限界Lovers - 夜空
面と向かって尋ねたわけではなく、手元へ来た資料を見て、キリコの誕生日は知っていた。何かを特別に祝うことも祝われることも、自分の身辺には滅多とないペールゼンは、何か欲しいものはあるかとキリコに訊く自分を内心珍しがって、ついこみ上げて来る微苦笑を噛み殺すのに必死だった。
別に、とキリコがいつもの素っ気無さで言う。
軍の宿舎住まいでは、私物など増えても面倒なだけだ。それが祝いの品となれば、扱いに気を使うのはさらに面倒くさい。キリコはそう思うのを、包み隠さずペールゼンにそのまま伝えた。
そうか。ちょっと残念そうにペールゼンが答え、その表情にわずかの間胸を突かれたキリコは、思い直して別の案を口にした。
何もいらない。だが、ふたりきりの時間なら、欲しい。
誰の邪魔も入らない、と言い足す。ペールゼンの部下も、キリコの上官も、誰も邪魔をしない、ふたりだけの時間、とキリコが言う。ペールゼンは数瞬、呆れたように片眉を上げて見せてから、
「──いいだろう。」
そう応えた声が、彼自身の耳にも、なぜかひどく穏やかに響いた。
野営に慣れているキリコにさすがに付き合えず、ペールゼンは海岸の砂浜の始まりに建てられた小さなコテージをどこかから探し出して来た。
キリコの誕生日の前日と当日、そしてその翌日はきっぱりと休暇を取り、部下たちには連絡はつかないからそのつもりでいるようにと、いつも以上に厳しい声で言い渡して、キリコの方は極秘の作戦に参加させるためと、手繰ってもペールゼンの名は出て来ないように用心はして連れ出した。
極端に私物の少ないキリコは、耐圧服以外の着替えもろくになく、ペールゼンが自分の服を選んで着せ、少しだけ余る首回りや袖丈をキリコはずっと気にしている。
「期待はするな。缶詰を温めるのがせいぜいだ。」
料理の類いはふたりとも不得手で、それでも自分の食料だけは自力で調達するのが常のキリコの方が、言われる前に小さなキッチンの冷蔵庫と棚を覗き込んで中身を確かめる。
「2晩だけだ、断食まがいになったところで飢え死にするわけでもあるまい。」
首に巻いたマフラーを取りながら、ペールゼンが軽口を叩く。ほんとうの飢えを知らないだろうペールゼンを、冷蔵庫の扉からちらりと見て、キリコが一瞬複雑な表情を浮かべた。
キッチンの続きに、簡易にソファの置かれた小さな居間部分、その奥にはバスルームから通じる寝室があり、親(ちか)しいふたり組が隠れ家のように使うための場所か、ベッドは部屋の広さの割りにたっぷりとしていた。
玄関を出ると、家の前面に不似合いに堂々としたデッキが作られ、それを降りればもう砂浜だ。夜には恐らく、波の音が眠りを妨げる。もっとも、眠りは今はそれほど重要ではなく、むしろ眠らずにすむならその方がいいと、キリコは言わず考えた。
珍しく、数時間後も夜も朝も明日も気にせずに抱き合える時間だった。ふたりがここに一緒にいることを、誰も知らない。誰も、ふたりを探しにはやって来ない。不粋に電話が鳴ることもなく、聞こえるのはただ、波が砂を洗う音だけだった。
動けば肩の当たる狭さのキッチンで、互いを避(よ)けるよりいっそう近く体が寄る。居間のソファは、横たわるには少しばかり狭かったけれど、キリコはその狭さをむしろ好んでペールゼンの肩を押した。ソファの後ろの床は、ペールゼンには少し硬過ぎ、
「少し、私を気遣ってくれ。おまえほど若くはない。」
そう言う唇を塞いだ後で、脱いだ服を点々と床に落としながら、ふたりは寝室へ閉じこもった。
ただ触れ合うだけで、それを延々と続ける時間はたっぷりとあった。シーツの波間と互いの腕の輪に互いを閉じ込めて、空気が呼気にぬるくあたたまるまま、ふたりは何も目指さざない。時間が、ふたりの肌に触れて過ぎ去ってゆく。
毛布が床に滑り落ち、それを追うように、ふたりも床へ横たわる。ベッドの下へ時折爪先や伸ばした腕が隠れ、よく磨かれた、それでも快適とは言い難い床の上で、もうどこで何をしていると理解もしてない風に、ふたりは飽きず見つめ合っていた。
腹が減ったと唐突にキリコが言い、シャツを探して部屋を出てゆく。いつの間にか薄暗く、もう明かりがなければよく見えない。ペールゼンはひとりベッドに残り、ドアの向こうから漏れ聞こえて来るキリコの立てる物音へじっと耳をすませた。
湯の湧く音が聞こえ、その後をコーヒーの香りが追って来るのに我慢できなくなり、ペールゼンもベッドを降りて部屋を出た。シャツの前もろくに閉じずに、シャツを羽織っただけのキリコに負けない自堕落な姿で、差し出されたコーヒーに、ペールゼンはまるで飢えたように忙しなく唇を寄せる。
苦味の強い、好みではないコーヒーが、けれど今はやけに舌にまろやかに乗り、喉を通り過ぎる熱さが、何の脈絡もなく、交わし続けたキリコとの接吻を思い出させた。
缶詰を開けただけの豆と肉のペーストをただパンに挟み、火も使わない夕食を、けれどペールゼンは貧しいとも侘しいとも感じない。空腹をキリコから伝染(うつ)されたように、熱さだけが取り柄のコーヒーで流し込んで胃を満たすと、ようやく人心地のついたように、またふたりは小さなテーブルを挟んで見つめ合う。
使用人たちに、上から下まで世話をされる立場のペールゼンが、自分の差し出す食事──と呼べるなら──に文句のひとつも言わないのを不思議に思いながら、キリコは次のコーヒーをそれぞれのカップに注ぎ直し、自分のそれを手に立ち上がる。向かい側にいるペールゼンの傍へゆくと、胸の前に腕を巻くように、後ろ髪に顔を埋めた。
コーヒーは、飲まれないまま冷めてしまう。
紅茶は、ペールゼンが淹れた。
夜明け前に外に出て、火照った体を寄り添わせて冷やしながら、波音を一緒に聞いた。海と空の、境い目のない溶け交じった、そろそろ終わる夜の色を、ふたりは一緒に眺めた。
互いに触れていなければ死んでしまうとでも言うように、ふたりの体は常にどこかが触れ合って、カップを持たない方の手は指を絡め合わせて、それのほどけてしまう時が信じられずに、キリコは紅茶のお代わりを言い出せずにいる。
ペールゼンのミラーグラスもキリコのドッグタグも、コテージの中のどこかへ置かれたまま、外して以来探す素振りは互いにない。
中へ戻ろうと指先に言わせて、ろくにボタンも留めないシャツをまた剥ぎ取るようにして、交わすつもりだった言葉の残りは全部互いの唇の中へ吸い取らせてしまった。
取り替えもしないベッドのシーツはふたり分の汗に湿り切って、乱れる上にさらに乱され、マットレスに折り込まれていた裾はだらりと飛び出してだらしなく垂れて、ふたりが床へ降りるたび、ひやりと皮膚の上をかすめてゆく。
空腹をなだめる以外はベッドから離れず、ふたりが満たしたい飢えは、どれほど近く抱き合っても満たされることはないようだった。
時間を忘れて皮膚を融け合わせ、短い眠りで体力を取り戻すキリコの若さに、そろそろペールゼンは根を上げそうになっている。
若くはないと口にするのは、もう自嘲でも自虐でもなく、単なる事実だ。若いと言うよりも、まだ幼いと言った方がいいキリコの、少年めいた躯を抱いて、そのキリコが自分の、張りも艶も失せた体をどんな目で見ているのかと、正気に返る一瞬に、痛みが胸を貫く。
キリコを抱く間(ま)に、キリコにすべてを注ぎ込んで、そうして痛めつけてしまった自分の体がすべてを終わらせることにする、相当にろくでもない死に方だけれど、もっとも幸福な生き方であり逝き方かもしれないと、ペールゼンはそれほど冗談めかしてでもなく考えすらした。
醜聞にまみれたところで、困る家族も親族もない。ただ、後に残してゆくキリコの、自分の部下たちからの扱いが心配なだけだった。
上で動いていたキリコが、不意に動きを止めた。ペールゼンの腰をまたいで開いていた膝を集め、体を倒して顔を近づけて来る。
「──何を、考えている。」
低めた声の息が唇に掛かるのが、声音の凄みのようなものを裏切って、ペールゼンは思わず微笑んでそれに応えていた。
おまえに殺されるなら幸せだと、そんなことを考えていた。そう言ってしまいたい心を抑えて、ペールゼンは腕を伸ばし、キリコを自分の胸へ抱き寄せる。繋がっていた躯が、姿勢の変わったせいでぬるりと外れ、キリコはそのままペールゼンの上へ体を伸ばして寄り添って来た。
熱を交わすと、考えることまで伝わるのだろうか。口数の少ないキリコの、躯の語る言葉を聞き取りながら、ペールゼンは自分の語る無言を、キリコがどんな風に聞き取っているのだろうかと考えている。
求めて、得て、満たされることはないまま、欲しがる気持ちばかりが募る。欲しがって、与えられて、それでもまだ止まらずに、もっと欲しくなる。
隔てばかりのふたりの間で、今だけは何もかもを取り払って、互いの奥へ奥へ、手を伸ばして触れ合う。
ふたりきりで過ごしたいと、そうキリコが言った時間が、終わりに近づいていた。
開いたままのドアから届く明かり以外、何もない。闇が、抱き合うふたりの姿を包み隠してくれる。
敷いた毛布の端から、ふたりの伸ばした脚は砂の上へはみ出し、衣服の裾から無遠慮に入り込んで来る砂の感触も、互いの体温以上には気にもならず、後で洗い落とすために一緒にシャワーを浴びる口実にすればよかった。
目を凝らせば色の違いのようやく分かる、夜の海をふたりは眺めている。そこからが空だと分かるのは、散らばる星の光のおかげだ。それでも時折通る船の遠い明かりが、視界の中の海と夜空を迷わせる。迷うたびふたりは、なぜか互いを見やって、それから正面へ視線を戻して海の際を再び発見した。
持ち出したコーヒーのカップはひとつだけだ。ふたりともの手指がそれに掛かり、ふたりでそれを分け合って飲み、まるでそう取り決めていたように、最初の半分を飲む間はキリコがペールゼンの膝の間へ坐って胸に頭を寄せ、残りの半分を飲み始めると体の位置を入れ替え、今はペールゼンがキリコの胸に寄り掛かっている。
キリコは、ペールゼンの、後ろへ撫でつけられた髪を飽かず指先に梳き続けていた。
キリコの手ごとカップを持ち上げて、ペールゼンがぬるくなったコーヒーを飲む。
「・・・おまえへの祝いのはずだったが・・・どちらが祝われたのか分からんな、これでは。」
「誕生日は単なる口実だ。一緒にいられれば、それでいい。」
冷淡な声音を、使った言葉が裏切っている。ペールゼンは思わず唇の端を上げ、正面を見たまま淡く笑った。
ほんとうに、邪魔の入らない数日だった。戻れば、キリコの方は上官にちくちく意地の悪いことを言われるのかもしれない。その心配のない自分の、その力で、キリコを護ることはできないかと、またペールゼンは考える。
軍部における自分の立場の濫用を、必ずしも常ではないにせよペールゼンは自分に厳しく戒めて来た。自分の意思を貫き通そうとすれば、弱味はない方がいい。汚職の類いは興味もなく、賄賂もへつらいも通用しないとなれば、そちらからも近寄っては来ない。
そのペールゼンの、キリコは確かにアキレスのかかとだった。
キリコが自分の情人であることを、それほど慎重に隠しているわけではない。噂を否定も肯定もせず、キリコを連れ歩く時はいつもと同じに顔を真っ直ぐ上げて、恥じることなど一点もないと言う表情(かお)で、ひそひそとした囁きは、ペールゼンのひと睨みですぐにやんだ。
キリコの方は、愚痴や弱音を元々持ち込んで来る方ではないし、隊内での意地の悪い振る舞いも、柳に風と受け流すのに苦労はしていないようだった。少なくとも、殴られて痣の残る顔でペールゼンの前へ現われるようなことは、久しくない。
それだけでも十分なのかと、キリコに直に問い正してみたい気もしながら、公私混同を良しとはしない自分の性根が邪魔をする。
そんなペールゼンの、キリコのためのこの休暇は確かに精一杯ではあった。
朝が来れば、荷物をまとめてここを去ることになる。そうしてふたりはまた、様々なものに隔てられて、慌しくひと時会うためだけに必死になる、そんな風なふたりになる。
キリコがカップを持ち上げた。物思いに沈んでいたペールゼンは、カップから手を滑らせ、砂に落ちてからそれに気づく。砂まみれになったその手に、キリコがカップを戻して来る。今度はキリコがカップから手を放し、そのままペールゼンを抱いた。
皮膚が溶けるほど抱き合ったと思うのに、ふたりは相変わらずふたりのまま、今はシャツに隔てられた躯は夜気に冷えて、砂を噛む波音に残りの時間を数えている。
まだ、肌を重ねて抱き合う時間はあった。それでも今はなぜか、ただ寄り添う以上のことは求めずに、ふたりは飽かず夜の空の星を見上げていた。
ペールゼンは残ったコーヒーを飲み干し、空になったカップは手から離さず、自分の胸に回ったキリコの手へ、空いた方の掌を重ねる。キリコはペールゼンの肩へ顎を乗せて来て、そこからペールゼンの頬骨の辺りへ唇を押し当てた。
「ヨラン・・・。」
この数日、何度吐息交じりに呼ばれたか分からないその呼ばれ方に、ペールゼンは目を細め、それからキリコの方へ首をねじ上げ、ただやるせなく切なく自分の名を呼ぶその唇へ、自分の唇を寄せてゆく。
私を、ひとりにするな。
声には出さない言葉が、胸の中へ落ちてゆく。キリコに聞かせたいような、決して聞かせたくはないような、どちらか自分でも分からず、ペールゼンは闇でも明るく見えるキリコの青い瞳の、そこへ映る自分の小ささに、閉じ込められてもう逃げられないのだと言う想像に束の間安堵を覚えて、将校である自分のことを忘れ、ひと時ただの男に戻った。
ただの男のペールゼンを、キリコがもう少し強く抱いた。
どちらもペールゼンの持ち物のシャツが、元はどちらを誰が着ていたものかもう判別できないまま、砂交じりの風を浴びた布が、ふたりの間でじゃりっと音を立てる。
砂だらけの毛布の上に、キリコの髪が散る。首筋に押し当てた唇が、そこで砂を噛んだ。
夜明けに近づく夜空から、星が、抱き合う恋人たちを見ていた。