限界Lovers - ナミダ
羽織っただけのロングコートの下から右腕だけを出して、目の前のキリコのあごへ伸ばす。人差し指を添えて上向かせる動きは、少将と曹長の組み合わせでは屈辱や侮蔑と言った意味合いしかなさそうに見えるのに、キリコを見下ろすペールゼンの、ミラーグラスの奥の瞳にはそれらとは違う色が浮かんでいる。他の誰にも見えないその瞳の色を、キリコだけは真っ直ぐに見据えて、睨みつけているとしか見えないその目つきも、ペールゼンにだけはそうでないと分かるそれだ。
軍帽もミラーグラスも、今は邪魔にしかならず、ペールゼンは結局コートと軍帽を脱ぎ、ミラーグラスを外し、それだけで裸になったような気分でキリコに対峙する。どれだけ清潔にしていても、どこか薄汚れて見える耐圧服の高い襟へ指先を掛け、そこから喉を指先でなぞった。
年老いた男が、自分の裸身を晒すのをどれだけためらい恥じるか、少年を脱したばかりのこの青年は思いつきもせず、自分の服を脱ぎ捨てると同じ潔さで、ペールゼンの服へ手を掛けてゆく。
互いに、別の意味で忙しい間柄では、こうして盗み合った時間を惜しんでそそくさと躯を合わせるしかない。とは言え、悠長なつもりはなく、青年の性急さとは裏腹に、とっくに盛りを過ぎた側は欲しいと思う気持ちに躯は追いつかずに、筋肉の落ち始めのはっきりと現われる皮膚の下が確かにざわめき始めるのに、少しばかり時間が必要だった。
キリコはペールゼンの反応の鈍さを、自分が欲しくはないのかと受け取る。それをいちいち口で説明するのは業腹だけれど、年若い恋人──世間は情人と言う言葉を使う──に誤解されるのも、それが原因で捨てられるのも避けたいペールゼンは、苦い笑いをこぼしてそうではないときちんと否定してやる。
キリコの若さ──稚なさ──を、羨ましいとは決して思わない。底のないような、形のはっきりと見えそうなエネルギーは、確かにペールゼンにはもうないものだけれど、欲しいものを得ようとする情熱ならいまだ誰にも負けない自負はあったし、事実その情熱に従ってキリコを手に入れたペールゼンだった。
どこに触れても指先を弾き返して来る、キリコの皮膚と筋肉に掌を滑らせる。素早く汗に濡れて来るキリコの素肌の、熱さに骨の髄まで煽られながら、特に取り戻したいと思ったこともなかった若さを自分の中に再び感じるのは、いっそのこと何もかも捨て去って、キリコとふたりきりどこかへ消え去りたい、そのための情熱が欲しいと思うせいなのだろう。
立場の違いが、ふたりの間の邪魔をする。親子ほど違う年齢のせいだけではなく、尉官ですらないキリコは少将であるペールゼンにとっては人間ですらなく、所詮軍の駒でしかないキリコと、その駒を動かし生死の行き先を決定するペールゼンと、ペールゼンの立場を利用すればキリコの地位を無理矢理に上げ、自分の手元へ置いておくことは不可能ではなかったけれど、そのような職権の濫用をペールゼンは決して好まなかったし、キリコ自身も、AT乗りであることを辞めてペールゼンの傍らで戦闘とは無関係の軍生活を送る気はさらさらないらしかった。
おれは、戦うことしか能のない男だ。
真顔でキリコが言う。男と自分のことを言うのに、不釣合いに思えるくせに、その声音にはもう寸分の躊躇もなく、戦場の修羅場をすでに無数にくぐり抜けて来た手錬れの貌(かお)は、常に命令する側でいるペールゼンを冷たく睨めつけて来るように見えた。
戦うことしか知らない男と、戦わせることしか知らない男と、魅かれ合った理由は一体何だったのか。武器は使われてこそ武器であり、最大限の成果のために使う者の熟練を要求する。そんな風に、ふたりは互いを補い合える間柄ではあり、そして戦争と言うものがなければ、同じ場所ですれ違うことすらなかったろうふたりの悲しさが、時折ペールゼンの胸を刺す。
戦場へ出れば、キリコは生きて戻って来る保証はないし、ペールゼンもまた、明日まだ生きている保証はない。明日がないと言うと言う思いが、ふたりを寄り添わせ、より近くする。だからまるで貪り合うように、互いの膚へすがりつく。
戦争を取り上げられれば実のところ何も残らない男がふたり、それゆえに出逢って魅かれ合い、目指すところは戦争の終結と言う建前で、長引けば長引くほど明日が遠くなると言うのに、戦争が終わった瞬間にその明日の中で、ふたりは恐らく呆然と立ち尽くす羽目になる。
明日がないからこそ、切羽詰まった気持ちで、互いを求め合う。明日が必ずあると言う日々の中で、一体互いに向き合うことができるのかどうか、ふたりには分からなかった。
そんなことはどうでもいいと思えるキリコの、その若さゆえの無知と、過去の重さゆえに見ない振りはできないペールゼンと、屈託も頓着も位置も次元も違うふたりは、違い過ぎるからこそ、こうして一緒にいられるのだとも言えた。
キリコの手が、みぞおちから脇腹を滑ってゆく。その指先をやんわりと肩の辺りへ引き戻して、ペールゼンは決して先を急がせないように、キリコの動きを穏やかに制した。
自分の上へ引き寄せ、腰をまたいで開いた脚の間へ膝を差し入れてやる。少し強く押し付けただけで、背中が反って伸びた喉から声が漏れる。ろくに触れる必要もなく、昂ぶったキリコのそれがペールゼンの下腹を打ち、そこへ指先を添えると、驚くほどの素直さで躯を預けて来る。
しがみついて躯を押し付けて来て、早くと触れる素肌に言わせて、それをなだめてあやしながら、自分へ掛かる時間を稼いで、ペールゼンは掌の中で手懐けたキリコを、ゆっくりと先へ導いて行った。
だらりと手足を投げ出したキリコを自分の下に敷き込んで、開かせた脚の間へ膝を割り込ませ、膝裏を持ち上げられた姿勢の露わさにも気づかない様子の弛緩し切ったそこへ、今までの悠長さが嘘のような慌しさで、ペールゼンは自分の躯を押し込んでゆく。
その奥底の馴染み様が、決して長くはないキリコの軍隊生活の過酷さを、言葉より何より物語っていた。それを詮索するつもりはなく、それでも自分の庇護が多少はキリコの立場をましなものにしているはずだと、信じたいペールゼンだった。
無理に繋げた躯の、内側の圧迫感に、不意に我に帰ったようにキリコが青い目を薄く開き、ここはどこかと確かめるように左右にゆるく首を振る。
瞳だけを動かした横目で、真上にいるペールゼンを認め、それから自分の顔の傍につかれた手をまた瞳を動かして眺め、キリコはペールゼンのその指へ自分の指を重ねて行った。
揺すぶられながら、ペールゼンの指を握りしめ、そうして近づけた唇で触れて、舌で舐め、食むためのように口の中へ導き入れる。ペールゼンは躯の両末端でキリコの熱に触れて、濡れた舌に乗せられた指を動かし、頬の裏や喉の奥近くまで指の腹で撫で続ける。
抜き取った指先とキリコの舌先と、唾液が糸を引く。それを切らずに、あごに指を添え、持ち上げるまま唇を近づけた。キリコの両腕が、ペールゼンの首に巻きつく。ぶつかり合う肩と胸と、脈打つ首筋をこすり合わせて、熱の弾ける直前に、まるでそれを制止するかのように、キリコがペールゼンの首筋に噛みついた。
獣の、獲物の息の根を止める仕草そっくりに、太い血管を噛み千切りそうに、ぎりぎりと歯が食い込む。襟で隠れるかどうか、気にする余裕はなかった。キリコに噛まれるまま、ペールゼンは自分の動きは止めなかった。
果てのわからないキリコの開いた躯の、最奥へたどり着こうと、いっそう強く押し込んだ躯の、吐き出された熱がぬるりとキリコの熱い粘膜を打った。
交ざる熱は、冷めるのにひと時掛かる。その短い時間を惜しんでまだ躯は引かず、ペールゼンはある種の感謝をこめて、キリコの額へ唇を押し当てた。
そうして、見下ろしたキリコの目尻に流れる涙を見つけて、親指の腹でそっと拭ってやった。それが、想い合う者同士の仕草と言うよりも、どこか親子めいて見えることにペールゼン自身は気づかず、キリコは拭われるまま、もうひと筋涙をこぼした。
気持ちの伴わない、ただ体が感じる異物感による涙だ。ペールゼンを受け入れ、不自然に躯を開き、違和感にキリコの体は素直な反応を見せる。想いとは少しずれた体の流す涙の不思議さは、そのままふたりの関係のようだった。
辛かったかと、唇の形だけで訊いた。まるで聞き取ったように、キリコが首を振る。離れた躯の間に空気が入り込んでふたりを隔てると、途端に幼く見えるようになるキリコは、ごしごしと拳で涙を拭い、改めてペールゼンを抱きしめた。
自分のつけた噛み跡へ唇を押し当て、頬をすりつける。さっき流れた涙の跡が、ペールゼンの首筋で拭われてゆく。
「ヨラン・・・。」
切なげにも悲しげにも聞こえる声で、ささやかれて、ペールゼンも似たような声を返した。
「・・・キリコ。」
今ふたりきりのこの部屋を出れば、そんな風に、こんな声で互いを呼び合うこともできないふたりだった。
キリコの裸の、まだ肉の薄い背中を抱きしめて、短く刈られた髪へ鼻先を埋め、ペールゼンはキリコをここからどこにも行かせたくないと思った。
兵士の、自分以外の誰の死も惜しんだことのないペールゼンは、キリコただひとりの死を、自分の死よりも惜しんでいる。恐れ、怯え、あるともないとも分からない未来をすでに嘆いている。
いつか潰える明日の儚さのために、気がつけばペールゼンは泣き、その短い涙はキリコの青い髪の中へ消え、ふたりで交ぜた汗に紛れて跡形もない。
驚くほど似ていないふたりは、恐ろしいほどそっくりだった。それを知っているのは、ふたりだけだった。
あると知れない明日よりも、抱きしめる互いの体の熱さの方が確かだったから、信じられるそれのために、ふたりは腕に力を込めて、いつまでも寄り添い続けている。