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限界Lovers - Falling Apart

"(前略)ロングコート来たペールゼンが物思いにふけってたら
人の気配がしたからメンケンだと思って
「今日は体調がいい、ドクター」って言ったら
「そうか」って答えた声の主がキリコ(後略)"
tweeted by @fbk_r18

 しのつく雨は次第に髪を湿らせて、頬やこめかみにはりつき始めていた。
 ミラーグラスとまぶたの間にも静かに雨は滑り落ちて来て、頬を伝わるそれは、見れば涙のようにも見えた。
 ペールゼンはそれを拭おうともせず、ただそこへ佇んでいる。雨の湿りと冷たさ、それがペールゼンの膚を冷やし、血を冷やし、身内に沈黙がたまってゆく。ペールゼンはその静けさへ沈み込んで、心地よい孤独が全身を包み込んでゆくのを感じていた。
 外界から切り離されてた、この奇妙に豪奢な牢獄の中で、ペールゼンは自らを護る殻の中へひとり閉じこもる。雨に濡れ、涙と見紛うそれへ溺れている風に、けれどペールゼンの精神(こころ)は幾重にも取り巻かれた強固な自我の中で、誰の侵入も許さずに、孤高で在り続ける。
 頭をこじ開けて中を覗いたところで、そこにあるのは灰色の脳みそと言う、ただの器官だ。ペールゼンの心は誰にも覗けない。覗かせはしない。
 ペールゼンはあごを上げ、雨空を軽く見上げた。唇に雨が当たる。首筋に冷えが這い下りて行ったけれど、気にはならなかった。
 もう少しここにいたいと、そう思った時、背後でかすかな足音がした。
 部屋にいないペールゼンを探して、きっとメンケンがやって来たのだろう。中に戻って下さいと、あの、無味乾燥な声──けれど常に思いやりのこもった──が言うより先に、ペールゼンは軽くあごの先をそちらへ向けて、
 「今日は体調がいい、ドクター。」
 淡く笑いを含めて声を投げた。
 雨の湿りに、いつもよりもまろやかに響いたその声は、けれど雨よりもずっと冷たい青い瞳に受け止められ、ペールゼンは驚きに、ミラーグラスの奥で濃い金色の瞳を大きく見開く。
 「──キリコ──。」
 思わず首が伸び、体もつられてそちらへ動く。ロングコートの裾が、ふわりと雨の中で舞った。
 「冷えるぞ。」
 心配そうな表情でもなく、声音でもない。それでも、ペールゼンの耳には、自分を思いやる響きに満ちた声に聞こえた。
 「・・・今日は、気分が、いい。」
 声の根が震えているのが自分で分かる。けれどキリコはそれを聞き取ったのかどうか、いっそう表情の失せた能面で、
 「そうか。」
 短く言ったきり、2歩手前で足を止めたまま、それ以上近づいて来ようとはしない。
 濡れるのは、キリコも同じだ。着古した風の耐圧服も青い髪も、ペールゼンのそれと同じように、次第に雨の滴りに湿ってゆく。
 なぜここにいると、訊くことができなかった。まさか私に会いに来たのかと、問うことを思いつきもしなかった。そうなら、ウォッカムの差し金に違いなく、けれど目の前のキリコに神経のすべてを奪われて、ペールゼンは恐ろしく動揺していた。
 キリコ以外の何も、心の中には入り込んで来ない。自分の、せっかく静かに築いた孤独を易々と破って入り込んで来たキリコを、ペールゼンはけれど間違いなく歓迎している。この世界の誰も侵入させない自分の胸の中へ、ペールゼンはキリコを招き入れ、そしてそこへとどまってくれと、無言のまま願っている。
 よろめくように、ペールゼンは爪先を前へ滑らせた。キリコへ半歩近づいて、キリコが自分を見つめたまま身じろぎもしないのを確かめて、もう半歩、前へ出た。
 「キリコ──。」
 返事はない。キリコはペールゼンを見つめて、けれど視線の色合いは、路傍の石でも眺めるようで、そんなキリコの瞳を見れば見るほど、ペールゼンは焼け付くような焦燥で、胸の辺りに鋭い痛みすら感じた。
 すべてを捧げて、ペールゼンが手に入れたいと願ったもの。それは単なる所有ではない。支配ではない。自らを焼き焦がすような暗い情熱の果てに、ペールゼンが思い知ったのは、この男は、決して誰のものにもならないだろうと言うことだ。ペールゼンも含めて、誰もこの男を手に入れられない。
 そうか、と、ペールゼンは思った。自分のものにはならない。だが、他の誰も手に入れられはしない。キリコはただ、永遠にキリコであると言う、ただそれだけのことだ。私のキリコと、幾度心の中で思ったろう。思い、願い、祈り、そして呪いすらした。
 私のものにはならない。そして誰のものにもならない。それならいいと、思ったこともあった。私が手に入れられないキリコが、他の誰にも触れられないなら、それでいいと、思ったこともあった。
 今は違う。キリコとふたりきり、雨の中で見つめ合って、ペールゼンは自分を焼き焦がす絶えない情念のその炎で、キリコを焼き尽くしたいと思った。キリコとともに、無に帰すのだ。在るから苦しいのなら、無にすればいい。そうすれば、この苦しみが終わる。
 知らず、キリコに向かって腕が伸び、ペールゼンはその頬へ向かって指先を差し出していた。自分のそれと同じように雨に濡れた、泣いているように見えなくもないキリコの頬へ、ペールゼンは掌を重ね、キリコは瞳も動かさず、ただされるままだった。
 抱きしめたら、もう手放せはしないだろう。無に帰すなどとてもできず、一体自分がどうしたいのかと、ペールゼンは混乱と動揺の中で心をひどくかき乱されながら、また思った。幾度も幾度も思った同じことを、また思った。
 キリコが欲しい。それだけだ。キリコを手に入れると言うことが、一体どういうことなのか、もう自分でも分からず、ペールゼンは闇雲に、キリコに触れて抱きしめて、もう絶対に放したくはないのだと思った。
 「──キリコ。」
 声がはっきりと慄える。千々乱れる想いに枯れて細まったその声へ、けれどキリコはその震えに気づいてさえいずに、受け入れているからではなく、感情のひと筋も乱されないからこそ、瞳の揺れさえなくペールゼンを見つめ続けている。
 ペールゼンの心は激しく揺れ、キリコのそれは微動だにせず、同じ雨に同じように濡れながら、ふたりは銀河の果てと果てよりも遠く隔たっていた。
 そして、ペールゼンを襲ったのは、絶望だった。重苦しい、体中の骨をばらばらに砕く、絶望。足元が崩れ、視界が歪み、耳の奥で血の流れる音が轟音になってペールゼンの脳を埋め尽くした。
 雨と雲に、灰色に覆われていた視界の中、キリコだけが鮮やかな青に縁取られていたそこから、色が失せてゆく。灰色の絶望の中へ、キリコの姿がにじみ、溶け消えてゆく。キリコの幻が無に還る。キリコとともにと望んだペールゼンは、再び雨の中に、ひとりきり佇んでいる。孤独が、岩のような重さでペールゼンにのしかかって来た。
 「閣下!」
 その場に崩れ折れそうになった膝が、突然割り込んで来たメンケンの声で不意に力を取り戻し、ペールゼンは反射的に背筋を伸ばしていた。
 「こんなところで──。」
 メンケンの白衣の白さが、現実に引き戻されたペールゼンの瞳を突き刺した。自分へのいたわりを隠しもしないメンケンの、声の響きに心の端を慰められながらも、ペールゼンの煩悶はまた新たに胸の奥へ居坐って、心臓へ届く血管を噛みちぎろうとしている。
 ためらいもなく自分の肩に触れ、体を支えようとして来るメンケンの腕に逆らわず、ペールゼンはそちらへ上体を傾けた。
 「中へ、早く。」
 掌を差し上げ、そうやって避けられるはずもないのに、メンケンはそうせずにはいられないのだと言う風に、必死にペールゼンを雨からかばう。
 メンケンの腕に抱き取られるような姿勢で、ペールゼンはキリコがいた場所を通り過ぎながら、そこへ振り向かずにはいられなかった。
 雨はやや勢いを増し、今ではメンケンも濡れ始めている。けれど頬を伝うそれは涙には見えず、ペールゼンはミラーグラス越しにメンケンを盗み見ながら、目の先に追いかけているのはもう見えないキリコの姿だった。
 目の奥と頬が不意に熱くなる。雨に混じるそれは確かに涙だったけれど、ペールゼンは気づかず、メンケンにも気づかれず、滴り落ちたそれはブーツの底に踏みにじられて、浅くできた水たまりに紛れて消える。そこから跳ねた水滴が、波紋を生み、それもじきに消え、水たまりに映る人影も、もうない。

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