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* 140字SS向けのお題(日常系・恋愛系) *

限界Lovers - 薄れゆく残り香

 ペールゼンの、動くたび裾の大きく揺れる外套の、肩の内側へ掌を差し入れる余裕すらなかった。
 唇を盗むのが精一杯の、わずか数分の逢瀬。監視カメラだらけの基地の中の、死角をそれでもきちんと把握していて、そのわずかな空間に絡めるように重ねた体を滑り込ませて、唇が重なったすぐ後に、ペールゼンの軍帽が床に落ちて転がって行った。
 ペールゼンに向かって背伸びしたキリコは、きちんと整えられた髪を乱してしまうと、後で困るのだろうと思いながら、撫で付けられた辺りへ指を潜り込ませずにはいられない。
 キリコの方へ体を傾けながら、唇はまだ少し慎ましげに、ペールゼンは人の気配を気にしてかどうか、キリコほどはまだ熱のこもらずに、そのくせ両腕の輪はキリコを取り込んで、指先は耐圧服のハーネスの下へ意味もなく滑り込んでいる。
 肌を、たとえ1ミリも剥き出しにすることはできず、唇を互いの呼吸に湿らせるのが精一杯だった。
 浅く重なる唇の奥で、代わりのように舌は触れ合って絡み合って、ペールゼンはキリコの喉の奥の熱さを思いながら、じきに自分を探しに来るだろう部下の足音に耳をすませている。
 冷ややかなままの脳のこちら側と、キリコに向かって雪崩れ込むしかなくなっている、溶けてしまったあちら側と、引き裂かれても、我を失うことはできずに、ペールゼンは大佐の貌(かお)をあくまで保ちながら、自分の内心が自分を裏切りつつあるのを、どこか心地良く眺めてもいた。
 床に外套を脱ぎ捨て、それをブーツの下に踏みしだきながら、せめて背中か肩か、あるいは腕か、わずかでも露わにした素肌をこすり合わせることができたら──けれどここから半歩でも動けば、ただちにふたりの姿を監視カメラがとらえるに違いなかった。
 今さら、情人のひとりやふたりで揺るぐようなペールゼンの立場でも権勢でもなく、けれどキリコをそんな情人と思われることにつきまとう、説明のできない不愉快さが、ペールゼンの口を噤ませている。
 ペールゼンの、公然の秘密。ペールゼン自身に特に隠す気はなく、けれど、キリコの立場ではペールゼンの慰み者以上の扱いにはされず、実際にそのような関係だと言うのに、キリコをそう扱われることに、ペールゼンは耐えられない。
 それを、自身の矜持ゆえとあっさり周囲が思う程度に、ペールゼン自身が認めてしまえば楽なのに、いやそうではない、とペールゼンには自分の否定の声が聞こえる。端から見れば情人でしかなく、事実キリコはペールゼンの情人なのだけれど、そうではなく、キリコは自分にとってそのようなものではないのだと、ペールゼンはずっと自分の中でつぶやき続けていた。
 では何だ、と自問しても、はっきりとした答えはない。慰んでいるつもりはない。飽きればあっさりと捨てて忘れられるとは、とても思えない。むしろこうして、たとえ数分でも触れ合っていたいと、こんな風に、自分の立場も弁えずに、キリコとふたり基地の中で姿を消して、飽きもせずに貪っている。
 会いたいと思うのは自分の方だ。自分の引く手をキリコは拒まず、むしろ今貪られているのは自分の方だと思いながら、心の傾斜は自分の方が急だろうと、ペールゼンは素直に思った。
 愛しているのだと、小さな声がした。その声を聞いた自分の中に、とどろくように驚きが拡がってゆく。まさか、と思いながら、キリコを抱く腕に力がこもった。弱々しい否定は、するりと舌の裏へ滑り込んで来たキリコの舌の熱さにかき乱されて、たちまち霧散して跡形もなくなってしまう。
 情動だけではない。キリコを抱きたいだけではない。触れ合えなくても、ペールゼンは変わらずキリコを想うだろう。欲しがる気持ちを深めて、死んだ後もそれはこの世のどこかに残るだろう。
 自分は、キリコを愛しているのだと、ペールゼンは思った。
 遠くから近づく足音を聞いて、ふたりは、唇を合わせたまま視線を合わせた。引き剥がすように肩を唇を外し、するりとペールゼンの前を抜け、キリコは監視カメラの視界へ姿を晒すと、そこに転がったままだった軍帽を拾い上げ、わざとカメラを見やる。カメラを見ている誰かは、キリコの視線の強さにきっと怯んだろうと、自分もそこへ姿を現しながらペールゼンは思った。
 キリコの差し出した軍帽を受け取りながら、ペールゼンはキリコの指先に触れた。まだ呼吸の湿りの残る唇は、けれどもう重ねる時間はなく、引き結ばれたまま、互いの名を呼ぶこともない。
 受け取った軍帽から、ペールゼンの使う整髪料がかすかに香り、見つめ合ったままふっとなごんだように目を細めたのは、ふたり同時だった。
 すれ違うように、ふたりは逆の方向へ歩き出す。背を向けて、ペールゼンは、もうそこまで来ている足音に向かって。キリコは、そのペールゼンから遠ざかって。
 立ち去るキリコの首筋に、ペールゼンの髪の香りがまといついていた。進む1歩ごとに薄れてゆくその香りへ、眉を寄せたその表情を切ないと呼ぶとキリコは知らず、ペールゼンは見ることもかなわない。

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