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限界Lovers - 貴方が歌う

 いつものように、キリコは戻って来た。致命傷ではない数ヶ所の被弾、数え切れない深刻な打撲、右腕を折り、肋骨にひびが入り、それでも1週間で病院から出されたキリコを、ペールゼンはさらうようにここへ連れて来た。
 大佐以上の将校たちのみ使える、一種の隠れ家だ。連絡等の出入りすら、許されるのは大尉以上の者たちだけだった。
 こんなところにキリコを連れ込むのはもちろんルール違反だけれど、ペールゼンのひとにらみで入り口の警備兵は震え上がり、元帥の名を出した瞬間に明らかに空気が変わった。
 キリコはただ物憂げにそのやり取りを聞き、、将校たちの乗る防弾仕様の高級車の中で、ペールゼンと肩を並べて坐る後部座席の、シートのあまりのなめらかさに、8日前まで自分が血と泥の中を這いずり回っていたと言うことが、改めて生々しく思い出されるだけだった。
 医者は何かの間違いだと首をひねっていたキリコの怪我は、すでにもうほとんど癒えており、いちばん軽傷のはずの肋が、体の動かし具合によっては多少痛む程度だ。
 滑るように走る、揺れの少ない車の中では傷の疼くこともなく、キリコは誰の手も借りずに車を降り、先に立つペールゼンの後を黙って追う。
 冷たい外見の建物の入り口で、いかにも執事然とした男に出迎えられ、彼は導くようにペールゼンの前を進み、キリコはペールゼンの背についてゆく。
 エレベーターの操作も何もかも、部屋に着くまで男がやり、ペールゼンの軍用コートと軍帽を受け取ると、彼は静かに頭を下げて姿を消した。
 まだミラーグラスは外さずに、それでも自室のようにくつろいだ風に、ペールゼンは落ち着いた色合いとデザインでしつらえらえた居間を通り抜けて、意外に広いバルコニーに出た。
 すでに小さなテーブルの上にはお茶の準備がされて、ペールゼンはまだ居間の向こうの端に立ったままのキリコを目顔で促し、こっちへと手招きする。
 キリコは兵士の常で、爪先を前へ滑らせながら──傷だらけのブーツが不似合いな、顔の映りそうに磨かれた床だ──周囲にちらりと視線を投げて、執事が消えた方へまだ部屋があるらしいことを視界の端に確かめた。
 「こんなところに、おれを連れて来て、いいのか。」
 キリコの存在を、もう隠す気はないらしいペールゼンの態度に、キリコの方が落ち着かない気分になる。
 「もっと、別の場所が良かったか。」
 ペールゼンの向かいに腰を下ろしながら──椅子は、互いにではなく外へ向けて置かれてあった──、キリコは小さく首を振った。
 ペールゼンの私邸の方が、確かに気楽ではある。けれどここはそこからは遠かったし、互いに、どこへ送られ次はいつ会えるか分からない身だ。そもそも、その次があるのかどうかも、信じ切れる状況ではない。
 人目を忍ぶことを諦めれば、少なくとも会える機会は増える。そうした意図だったのかどうか、ペールゼンはもう、キリコが自分の情人であることを隠す気はないようだった。
 ペールゼンなら、キリコを強引に慰官にして、自分の手元へ置いておくことすら不可能ではなかったけれど、それはキリコが受け入れないと互いに理解し合っている空気がある。
 そして、前線へ送られるたびに──それはつまり、常に、と言うことだ──キリコの安否を心配しながら、結局のところペールゼンはATに乗るキリコをこの上なくいとおしんでいて、鉄の棺桶と乗り手自身に揶揄されるあの機動兵器に乗って戦場を駆け抜け、必ず無事に──死体にはならずに、と言う意味だ──戻って来るキリコに、この世界ではとうに色褪せた希望と言うものを見出しているのかもしれなかった。
 さっきの男が、ワゴンにお茶を運んで来る。ペールゼンには紅茶を、キリコにはコーヒーを、そしてペールゼンは自分の紅茶にブランデーを注がせ、
 「おまえも、入れてみるか。」
 珍しく軽口めいてキリコに訊いた。
 どこか甘さを感じさせる香りに魅かれて、キリコはうっかりうなずいてしまい、ペールゼンがちょっと驚いた顔をしたのを久しぶりの小気味良い気分で眺めて、男がコーヒーのカップへ琥珀色の液体をそっと注ぎ入れるのへ目を凝らす。
 男はふたりへ向かって頭を下げ、また姿を消した。
 キリコは疲れていた。だからいつも以上に、ペールゼンと言葉を交わす努力をせずに、横顔を見せたまま、ただ前方にある美しく整えられた緑と舗道を見るともなしに眺めている。
 コーヒーはあの男が淹れたものかどうか、文句なしに美味かった。舌を焼くほどの熱さではなく、けれど十分に熱く、混ぜたブランデーの円やかさが、苦みを包み込んで心地良い酸味を前に出して来る。キリコは間遠な瞬きをして、ペールゼンには聞こえないため息を吐いた。
 「別の部隊に配属されるそうだな。」
 「生き残りの数が少なすぎて、それぞれバラバラに、あちこちに補充人員として送られるそうだ。」
 何の感慨もなさげに、キリコが平たい声で答える。誰かが自分の傍らで死んでゆく日常、自分と誰かの血にまみれて、呼吸のたびに泥の味を舌に感じては、もうそれを吐き出す気力すら惜しくなる、そんな兵士の日常、またひとつ、そんな日常が重なるだけだ。
 戦闘は弾切れと燃料切れと人員切れともに終わり、動かなくなったATから、キリコは血まみれの体を引きずって外へ出た。引きちぎれ、焼け焦げた鉄の塊まり、そこへ混じる、動かない、五体満足とは言えない生身の体。まだ息のあった、同じ色の耐圧服の兵士を見つけて、キリコは彼の傍へ膝を折った。上官だった。死に際と分かる彼の体を無事な片腕で引きずり、火の上がるATの残骸からできるだけ遠ざけて、それからキリコは彼の手を取った。彼は何も言わず、ゴーグルをずらして、ひびの入ったヘルメットのシールドの内側でキリコを見分けてにやっと笑い、キリコを見つめたまま息絶えた。動かなくなった瞳をしばらくの間見つめて、キリコは折れていない左腕だけで上官のヘルメットを何とか脱がし、彼の目を閉じてやった。
 救護班を乗せたヘリコプターの音が近づいていたけれど、自分の位置を知らせるために立ち上がって振り返るのに、思ったよりも時間が掛かった。
 そうしてまた、キリコは次の戦地へ送られる。今見ている風景は、あそことここが同じ地続きだとは信じられない静けさだった。
 キリコが空を見上げる時に、ペールゼンも同じ空を見上げて、けれどふたりの立つ地は決して同じではない。それを羨むでもなく恨むでもなく、それはただそうと言うだけのことだと、キリコはコーヒーの美味さへまた目を細めて、考えた。
 明らかに、キリコをひと時でも、兵士への雑な扱いから遠ざけようとここへ連れて来たペールゼンの気遣いを感じて、そうしてそうすればそうするほど、何もかもが大きく違うふたりの間の隔たりが際立つだけと、気づかないはずのないペールゼンの、それでもそうせずにはいられない、いつもの聡明さを越えたキリコへの心情へ、キリコ自身はこれと言って特に感じることもない。
 今は小さな丸テーブルの幅分だけ隔たったふたりは、この距離へ近づくのがせいぜいだ。いずれは元帥へと言う噂すらあるペールゼンと、死ぬまでATに乗る以外能のないキリコと、互いの間の距離の失せるその日は、この長く続いた戦争の終わる日よりもはるかに遠い。
 それでも、魅かれて、何かせずにはいられないふたりだった。
 ペールゼンはゆったりと椅子の中に、それでもきちんと背を伸ばした姿で、キリコはそれを首をねじ曲げて眺めた後で、わざとだらしなく足を投げ出した。油断すれば椅子から滑り落ちそうに、すでに空になったカップを腹の辺りへ両手で抱えて、ペールゼンに見えるように喉を伸ばし目を閉じる。
 「──酔ったのか。まさか──」
 ほんのふた口か三口分のブランデーで。答えないキリコに、ペールゼンが心配気に椅子から立ち上がり、キリコの傍へやって来た。
 左側から自分を覗き込むペールゼンへ、キリコはけだるげに薄目の視線を投げ、きっちり着込んだ軍服の右胸の辺りをつかんで軽く引き、
 「・・・眠い。」
 呼吸の掛かる近さでささやかれて、ペールゼンの心臓がうっかり跳ねる。誘いと思うには、退院したばかりのキリコの体調への心配が先に立ち、ペールゼンは珍しくおろおろと数秒迷った後で、怪我はなかったはずの左腕を取り、キリコを椅子から立たせた。
 手伝いに、男を呼ぼうと思ってから、ペールゼンは思い切ってキリコの体を両腕の上に抱え上げる。無茶と思ったのに、キリコの体は案外素直にペールゼンの腕の中に収まった。
 横たえて抱く時よりも、嵩張りの少ないように感じられた。嵩の高い耐圧服の下のぬくみに、そうだこの男はこの間まで少年だったのだと、改めて思い出しながら、ペールゼンは、自分の肩へ頭を乗せて来るキリコの、首筋の際から覗く包帯の白さに、キリコの受けた傷の痛みを感じたように思った。
 歩き出してもよろけはしなかった、自分の思いがけない強さに驚いてもそれを表には見せずに、居間を通って左に向かい、足音に気づいて出て来た男が、手は出さずに、けれど寝室のドアまでついて来て、
 「・・・テーブルは、片付けてもよろしゅうございますか。」
 キリコに気を使ってか小声で訊くのに、ああ、とだけうなずいて見せる。
 男は、ペールゼンが無事にキリコをベッドに寝かせるところまでを見届けて、ドアの向こうへまた姿を消した。
 さすがに、もう子どもではない男ひとり抱えてしびれた腕を撫でながら、ペールゼンはキリコのブーツだけは脱がせて、ベッドの中へ押し込む。ペールゼンがそうしやすいように手足だけは動かしながら、キリコはされるままだった。
 もう眠ってしまうように、枕の上に頭を乗せたキリコを見下ろす位置に、ペールゼンはベッドの端へ腰を引っ掛けて坐り、キリコは下目にペールゼンへ瞳を向けて、上掛けの下からそっと抜き出した左手を伸ばして来る。
 そうしたままでは左手は届かず、目の前で指先が招くように動いているのに、ペールゼンは体を傾けてキリコの手へ顔を近づけた。
 「どうした。」
 ようやく頬へ触れた指先が上へ滑り、ミラーグラスへ掛かる。あっと思う間もなく、キリコの手がミラーグラスを奪って行った。
 今日初めて見る、ペールゼンの裸の瞳だった。キリコはミラーグラスを握り込んで離さず、ちょっと顔を傾けるようにペールゼンを見つめた。
 「──我ら、いくさの子ども。幾多の死を踏み越えて、血潮の染みた大地を駆ける。」
 かすれた声で、突然キリコが歌った。素朴な旋律の、子どもの遊び歌のような、奇妙な明るさが不意に辺りに漂い、ペールゼンは思わず眉を寄せた。
 「駆けた先で、我らもまた血潮に還る。その血潮を、また誰かが踏んでゆく。我ら、いくさの子ども。果てぬ夜はなくとも、いくさは続く、果てなく続く──」
 ペールゼンを見つめたままそこまで歌い、キリコはそこから天井へ視線を移す。
 「我ら、いくさの子ども。声を立てて駆け巡る、血を流してただ進む。道なきそこへ道を敷き、血で固めた泥の上を、ひたむきに駆けてゆく。誰も知らぬその道を、我らだけが駆けてゆく──」
 単調な、けれど不思議と決して退屈ではない同じメロディーを、キリコは無表情のまま、天井へ向かって続けた。
 「──我ら、いくさの子ども、親はなく、親を知らず、流れる血はただ我らだけのもの──」
 始まった時と同じ程の唐突さで、キリコの歌声が途絶える。
 「──何だ、それは。」
 キリコが唇を結び直すと、ペールゼンはどこか咎めるような色を消せずに訊き、キリコはそれへ、知らずどこか冷たい視線を返していた。
 「同じ部隊の奴が、ずっと歌っていた。武器の手入れの間も、食事を待つ間も、ATの整備の時も、ずっと同じ歌を歌っていた。いつの間にか周りの連中も覚えて、出撃の時に上官が怒り出すまで皆で歌っていた。最後の日は、上官も皆と一緒に歌った。」
 感情を込めない声で、キリコが答え、天井にまた向けた視線が、兵士たちの歌声を最後に聞いた時のことを思い出しているかのように、すかすように遠くなる。
 「歌っていた奴は、最初の日に死んだ。」
 兵士の生きていたあかしは、今ではこの歌だけだ。それも、キリコが忘れれば消え失せる。ペールゼンも、キリコが死ねばいずれキリコを忘れるだろう。逆もまた然り、確かなものなど何もない。今日在るものが明日も在るとは限らない。
 誰かの流した血の上をキリコは走り、キリコの流した血の上へ、ペールゼンたちは次の兵士たちを送り込み続ける。
 キリコがどれだけ血にまみれようと、きれいなままのペールゼンの手だった。
 それを、恨むでも羨むでもなく、キリコはミラーグラスをペールゼンの膝の上へ返し、もう一度ペールゼンを、何の色も浮かばない瞳で見つめた。
 「おまえの番だ。」
 小さく、ペールゼンへ向かってあごをしゃくる。
 「何だと?」
 「今度はおまえの番だ。何か歌え。」
 長い間、こんな風な口のきき方をされた覚えはなく、ペールゼンは不意を食らって無様に頬の線を硬張らせる。驚きがとけた後で、幼い頃聞いた子守歌を思い出そうとしてから、それを途中で止めた。
 決して目をそらさずに自分を見つめるキリコの瞳の色に、歌を聴きたいと言うだけ以上のものを読み取って、ペールゼンは静かに眉の間を開く。返す声が、無意識に照れを刷く。
 「私の歌が聞きたいなどと、奇特な奴だ。」
 「──おまえの声なら、何でもいい。」
 言い捨てて、キリコは待つ姿勢で目を閉じ、見つめる代わりにか、ペールゼンの膝に手を置いた。
 迷うように唇を動かして、ついに思い浮かべた幾つかのメロディーの中から、選んだと言う意識もないまま、ペールゼンの喉が慣れない動きに震える。
 キリコは恐らく耳にしたこともないだろう言葉の、古い恋の歌を、ペールゼンは歌い始めた。
 ──わたしのあなた、あなたのわたし、夜の中に包み込まれて
 豊かで艶のある女の声で歌われるべき旋律だった。生まれ育った言葉ではないそれのつたなさを、キリコの耳が聞き取るわけもなく、ペールゼンは枯れて細まっている自分の声を気にはしながら、それでもキリコにだけは聞こえるかすかさで、請われたままに歌を続けた。
 ──わたしはあなたになり、あなたはわたしになる
 まるで聞き入っているように、キリコの閉じたまぶたがゆるく震えた。
 ──分けられないひとつになって、あなたはわたしに、わたしはあなたに
 恋人の歌を、キリコの知らない言葉で、ペールゼンが歌う。使う者のとうに果てた言葉で、ペールゼンが恋を歌う。キリコはそれを黙って聞いている。
 ──夜の奥で、わたしのあなたと、あなたのわたしと
 思い出し思い出ししながら、ペールゼンは歌い、その合間に、膝の上のキリコの手を、自分の両手の中に取った。
 幸いに怪我のなかったキリコの左腕を、ペールゼンは肘の上までそっと撫でた。ほんとうに眠ってしまったのか、キリコはそうされても身じろぎもせず、ペールゼンが手を握っても握り返しては来ない。もう聞こえてはいないのだろうと思ったのに、ペールゼンは歌うことをやめなかった。
 ──夜が明けるまで、あなたはわたし、わたしはあなた
 互いが互いのものであると、ただ歌い続けるそれを、やがて静かに歌い終わり、顔を向こうに傾け、ほんとうに他愛もなく眠ってしまったキリコの寝顔へ、ペールゼンは歌の続きのように、さらに低めた声でつぶやく。
 「──私のキリコ。」
 反応のないことに、安堵と失望の両方を感じて、ペールゼンは結んだ唇の端に自嘲混じりの苦笑を浮かべて、
 「私の、キリコ。」
 今度は、聞こえないことをむしろ期待しながら、もう少しはっきりと唇を動かした。
 取っていたキリコの手を毛布の下へそっと戻し、ペールゼンはベッドを離れる前に、キリコの額へ、親が子にそうする仕草で穏やかな口づけを落とす。唇に触れた青い髪の柔らかさが伝えるキリコの若さ──幼さ──に、眩しげではなく痛ましげに、改めて目を細めて、ミラーグラスを手に足音をさせずにドアへ向かう。
 もう一度お茶の用意をさせようと思いながら、それへ注ぐブランデーの量が増えるだろうこと予想してから、それなら最初からブランデーにするかと、埒なく考えて、もう部屋の中へは振り返らなかった。
 ふたつの異なった旋律の名残りに、ペールゼンの足音が重なる。それを聞く者は、今はもう誰もいなかった。

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