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限界Lovers - Sweethearts

 「誕生日だそうだな。」
 慌ただしく抱き合った後、そうなる前と同じに身支度を整えてしまってから、ペールゼンがぼそりと言う。あまりに低い呟きだったから、ひとり言かと、キリコはうっかり聞き逃しそうになった。
 「何だ?」
 キリコの方は、勝手に出したペールゼンのシャツを着て、下は耐圧服と言う、とても人前に出られる格好ではない。おまけにシャツの前はボタンも留めず、目を凝らせばペールゼンの手指や唇の跡が見え隠れしていそうだった。
 「何だ?」
 自分を見つめて来るペールゼンを見つめ返して、キリコはもう一度声を放る。
 「今日は、おまえの誕生日だ。」
 ミラーグラスのない裸眼が、ひどく優しく穏やかにキリコを見ていた。キリコは瞬間、不審を隠さずに眉を寄せ、他の星の言葉でも聞いたように、訝しげに軽く頭を振る。
 「──そうなのか?」
 今日が何日かなどと、考える暇もない前線暮らしで、今だけはペールゼンの私邸へさらわれるようにやって来て、誰にも知られずにこうして休暇中だ。数日とは言え、一介のAT乗りには夢のような時間だった。
 そしてペールゼンにとっても、必死で絞り出した休息の時間だった。
 ふっと、ペールゼンが苦笑を漏らす。誕生日など、何かの書類に書き込む時にだけわざわざ思い出す、キリコにとっては単なる自分についての事実を表す数字に過ぎない。けれどペールゼンにとっては、そのただの数字の羅列がいつの間にかひどく意味深いものになってしまっていた。
 自分の生まれた日に興味がないと同じほど、ペールゼンの生まれた日になど興味が湧くキリコではなく、その無関心さすら自分が魅かれるキリコらしさの一部だと、手放しで考えてしまうほど、ペールゼンはキリコに溺れ切っている。でなければ、こうして私邸にこっそりと連れ込んだキリコが、勝手に自分の私物に触れることなど、許すはずもない。
 ペールゼンの言動がどれほど普段の彼からかけ離れたことか、気づかないはずもないキリコだけれど、その特別さにまた増長するキリコでもなかった。
 いずれは元帥にと噂されるペールゼンの、特別の情人──ただそれだけのための存在、と言うわけではない、と言う意味合い──と言う立場を、キリコはありがたがるでもなく迷惑がるでもなく、水でも飲むように受け入れて、かと思えば抱き合う時には恐ろしいほど奔放に、ふとペールゼンは、これはもしかして自分の一方的な想いではないのではないかと、思わず期待する。
 これは、その期待の一部だ。
 ドアが静かにノックされた。ペールゼンはさっさとそちらへ歩を運び、半分だけドアを開く。キリコが、だらしなく素足を伸ばしているベッドと、キリコのくたびれたブーツや耐圧服が点々と散らばる床を隠すように、ペールゼンはドアの向こうの誰かを中には入れず、そこで何か低くささやき合った後、振り返った時には手に銀色のトレイを持っていた。
 ポットにカップ、そしてほとんど黒に見える濃い茶色の、甘い匂いの菓子の皿、それを手にベッドに再び近づくペールゼンと一緒に、コーヒーの香りがキリコの方へ次第に強く漂って来る。
 基地で腹に入れた昼食は簡単なものだったし、匂いから想像する菓子の味はキリコの食欲をそそり、特に空腹でなくても甘いものは珍しく、キリコは思わずペールゼンの方へ身を乗り出した。
 それでも、あくまでコーヒーの方が目当てだと言う貌(かお)で、甘い菓子に向かってうっかり浮かべた幼い表情──歳相応の──をペールゼンが見咎めたのには気づかず、普段は厳しく結ばれているその唇がごく淡くほころび掛けたのにも、キリコは気づかなかった。
 いつもなら、こんなことは使用人たちがして、ペールゼンは指1本上げもしないのだろう。トレイをサイドテーブルの上へそっと置き、取り上げた菓子の皿をキリコへ差し出した。
 「誕生日は、ケーキで祝うものだ。」
 「子どもじゃあるまいし。」
 受け取りながら、17になったばかりのキリコが憎まれ口を叩く。ペールゼンから見れば少年も同然のキリコは、子ども扱いにあからさまに怒った顔をして、それでも口元はケーキの匂いにすでにゆるみ掛け、緑にふた色寄った青い瞳が、ちらちらと皿の方へ動いている。
 「・・・まあいい。」
 華奢なフォークを取り上げ、小さな三角に切り取られたケーキの細い先端を、ひと口分切り取る。
 その時にはもう、ケーキから立つコーヒーの香りには気づいていたろう。コーヒーを好んで飲む──と言うよりは、恐らくコーヒーと水以外に飲む物を知らない──キリコのためにペールゼンが選んだ、オペラと呼ばれるコーヒーを使ったチョコレートの菓子だ。どこででもあるものではなく、あるからと言って気軽に手に入れられるものでもない。戦争中のこの世では、甘い菓子は常に贅沢品だ。
 ペールゼンはキリコがふた口目を口へ運ぶのを確かめてから、コーヒーをカップへ注いだ。
 かちりかちりと、フォークが皿に触れる音が続く。どうやら気に入ったらしい。カップを差し出した時には、ケーキはもう三角の広い方の端を、指先の幅ほど残すだけだった。
 フォークを置きもせずにカップを取り、両方一緒に手の中に持って、キリコが行儀悪くコーヒーを飲む。
 「・・・うまいな。」
 菓子のことかコーヒーのことか、どちらともつかずに低く言って、キリコはまたケーキへフォークの先を差し込んだ。
 これを用意するのに、ペールゼンがどれほど手間を掛けたか、容易に想像がつくはずだ。菓子だけではない。キリコに合わせて数日の、いや数時間の休みを取るのさえ、ペールゼンにとっては至難の業だった。
 この菓子と同じほど、この時間は贅沢だ。恐ろしく豊かな甘い香りは、その奥深さが、ふたりの関係の在り様とどこか似通っていると、らしくもなく詩的に、そして菓子に例える自分の青臭さへの苦笑も含めて考えながら、ペールゼンは菓子の小さなかけらをフォークでかき集めているキリコを、そうとは知らずにいとおしげに見つめている。
 「これも──食べるといい。」
 自分用の皿を、キリコへ差し出してやる。
 「おまえは、食べないのか。」
 「私の分はまだある、心配するな。」
 今度は素直にペールゼンの皿を受け取り、代わりの空の自分の皿を差し出して、キリコはすぐに最初のひと口をフォークで切り崩した。
 「誕生日のケーキは、ひとりで食べるものじゃないんじゃないのか。」
 すでに、ふたつ目のひと口目はキリコの口の中だった。唇の端にチョコレートの汚れをかすかにつけて、キリコが窺うように訊く。
 「私は後で食べる。だから──」
 キリコが腕を伸ばして来たのは、コーヒーのカップを取り上げるためだと思った。そうはせず、その手はペールゼンの軍服の上着を掴み、ほとんどベッドへ引き倒すように引き寄せて来た。
 「ひとりで食べても、美味くない。」
 寝乱れたままの、しわだらけのシーツの上へ食べ掛けの菓子の皿を置いて、キリコは自分の膝の上へ倒れ込ませたペールゼンをそのまま抱いた。抱き寄せたと同時に、唇が触れた。
 呼吸が甘い。文字通り、砂糖とチョコレートとコーヒーの香りの混じる、菓子のように接吻が甘い。ペールゼンはキリコの膝の上で体の力を抜き、そのままキリコの下へ組み敷かれるのに、まったく逆らわなかった。
 ベッドが揺れ、皿の上でフォークが音を立てる。菓子も、ぱたりと横倒しになった。
 体の位置が何度か入れ換わった間に、ペールゼンは菓子の皿を何とかトレイの上へ戻し、それから改めてキリコの両腕の中へ引き寄せられ、取り込まれる。
 キリコの唇に残っていたチョコレートの汚れは、ペールゼンの唇がきれいに拭い取ってしまった。
 チョコレートではない汚れが、ペールゼンのシャツの裾に染みになって広がり、それは唇や舌では拭い取れず、キリコの残すその跡を洗って消してしまうのを惜しいと、ペールゼンはふと思う。
 近づいて来る唇のキリコの呼吸が、まだ十分に甘く匂い、それを移して、ペールゼンの息と膚からもコーヒーが香った。
 美味かったと、キリコがペールゼンの耳元でささやく。菓子のことか、接吻のことか、それともこうして抱き合っている、そのことか、曖昧にさせたまま、ペールゼンは下からキリコを見上げた。ペールゼンにとっては、キリコこそ、あの菓子と同じほど甘(うま)い。
 互いの名を呼び合うふたりの声が、今同じように甘い。

「普通の日々」 by fbkさんに捧ぐ。
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