戻る

* 選択お題@TigerLily *

限界Lovers - 追いかける

 分刻みのような軍隊での生活も、怪我があれば少しの間だけ逃れることができる。
 軍医にわずかに圧力を掛けて、ペールゼンは昔傷めた目がどうもおかしい、キリコの方は骨折の治りが遅いと言うことにして、ひっそりと過ごすふたりの時間だった。
 キリコの骨折は事実だったけれど、回復の速さはいつも通りで、もう折れていた左腕は自由に動かすことができた。ペールゼンの方は、視界が少しおかしいと言うのはほんとうで、けれどそれは昔の古傷のせいかどうかは怪しいものだった。
 こんな危ない橋を渡りでもしなければ、数分顔を合わすことすら難しいふたりは、ペールゼンの私邸で誰の邪魔も排除して、だらだらと怠け切った時間を一緒に過ごしている。
 耐圧服以外私服も手持ちにはないキリコは、ペールゼンの普段着に着替えて、裸足でぺたぺたとそこら中を歩き回り、ペールゼンの書斎の本を好きに取り出し、真剣に読んでいるようなただ時間潰しに字面を追いかけているだけのような、ソファに長々と寝そべってページを繰る指だけは止めない。
 ペールゼンも、シャツのボタンを上の方はふたつも外して、自分も読書の傍ら、時々キリコの側へやって来て髪を撫でてゆく。
 手を触れ合い、指先を絡め合い、その延長でついばむような口づけを続けて、けれどふたりのもう一方の手から本が離れることはなく、また別々の読書へ、一緒に戻ってゆく。
 ペールゼンにとっては、もう何度も何度も繰り返し読み返した本ばかりで、今手に取っている本ももう読むのは何度目──何十回目──か、本の半ば、ページの半ばでふと字を追うのに飽き、キリコの邪魔をしないように音をさせずに本を置いて立ち上がると、部屋の向こう側、窓際のいちばん奥にあるピアノの方へ、そっと近づいて行った。
 ペールゼンの祖母の持ち物だったそれを、幼い頃に習ったこともあったけれど、軍人としての人生が始まってからは触れることも滅多となく、音楽は好きでも演奏することについては無能と早々と思い知って、ペールゼンにとってピアノは、美しい置き物以上の意味を持たない物になってしまっていた。とは言え、見た目の美しさも、指先に伝わる重厚な感触も、鍵盤を押さえれば出る柔らかな麗しい音も、それだけで十分ペールゼンを愉しませてくれるし、これを持ち重りのする、場所塞ぎの邪魔ものだと思ったことは一度もない。
 動く自分を、キリコが目で追っているのを背中に感じて、ピアノとは印象はまったく違うけれど、キリコも同じように、自分も目や耳や触感を愉しませてくれる大切なものだと、ペールゼンはふと思った。
 誰も弾く者はなくても、調律はきちんとしてある。できる人間を確保するのがいつも大変だけれど、それでも美しいものをできるだけそのまま保っておきたいと言うペールゼンの、いつどうやって培われたものか、そのような美意識は軍人としての彼の生き方にも表れていた。それが自慢たらしく見えて鼻につくと、眉をひそめる向きもないでもない。そしてその、美をこよなくいとおしむペールゼンの情人が、よりによってAT乗りの一兵士だと言うので、ペールゼンのその美的感覚とやらも一体本物かどうかと、せせら笑う声がペールゼンの耳にも届いている。
 ペールゼンは、それらを嘲笑するためではなく、淡く唇の端を上げた。このキリコの、真の価値が分からないなら、それはもう趣味以前の問題だ。説明も釈明も必要はない。キリコはキリコであると言うだけで、この自分にふさわしい存在なのだと、ペールゼンは思いながらピアノに触れた。
 ふたを開け、鍵盤をひとつ押す。押し込むようにすると、ぽーんと、長くゆるやかに音が響き、高い天井目指してからどこかでゆっくりと消えた。その音の行方を追うようにペールゼンは天井を仰ぎ、それから、わずかの間迷うような表情を浮かべてから、そっと椅子に腰を下ろす。
 両手の指を広げて、楽譜もないまま覚えている旋律を弾く。両手はまだ何とか動き、もたつく指には苦笑をこぼし、8小節から先がまったく思い出せずそのまま指は止まる。こうだったかと、右手の人差指と親指を動かして、何とか9小節目と10小節目を思い出し、けれどやはり13小節目で再び手の動きは止まった。
 キリコが、寝そべっていたソファから起き上がり、ピアノへ向かってやって来る。
 一応は興味を示すのが礼儀と思ったのだろうと、ペールゼンは近づくキリコに微笑みを向け、椅子から立ち上がろうとした。
 「もう1回聞かせてくれ。」
 世辞でも追従でもなさそうに、意外に本気の声でキリコが言う。ペールゼンは驚きを眉の間に浮かべて、それでもまた、たった今弾いた通りを改めて弾いた。今度は、もう少しましに手指が動いた。
 弾き始めると記憶が戻って来るものか、今度はなめらかに15小節まで行き、少したどたどしく、迷いながら20小節目までたどり着く。そこで残念そうに指を止めると、不意にキリコがペールゼンのすぐ側へ寄り、そこから腕を伸ばして来た。
 「案外、重いものだな。」
 鍵盤をひとつ押し込んで、キリコが言う。自分の指の隣りにあるキリコの指先に、ペールゼンは心臓の跳ねる思いがして、さり気なく自分の手を鍵盤から遠ざけた。
 「ゆっくり弾いてみてくれ。」
 一体何に興味を引かれたのか、キリコが言い継ぐ。頼みと言うよりは命令めいて、ペールゼンにこんな口の利き方をする者は今では元帥くらいのもので、気を悪くするでもなく、ペールゼンは再び指を鍵盤に乗せる。
 速度を3倍くらい落として、弾きながら眠ってしまいようなテンポで、同じメロディーを奏でた。
 キリコは、ペールゼンの右側から後ろへ移り、肩越しに、曲を聞いていると言うよりもペールゼンの手指の動きを観察している。さっき弾いたところまで弾いてペールゼンが演奏を終えると、
 「もう1回、もっと遅く。」
 これも手短に、言いたいことだけ伝えて来る。ペールゼンは振り向きもせず、また指を動かし始めた。
 そうして、子どもでもあやすような速度の動きに、不意にキリコの手が伸びて来る。ペールゼンの手に自分の手を重ね、指に指を乗せ、キリコも一緒に、ペールゼンとピアノを弾き始めた。
 どれほどゆっくりではあっても、キリコの指は当然後追いしかできず、まるで鍵盤の上で鬼ごっこでもしているように、ふたりの指は追いかけ、追いつき、触れ、離れ、また追いかけてゆく。輪郭の違う指と、大きさの少し違う掌と、ペールゼンの両手とキリコの片手と、15本の指が、1本1本が別々の生き物のように、鍵盤の上で走り回った。
 曲はまた終わる。手の動きが止まる。重なったまま、キリコの手指はそこから離れず、ペールゼンはそれに目を凝らした。
 自分のそれよりも、やや荒れの見える手。皮膚はなめらかでも、ATの整備や銃の手入れや、そんなもので始終小さな傷を増やしている、兵士の手。機械油で汚れることを嫌ってか、爪が恐ろしいほど短く刈り込まれているのが、痛々しくすら見える。
 「キリコ──。」
 思わず、意味もなく呼んでいた。
 ピアノを弾く手ではない。これは明らかに、常に最前線で死に晒される、一兵士の手だ。ペールゼンたち将校が動かす駒である、もう人ですらない、ただの兵士である者の手。
 その不公平を憐れと思うほど傲慢にもなれず、ペールゼンはただそこからキリコの手を取り、自分の口元へ引き寄せた。
 キリコの皮膚に染み付いた、ポリマーリンゲル液の匂い。機械油の匂い。AT独特の、金属の匂い。自分が身にまとう整髪料の香りから程遠い、それらの匂いを、ペールゼンはキリコの指先から胸いっぱいに吸い込んでいた。
 キリコが、ペールゼンの肩越しに身をかがめて来る。指先が滑り外れ、代わりに、唇が近づいて来た。
 ぞんざいに短く刈られた青い髪。それへ、ペールゼンは、鍵盤に触れたと同じ穏やかさで触れる。
 ピアノよりももっと深いキリコの音を探り出すために、ペールゼンは口づけの先を思って、キリコに触れられる自分は、ATのように素早く動けるのだろうかと考えた。
 キリコの頬へ伸びるペールゼンの手を、キリコの手が追いかけて来る。互いの手の行き先を追って、いつの間にか胸同士が重なっていた。
 押し殺したキリコの声が、天井へは届かず、床のどこかへ吸い込まれて消えた。

戻る