼンが言う。
 「おれが飲みたいんだ。」
 素っ気なく、切り捨てるようにキリコが言う。優しさの一片もないその言い方に、けれどペールゼンには聞き取れる、キリコの気遣いが確かにあった。
 自分が飲みたいのだと言う、ただの振り。熱い紅茶を、おまえのために淹れるのだと言う本音はしっかりとその奥へ隠して、キリコの瞳がペールゼンを見下ろしている。
 そうか、とペールゼンはうなずき、読書の続きに戻る素振りで、傍らの本へ手を伸ばした。
 キリコの部屋を出て行く足音を耳で追い、ひとり置き去りにされた部屋の中で、不意に2度も室温の下がったような気がしながら、ペールゼンはもう自分はひとりに耐えられないのだと思い知っていた。
 キリコのいない、この部屋すら耐えられない。積もり続ける雪が恐ろしくないのは、キリコが一緒にいるからだ。
 私は、それほどおまえを愛しているのか。
 自分の想いの激しさに驚いて、本を開く指先が震えている。指の震えのせいで、本が手から離れ床に落ちた。栞代わりにキリコが挟んだ紙片が本から滑り落ち、ペールゼンには伸ばしても手の届かない床を舞ってゆく。紙の白さに目を撃たれ、それに雪の、恐ろしい白さが重なり、ペールゼンは一瞬、自分が視力を奪われたように感じた。
 おまえは、私の手を取ってくれるだろうか。
 死んでゆくペールゼンの傍らで、冷たい手を、さっきそうしたように、キリコはあたたかな手で包んでくれるだろうか。
 雪のせいの死の予感に押し潰されそうになりながら、今、うつむいてポットに紅茶の葉を入れるキリコの横顔を想像し、ペールゼンはひとりの痛みに耐えた。
 雪は恐ろしい。その冷たさに耐えられない。ペールゼンはもう、孤独であることの恐怖を受け入れ切れずに、親に見捨てられた子どものように、キリコが戻るのを待っている。
 熱い紅茶を手に部屋に戻って来たキリコが、床に落ちた本を拾い、ペールゼンに手渡し、どうしたと訊くだろう。
 ペールゼンはその問いに答えはせず、ただキリコの手を取る。キリコの、あたたかな手にすがりつき、雪の冷たさを忘れようとする。
 雪は音もなく降り続けている。ほの明るい部屋の中で、ペールゼンの肩に、黒い影がまつわりついている。
 キリコの足音に耳を澄まし、部屋の片隅にじっとうずくまっている白い死神から、ペールゼンは目を背け続けている。
 今夜はキリコを抱いて寝よう。決して手離さずに、明日の朝は寝過ごして、そのままベッドから出なければいい。小さなふたりだけの楽園。雪の冷たさの届かない、あたたかな温室のような場所。
 キリコの傷だらけの体を抱き、その皮膚からぬくもりを吸い取り、ペールゼンはやっと人並みの呼吸を取り戻して、死の予感に怯えた自分を笑うのだ。
 死から遠く隔てられたキリコの傍で、今夜は穏やかな眠りを貪るのだ。悪夢は決して見ない。ペールゼンは知らず銀髪の頭をひとり振り続けていた。
 キリコの足音はまだ聞こえない。
 すべての音を吸い取って、雪は降り続けていた。

* これ(シャッキリ)と対のような。
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